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文舵、練習問題⑦〈視点(POV)〉

練習問題⑦〈視点(POV)〉
 四〇〇〜七〇〇文字の短い語りになりそうな状況を思い描くこと。何でも好きなものでいいが、〈複数の人物が何かをしている〉ことが必要だ(複数というのは三人以上であり、四人以上だと便利である)。
 今回のPOV用練習問題では、会話文をほとんど(あるいはまったく)使わないようにすること。
 問1:ふたつの声
 ①単独のPOVでその短い物語を語ること。視点人物は出来事の関係者で――老人、子ども、ネコ、何でもいい。三人称限定視点を用いよう。

 唐木田悟志はさっきからチラチラと左後ろをうかがっていた。中刷り広告に目をやって、何気なく目線を下げた時、大学時代の恩師、上村教授の姿が目に入ったのだ。上村教授はドアにもたれかかって窓の外を見ている。まさかと思い二度見したが、やっぱり間違いない。黒縁の眼鏡にスヌーピーのTシャツ、それにくたびれたジーンズ、あの頃とちっとも変わっていない。距離は六メートルくらい。電車内は空いている。上村教授が気づいていないのがおかしいくらいだ。
 悟志は三年前のことを思い返す。大学時代から引き続いて行っていた研究に、大学院の修士課程で行き詰まり、母校に上村教授を訪ねた。上村教授は底抜けに明るい笑顔で迎えてくれた。だが、博士課程でこの大学に戻ってきたいと伝えると、途端に表情を硬くし、悟志の頼みを断った。
 あの日以来、悟志は上村教授と顔を合わせていない。その後、悟志は大学院を中退し、中堅のメーカーに就職した。
 悟志は前を向いて逡巡する。どうしよう、隣の車両に移動すべきか、いや、あと一駅だ、やり過ごそう。だが気になって、また左後ろに顔を向ける。と、腕に痛みが走った。右を向くと妙子がふくれっ面をして二の腕をつねっている。妙子はさっきから今日のデートで観た映画の感想をしゃべっていた。いつもなら全く聞いていなくても妙子には一切気づかせないのに、今日はしくじってしまった。おい、さっきから何あっち見てんだよ! 妙子が怒鳴り出した。ポニーテールが揺れる。悟志は前を向いて黙ったまま固まる。上村教授は気づいただろうか? 悟志の不安をよそに、妙子は怒鳴り続けた。
 電車が止まり、ドアの近くにいた悟志と妙子はすぐに降りた。妙子は怒って一人すたすたと右の方へ歩き出した。悟志は慌てて追いかける。大学時代の恩師がいて気まずかったんだと言い訳する。だが全く聞き耳をもたない。が、妙子が立ち止まった。こちらを向く。いや、悟志より左を見ている。悟志もそちらに顔を向ける。と、そこには笑顔の上村教授がいた。なんでここに教授が。悟志はパニックになった。上村教授は微笑んでいる。なぜ、なんで、と悟志は考える。ちょっと間があって、仲良くね、と口にすると、上村教授はなぜか駆け出した。目の前の階段まで行き着くと、階段を一段飛ばしで駆け上がっていった。

