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冷静な「川モデル」、熱気の「井戸モデル」、温かい「川中モデル」

 物事を考えるときの視点に「川モデル」という考え方があります。対象が、川をはさんだ向こう岸にあると想定して考える。川は、客観性の象徴。川向こうの対象をみている自分は、冷静でいられるはずという考え方です。  

 「井戸モデル」とは、自分という井戸の中をのぞきこみ考えます。商品開発担当者なら、自分自身も消費者の一員と考える。井戸は、主観性の象徴ということ。 のぞき込んだ井戸の底には、様々な欲望がよどんでいて。井戸の底は地下水。もしかしたら、熱い情念で温泉の源泉のようになっているかも知れません。いずれにしても、隣の、その隣の、そのまた隣の-----色々な人々の井戸とつながっている。自分の無意識を潜っていって、いま自分が欲しいなと思うものを見つけ出して形にしていく。それは、地下水、あるいは温泉水を通して伝わってくる他の人の欲望も反映しているわけです。  

 「川モデル」は、大きく対象の特性や向かう方向性を、確認するのに役立ちます。でも、対象は何を欲するかといった微細な部分に関しては、精度が荒いでしょう。何より、存在していない新しいものを開発したいときは、「井戸モデル」でなければ難しい。開発者自身が欲しいもの、それは消費者の深い欲望の流れに、地下水のように通底していて、何かしら共通するものがある。そうした共振と呼べるような微振動を感じつつ、アイデアを拡げていくのです。  

 で、これで話が終わっても良いのですが、最近、「川中モデル」を忘れていたなと気づきました。川の向こうを眺めて、冷静に分析をするのでもなく、井戸をのぞきこんで、自分の無意識の熱い源泉に手を入れてみるのでもない。「川中モデル」とは、川の向こうの人々と、川のまんなか辺りで共同作業をする感じ。川の向こうの人々を、調査対象者として突き放して観察するのではなく、ともに何かを作り上げる仲間とみなすことで見えてくるものがあると考えます。

 最近、多いと思いませんか。みんなで社会問題に取り組むなかで、創造的な「解」を求めていく試み。冷たい目線で客観的に捉えるのでもなく、一人沈潜して、無意識から原石を拾い上げるのでもない、ワークショップ方式と言えばいいのかしら。科学研究に見られるような冷静な「川モデル」、アート制作のような熱気の「井戸モデル」と比べると、温かい人肌感覚の「川中モデル」と名づけてみましょうか。

 「見晴るかす」という言葉があります。手をかざして、川向こうをじっと見る。そして、「のぞき込む」。暗かった井戸の底も、目をこらしているうちに、見えてくるものがあります。最後に、「手をつなぐ」。前の二つが、近代に特有な個人主義的な匂いがするのに対して、少し違う考え方が力を持ってきた。そうした実感を持っています。


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