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ミロと、海のような日本

2月11日、お茶のお稽古の後に少し時間があって「ミロ展―日本を夢みて」を初日で観に行きました。

この展覧会を楽しみにしていました。ミロの作品が好きだというより、自分の中ではずっと謎でした。中高生の頃は美術部に通っていて、ミロの作品を初めて観たのはあの頃でした。クレーやカンディンスキーのような画家と同じアルバムに収録されていて、何回見てもどっちがどっちかが分からなくなるような感覚だったのを覚えています。(笑)それでも、子どもの頃に観ていて今は懐かしく感じるからか、あるいは大人になった今やっと彼の作品を楽しめるようになったかもしれないと期待していたからか、ゆっくりと時間をかけてミロの作品を観るのを楽しみにしていました。

期待していた以上の収穫がありました。同じ時代を生きたヨーロッパの多くの画家たちのように、ミロもジャポニズムに影響を受けていたことについては、どこかで読んだことがあると思いますが、今回の展示はその影響のスケールを把握できる機会を与えてくれました。

ミロの場合、ジャポニズムの影響が少し捉えがたいかもしれません。日本の事をあまり詳しく知らない人でもゴッホやモネの一部の作品を見れば、そこに日本の雰囲気を感じさせる何かが見えます。しかし昔はミロの作品を見て、そこに日本的なものを感じたことはありませんでした。

日本に住んで、茶室をはじめ生活の中であらゆる場面で文字や古典的な書、現代的な書などにも触れてから久しぶりに観るミロの作品を目の前に「あれ、その線は文字に見えるのではないか⁉」という驚きを覚えました。それで思い出しました。学生の頃は、ミロの作品に出てくる不思議な線の意味が分からなくて、分かろうとする気持ちも諦めて、色の配置などだけ、つまり当時の自分になんとなくフォローできた要素ばかりに注目していたと思います。

漢字を利用しない文化に生まれた人が漢字を初めて見た時の感覚を、この文章を読んでいるみなさんにぜひ想像してみていただきたいです。その文字が書であれば、線を見て生命力とか、力強さとか、カスレやぼかしからは「消滅の危機」や「無常」などのようなものが感じられるかもしれませんが、何が書いてあるかが分かりません。読めても多くの場合は意味がよく分かりません。そして、目の前に並んでいる文字のほかに、何万もの別の文字も存在していると思うと、その書を理解するのは無理だと思い、笑いながら諦めの気持ちを覚える方が少なくありません。

20世紀のはじめ頃に万博などを通してヨーロッパの国々にたどり着いていた日本の絵、書やそのほかの商品を、ミロさんも同じ気持ちで見ていたのかもしれません。不思議で面白くて、何に使うかが分からないものばかりで、その謎めいたものを近くに置くだけで喜びを感じるという。

それでミロさんは人を似たような感覚にさせるような絵を描きたくなったのではないかと思います。彼の作品に何気なく登場する不思議な線は、始まりも終わりもないような、各文字が史上で一度だけ使われるような書記体系の文字を描いています。

ミロにとっては日本の文化は謎や驚きに満ちていて、常に遊びや探検へと呼びかけてくれる、とても刺激的なものだったと思います。日本の詩人との交流が深まってからのミロの作品から特に、日本のものを扱う時の喜びや自然に表に出てくる遊び心が感じられます。

ミロの作品を観て、日差しの下で煌めく海を見ている子どものイメージが思い浮かびました。外から見た日本はまさにキラキラしている海のようです。海の中で泳いでいる魚たちには、完全に違う風景が見えますが... 外から見ても中から見ても海は海です。尽きることのない創造力に富んだ海。

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