問1:ふたつの声
 ②別の関係者ひとりのPOVで、その物語を語り直すこと。用いるのは再び、三人称限定視点だ。

 上村秀直は迷っていた。向こうにかつての教え子がいる。上は高そうな紺のポロシャツ、下は爽やかなベージュのチノパンという格好で、バンドTシャツにジーパンという服装だったあの頃とは大違いだ。唐木田悟志、大変優秀な学生だった。彼が電車に乗ってきてすぐに上村は気が付いた。他の学生なら近づいていって声をかけるところだ。だが、彼との間には過去がある。
 上村は三年前のことを思い出す。唐木田は大学に戻りたいといった。しかし、自分は心を鬼にして彼の申し出を拒絶した。今でもたまに胸がずきずきする。本心では戻してやりたかった。だが、彼が自分のところに来て学者として世界に羽ばたけるのか、確信がもてなかった。
 あれから上村は唐木田と会っていない。大学院を中退し、メーカーに就職したという話を、唐木田の大学院の指導教官から聞いた時、唐木田の気持ちを汲んでやれなかった自分に対してなのか、勝手に学者の道を諦めた唐木田に対してなのか、とにかくムシャクシャした。
 上村は窓の外を眺めながら考える。でもやっぱり挨拶するべきだ。無視するなんて、人の道にもとる。だが、と思う。だが気まずい。あっちも気まずいだろう。さっきからチラチラこっちを見てくるのに、一向にこっちに来ようとしない。唐木田は馬鹿正直だから、僕みたいにバレないように横目で見るってことができないんだろう。ああいうとこは変わってないな、と上村は懐かしそうに目を細める。と、大声が聞こえ、とっさにそちらに顔を向けると、唐木田に向かって女の人が怒鳴っている。上村は首を傾げたが、すぐに、ああ、彼女か、と納得した。なるほど、デート帰りなんだな。何か考え事をしていたんだろう。いや、僕の方をじろじろ見てて、勘違いされたのか。おお、すげぇ大声だ。気性が激しい子だ。唐木田も必死だな。僕も妻が切れだすとあんな感じだ。だけど何だか幸せそうだ。よかったよかった。上村がそんなことを思って眺めていると、近くに立っていたひょろひょろっとした青年と目が合い、上村は慌ててドアの方を向いた。
 次が目的の駅だった。唐木田たちもここで降りたので、上村は気づかれないように、唐木田たちと五メートルくらい距離をとって彼らの後を追った。左に歩いても改札には行けるのに、なぜ彼らを追って右に進むのか、自分でもよくわからなかった。女は唐木田に大声で何か言い続けている。なんか自分が責められているみたいだ。もうすぐ改札へ続く階段だ。俺はどうしたいんだ? もうあいつに会うことはないかもしれないのに、迷っている場合か? よしっと呟き、上村は覚悟を決めた。小走りで二人に追いつくと、唐木田の左を早歩きしだした。が、唐木田はこちらを見ない。鈍い奴だとニヤッとすると、彼女がこちらに顔を向けた。すぐに唐木田もこっちを見る。絵に描いたように驚いた顔をしている。途端に上村の頭は真っ白になった。何と声をかけようとしていたのか? 猛烈に恥ずかしい。仲良くね。やっとそれだけ口にすると、すぐに前傾姿勢になった。全力で走る。目の前に階段がある。考える間もなく上村は階段に向かい、小学校以来となる一段飛ばしで駆け上がっていった。

問2:遠隔型の語り手
 遠隔型の語り手、〈壁にとまったハエ〉のPOVを用いて、同じ物語を綴ること。

 さっきから20代前半と思われる若い男が、チラチラと左後ろに顔を向けている。上は紺のポロシャツ、下はベージュのチノパンというどこにでもいる好青年といった風貌だが、その視線を辿っていくと40代半ばと思われる中年の男性に行き当たった。年齢の割に若々しい。黒縁の眼鏡をかけ、スヌーピーのTシャツに古びたジーンズを履いている。こちらの男も若い男の方に目をやるが、バレないように横目で慎重にやっている。どうも二人には浅からぬ因縁があるようだ。
 若い男は中年の男が気になってしょうがないのだろう、十秒に一度くらい断続的に視線を向ける。隣ではこちらも20代前半だろうか、若い女が若い男にしゃべりかけていたが、若い男が自分の話を聞いていないと気づいたみたいだ、急に怒鳴り始めた。ポニーテールを振り乱している。若い男は何とかやり過ごそうというのだろう、目の前のドアを向いて黙り込んだ。女の声に驚いて、中年の男は若い男の方に顔を向けた。首を傾げる。だが、なにに納得したのかにんまりと微笑んだ。と、近くにいたガリガリの青年と目が合い、目の前のドアの方に顔を向けた。
 電車が止まると三人――若い男と女、それに中年の男――が降りた。若い女が早足で歩き出す。若い男は必死で追いついて、右を向いて彼女に話しかける。何とか怒りを鎮めようと必死だ。中年の男は二人と距離をとって歩いていたが、何を思ったのか、急に駆け足になった。若い男と並んで歩く。女が中年の男に気づく。すぐに若い男も中年の男に気づいた。と、若い男は口をあんぐりと開ける。中年の男は笑顔だがどこかぎこちない。仲良くね。そう声をかけると、何を思ったのか中年の男は駆け出した。すぐ目の前に階段がありそこまで行くと、一段飛ばしで駆け上がっていった。

