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文舵、練習問題⑦〈追加問題〉

練習問題⑦〈追加問題〉
 問1について、三人称限定ではなく一人称で、別の物語を声にしてみよう。

練習問題⑦の続きです。三人称で書いた文を一人称で書き直す課題。元の文はこちら

唐木田悟志の一人称
 首を小刻みに振り、チラチラと左後ろの方をうかがう。自分でも見過ぎだと思う。こんなに見ていたらそのうちバレる。でも気になってしょうがない。ついさっきだった。中吊り広告に見ていて、何気なく目線を下げた時、大学時代の指導教員である、上村さんの姿が目に入った。信じられなかった。なんでここに上村さんが。それでもう一度見た。やっぱり間違いなかった。ドアにもたれかかって窓の外を眺めている。黒縁の眼鏡にスヌーピーのTシャツ、それにくたびれたジーンズ、あの頃と同じだった。距離は六メートルくらい、電車内は空いている。気づかれていてもおかしくない。
 あの時のことが頭を過る。大学の頃から引き続いてやってた研究が、修士課程で行き詰まった。一人ではどうしようもなかったから何年かぶりで母校を訪れた。僕が上村さんの部屋のドアを開けると、上村さんは、ウェルカムバック、と言って、底抜けに明るい笑顔で迎えてくれた。けれど、博士課程でこの大学に戻ってきたいと伝えると、途端に表情を硬くし、それはできない、ときっぱりと断ってきた。
 僕は一人で難問に立ち向かった。先輩も助手も教授もサポートはしてくれた。だが畑違いの分野だったから、問題の核心を議論することはできなかった。一年ほど粘って僕は諦めた。大学院を中退し、就職すると決めた時、上村さんに伝えるか迷った。しかしあの日の別れ際、上村さんが見せた冷たい目つきが頭にちらつき、どうしてもできなかった。
 また左後ろをうかがう。前を向く。どうしよう。隣の車両に移動するべきかもしれない。いや、あと一駅だ、やり過ごそう。だけど、どうしても気になる。また左後ろを見ようとしたその時。腕に痛みが走り、右を向くと妙子が不機嫌そうな顔をして、僕の二の腕をつねっていた。妙子はさっきから今日のデートで観た映画の感想をしゃべっていた。いつもなら聞いてなくても気づかせずにやり過ごせるのに、今日は全くうっかりしていた。おい、さっきから何あっち見てんだよ! 妙子が怒鳴る。ポニーテールが左右に揺れる。こうなったらもう手がつけられない。僕は前を向いて黙り込んだ。上村さんが気づかないことを祈る。
 電車が止まると妙子はすたすたと右に歩き出した。僕は慌てて追いかける。大学時代の恩師がいて気まずかったんだと言い訳するが、妙子は聞く耳をもたない。これは面倒なことになったと思っていると、妙子が急に立ち止まった。こちらを見る。いや、僕じゃない。もっと右。僕も右を向く。と、そこに笑顔の上村さんがいた。なんでここに上村さんが。僕は頭が真っ白になった。上村さんは微笑んでいる。なぜ、なんで、思考が空回りする。ちょっと間があって、仲良くね、と口にすると、上村さんは駆け出した。頭がハテナマークだらけの僕をよそに、上村さんは目の前の階段を一段飛ばしで駆け上がっていった。

上村秀直の一人称
 髙そうな紺のポロシャツに爽やかなベージュのチノパン。バンドTシャツにジーパンという服装だったあの頃とは大違いだと思う。窓の外の夜景に右目をやりながら、左目で向こうのドアの方をうかがう。こんな風に横目でものを見るのはいつ以来だろう? 映画の緊迫した場面みたいだ。相手に気づかれないように頭を動かさず、それでいて、はっきりと相手の姿を追うために目に力を込める。気になってしょうがない。唐木田悟志。大学の教え子が向こうのドアの前にいる。大変優秀な学生だった。二駅前に彼が乗り込んできてすぐに気が付いた。他の学生なら近づいていって声をかける。だけど彼には無理だ。唐木田さんに何と声をかければいいのか、僕にはわからない。
 三年前のあの時、彼は大学に戻ってきたいと言った。力を貸してほしい、自分一人では限界にきている、と彼は必死で訴えた。だけど僕は冷たくあしらった。今の大学で新たしい研究を始めた方がいい、僕だってあの問題は散々考えて撤退したんだ、君は別の問題を考えた方がいい。それでも、できるだけ柔らかく言ったつもりだった。でも、そうは伝わってなかったのかもしれない。唐木田さんはあれから僕の元を訪れなくなった。彼の大学院の指導教官から、彼が大学院を中退し、メーカーに就職したと聞かされた時、僕は胸が引き裂かれる思いだった。あの時の選択は間違っていたのかもしれないと自分を責めたし、相談もなく決断した唐木田さんに憤った。ムチャクシャはしばらくは収まらなかった。
 窓の外を見る。この辺りは夜になるとまっくらだ。挨拶すべきだろうか。当然挨拶すべきだ。無視するなんて人の道にもとる。でもなあと横目であちらをうかがい、また窓の方に見る。やっぱり気まずい。あっちも気まずいだろう、きっと。さっきからチラチラこっちを見るのに、こっちに来ようとしない。あんなにこっちを見て、バレてないと思ってるのかな? 横目で見ればいいのに馬鹿正直なやつだ。ああいうとこは昔のままだ。そう思って僕は目を細めた。と、大きな声がして反射的にあちらに顔を向けると、唐木田さんに向かって女の人が怒鳴っている。僕は首を傾げたがすぐに、ああ、彼女か、と納得した。なるほど、デート帰りなんだな、何か考え事をしていたんだろう、いや、僕の方をじろじろ見てて、勘違いされたのか、おお、すげぇ大声だ、気性が激しい子だ、唐木田も必死だな、妻が切れだすと僕もあんな感じだ、だけど何だか幸せそうだ、よかったよかった、なんてつらつらと考えながらあちらを見ていると、近くにいたひょろひょろっとした青年と目が合って、僕は慌ててドアの方を向いた。
 次が目的の駅だった。電車が止まると、僕は唐木田さんと彼女の方をチラッとうかがい、彼らが降りるのを確認すると、彼らが右に行くのを確認してから降りた。なんでそんな確認をしたのか自分でもわからなかった。けれど電車から出た時には彼らを追うことしか考えていなかった。すこしの間、五メートルくらい距離をあけて後をつける。彼女は唐木田さんに大声で何か言い続けている。なんか自分が責められているみたいだ。もうすぐ改札へ続く階段だ。俺はどうしたいんだ? もうあいつに会うことはないかもしれないのに、迷ってる場合か? ヨシッと呟き、覚悟を決めた。僕は走り出した。自分で自分の行動に驚く。唐木田さんの隣につけると早足で並んで歩き出した。しかし、唐木田さんはこちらに気づかない。鈍い奴だとニヤッとする。と、彼女がこちらに顔を向けた。すぐに唐木田さんもこっちを見る。絵に描いたように驚いた顔をしている。あれ? どうしよう? どうすれば? 頭が真っ白になった。何と声をかけようとしていたのか? 猛烈に恥ずかしい。仲良くね。やっとそれだけ口にした時、僕はもう前を向いていた。前傾姿勢になり走り出す。全力で目の前に階段に突っ込んでいき、一段飛ばしで駆け上がった。こんなのは小学校以来だと思って、僕は笑った。

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