問3:傍観の語り手
 元のものに、そこにいながら関係者ではない、単なる傍観者・見物人になる登場人物がいない場合は、ここでそうした登場人物を追加してもいい。その人物の声で、一人称か三人称を用い、同じ物語を綴ること。

ただの乗客バージョン一人称
 あっちの若い男がさっきからこちらをチラチラと見てくる。痴漢でもしてるのか? だけど隣の女の子は別に嫌そうにしてない。まだ見てくる。俺を見てるのか? いや、知らない顔だ。じゃあ何を見ているんだろう。振り返ると、ドアのそばに中年の男がいる。黒縁の眼鏡にスヌーピーのTシャツ、それにジーンズなんて、妙に若い格好をしてやがる。こいつを見てるのか。だけど若い男がこんな中年の男に熱視線を送るなんて、あっちの気でもあるのか? と、大声が聞こえて俺はまた若い男の方に顔を向けた。隣の女が怒鳴っている。話を聞いてなかったと文句を言っている。なるほど、どうやら付き合っているんだ。しっかしうるさくてたまらない。俺はまた中年の男の方に顔を向ける。あの男もうるさがっているのか、若い男の方を見ている。しかし妙だ、笑ってる。やっぱり知り合いなのか? が、どうしたことか、すぐに真顔になってドアの方に顔を向けた。さっぱりわからない。
 電車が止まると三人――若い男と女、それと中年の男――が下りた。俺はドアの横にある自己啓発本の広告を眺めていたが、なんとなく気になって、ドアが閉まる直前に滑り込みで降りようとした。が、降りる時に眼鏡をかけた七三分けの、いかにも真面目そうな青年にぶつかって、青年がこけてしまった。俺は手を差し伸べようか迷ったがそのまま降りた。左右を見回す。右の方、十五メートルくらい先、階段の手前に三人が固まっている。どんな状況なんだろう? 俺が歩き出そうとしてすぐ、中年の男が走り出した。階段を一段飛ばしで駆け上がる。二人に何か悪いことでもして逃げ出したのだろうか? 電車が動き出した。そちらに顔を向ける。と、先ほどこけた青年がドアのガラスに顔をすりつけてこちらを見ていた。まるでローリング・ストーンズの『Through The Past Darkly』のジャケ写じゃねえか、笑える。

ある学者の卵バージョン三人称
 
如月務はさっきからびくついていた。三メートル右に憧れの唐木田先輩がいる。しかもちょくちょくこっちを見てくる。僕に気づいたんだろうか? そう思って如月はチラッと見返すが、唐木田の視線は如月をすり抜けた。どうも自分には気づいていないみたいだ。あっちは忘れているんだろうな。ガッカリして如月は軽くため息をついた。
 彼は唐木田悟志の後輩だった。大学院の研究室の二学年下で、如月が唐木田といたのは一年だけだったが、その間に唐木田がしていた研究を、如月は引き継き、今まさに取り組んでいる最中だった。
 如月は思い出す。研究で遅くまで研究室に残った時、唐木田先輩は夕食に誘ってくれた。駅前の中華料理屋に一緒に行き、食券機の前に立つと、千円札をさっと入れて、何でも好きなもの選べよ、と先輩は微笑みかけてきた。
 あの時の研究がどれほど進んだのか、如月は報告したかったが、それはとてもできなかった。如月は人と会話するのが極度に苦手だった。ただ、黒板を前にして数式を書きながらだと、別人のようにペラペラとしゃべれるので、研究室の先輩からは、お前は本当に会社員とか無理だな、とよくからかわれた。
 なぜだろう、唐木田先輩がまだこちらを見てくる。不審に思って、如月は後ろを振り返ってみた。するとそこにはあの上村教授がいた。如月は声を出しそうになって手を口に持っていく。上村教授は如月が取り組んでいる研究分野の権威で、今まさに研究しているテーマも、唐木田が大学時代に上村教授と始めたものだった。背中からも腹からも汗が出てくる。つり革を持つ手も汗ばんできた。なるほど、と如月は納得する。唐木田先輩は上村教授の方を見ていたんだ。でもどうして話しかけに行かないんだろう。唐木田先輩は上村教授を物理学者の鏡とまで言っていたのに。如月は疑問に思うがさっぱりわからない。と、大声が聞こえて如月は唐木田の方に顔を向けた。隣の女の人がわめいていた。どうも先輩の彼女のようだ。ああ今日はデートだったのか、どうりで小奇麗にしてると思った、と如月は得心したが、なぜか気になって上村教授の方を見ると、笑顔の上村教授と目が合った。と、教授はすぐに真顔になって、ドアの方に顔を向けた。
 次の駅に着くと、唐木田と連れの女の人、それと上村は降りて行った。如月は迷う。自分が降りる駅は次だ。それに唐木田先輩と顔を合わせても、あっちも困ってしまうだろう。そう自分に言い聞かせ、なんとか諦めようとした。しかし心は揺れる。この機を逃せば、唐木田先輩に会うことは二度とないかもしれない。目の前のドアに顔を向ける。ドアは閉まる寸前だった。さっと体を動いた。と、なにかにぶつかった、と思ったら尻もちをついていた。サラリーマンだろうか、スーツを着た男がドアの外にいて、彼をチラッと見る。ドアがまた開く。今の隙に、と思うのに体が動かない。如月が何とか立ち上がったところで、ドアが閉まった。如月はドアのガラスに顔を押し付けて左右を見回す。電車が動き出した。何もわからない。顔が平面ならもっと見やすいのに、と如月が思って正面を向くと、スーツの男が大笑いしていた。

問4:潜入型の作者
 潜入型の作者のPOVを用いて、同じ物語か新しい物語を綴ること。

 唐木田悟志は首を回し、何度も左後ろを確認する。唐木田悟志がいるドアの対角線上、向こうのドアの前に上村秀直がいる。上村は大学時代の唐木田の指導教員だった。唐木田は近づいて行って話しかけるべきかどうか迷う。本当はそうすべきなのだろうが、逃げ出したい気もした。それは上村の方も同じだった。横目でかつての教え子の様子をうかがいながら、話しかけるべきかどうか逡巡していた。二人には気楽に話せない事情があったのだ。
 唐木田は大学で大きな成果を上げ、他の大学の大学院に進学してからも、上村と行った研究を続けた。研究はある程度まで進んだ。論文も書いた。だが、そこで壁にぶち当たった。うんともすんとも行かず、唐木田は恩師上村の元を訪れた。またこの大学に戻って上村さんと研究がしたいと、唐木田は懇願したが、上村はそんなことしても何にもならない、僕だってあの問題は散々考えて撤退したんだ、君ももっと別の問題を考えた方がいい、と、柔らかな言い回しではあったが、唐木田の頼みをきっぱりと断った。上村は胸が引き裂かれる思いだった。本当は上村も唐木田を戻したかった。きっと楽しい研究になるし、唐木田の行く末も心配だったから。だが、自分の元に唐木田が戻ってきて昔の研究をほじくり返すより、他の研究に向かった方が唐木田のためになると心を鬼にした。
 それから三年、二人が出会うことはなかった。二人とも互いのことを忘れたりはしなかった。研究の合間や通勤通学の途中など、ふとした瞬間に、あいつ、あの人は今どうしているだろうかと考えた。だから一年前に大学院を中退し、中堅のメーカーに就職することを決めた時、唐木田は上村に知らせるか本当に迷ったし、そのことを唐木田の大学院の指導教官から聞いた時、上村は胸を痛めた。自分のあの時の選択は間違っていたのかもしれないと自問したり、自分に相談もなく決断した唐木田に憤ったりした。
 唐木田はまた上村の方に視線を送った。その視線を自分へのものと勘違いしてじっと見つめる者がいる。上村の近くに立つ如月務だ。彼は唐木田の大学院の二学年下の後輩だった。さっきから唐木田がこちらに視線を送ってくるので、彼はびくついていた。挨拶に行くべきだとは思うものの、人見知りが激しい彼には、会わなくなって久しい先輩に声をかけるなど、とてもできなかった。しかし、本当は声をかけたかった。如月は唐木田の研究を引き継いでいた。その最新の成果を示して、唐木田の意見が聞きたかったのだ。それでときおり唐木田の方に目をやったのだが、唐木田とは一度も目が合わなかった。不審に思った彼が後ろを向くと、そこには上村がいて彼は驚いた。上村は如月が今まさに取り組んでいる研究分野の権威で、研究しているテーマも、唐木田が大学時代に上村と始めたものだった。
 唐木田がチラチラと上村の方を見、上村はそんな唐木田を横目でうかがい、上村の近くに立つ如月は交互に二人を観察していたが、そのうち、唐木田の方から大声がした。上村と如月の視線が唐木田に集まる。唐木田の隣、さっきから唐木田に今日のデートで観た映画の感想を話していた唐木田の彼女が、唐木田が無視しているといって喚き出したのだ。唐木田は何とか取りなそうとする。だが、自分の手には負えないと諦めたのだろう、前のドアの方を向いて黙り込んだ。その様子を見て、妻から詰られる時のことを思い出した上村はにんまりしたが、そのとき如月と目が合い、恥ずかしくなって目の前のドアの方に顔を向けた。
 電車は間もなく駅についた。この駅で降りる予定だったのは三人――唐木田とその彼女、それに上村――だけで、如月は隣駅だった。唐木田がいる方のドアが開くと、三人はすぐに降りた。まだ怒りが収まらず罵詈雑言を吐きながらどんどんプラットフォームを右の方へ進む彼女を早足で追いかけながら、唐木田は何とか彼女をなだめようとする。上村は二人と距離を保ってすこしの間観察していた。しかし、このまま唐木田と別れるのが嫌だった上村は、彼には珍しく衝動的に動いた。小走りで唐木田を追う。
 このまま別れるのが嫌だったのは車内に残った如月も同じだった。如月は唐木田を追いかけるべきかどうか迷いに迷い、今更顔を合わせても話すことがないと一度は諦めたのだけれど、ドアが閉まる直前、やっぱり思い直してドアに向かって突進した。が、同時に降りようとしたスーツ姿の男に吹っ飛ばされ、電車の床に尻もちをついた。
 プラットフォームでは上村が唐木田に追いつき、彼の左を早足で歩き出していた。数秒そうしていたが、彼女をなだめるのに必死な唐木田は全く気づかない。代わりに彼女が気づいて足を止めた。と、すぐに唐木田も気づき、あまりのことに口をあんぐりと開けた。上村もまたビックリした。自分から追いかけて来たのに頭が真っ白になり、何を話せばいいのかわからなかった。上村は唐木田に笑顔を向け、唐木田と彼女は驚いた顔を上村に向けた。仲良くね。やっとのことで上村はそう口にすると、逃げ出すように駆け出した。唐木田と彼女はあっけにとられてそれを見送る。すぐ近くに階段があり、上村は一段飛ばしで駆け上がっていった。
 上村が十段ほど駆け上がった時、電車が動き出したが、車内では如月がドアのガラスにべったりと顔をつけて、プラットフォームの左右をうかがっていた。ガラスに押し付けられた顔は、これぞ変顔というべきものだった。鼻がべちゃんこで、額や頬もくっついていた。この顔が写真に収められていたら、その写真は例のアインシュタインのベロ出し写真ほど、世界に広まっていたかもしれない。堅い如月の性格を考えると、これはそれほど貴重な場面だった。そんなことは上村も唐木田も知る由もなかった。彼らだけじゃない。如月自身も、世界中の他の誰にもわかるはずがなかった。図らずも変顔をさらしてしまった学者の卵、如月務が唐木田の研究成果を発展させ、14年後に世界をあっと言わせる発見をすることも、47年後その成果が認められ、ノーベル物理学賞を受賞することも、さらにそのスピーチの最後で、「センキュー、プロフェッサーカミムラ、エンド、カラキダセンパイ!」と、晴れ晴れとした顔で述べることも、このときはまだ誰も知らなかったのである。

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