見出し画像

文舵、練習問題⑥〈老女〉

 今回は全体で一ページほどの長さにすること。短めにして、やりすぎないように。というのも、同じ物語を二回書いてもらう予定だからだ。
 テーマはこちら。ひとりの老女がせわしなく何かをしている――食器洗い、庭仕事・畑仕事、数学の博士論文の校正など、何でも好きなものでいい――そのさなか、若いころにあった出来事を思い出している。
 ふたつの時間を超えて〈場面挿入〉すること。〈今〉は彼女のいるところ、彼女のやっていること。〈かつて〉は、彼女が若かったころに起こった何かの記憶。その語りは、〈今〉と〈かつて〉のあいだを行ったり来たりすることになる。
 この移動、つまり時間跳躍を少なくとも二回行うこと。
一作品目:人称――一人称(わたし)か三人称(彼女)のどちらかを選ぶこと。時制――全体を過去時制か現在時制のどちらかで語りきること。彼女の心のなかで起こる〈今〉と〈かつて〉の移動は、読者にも明確にすること。時制の併用で読者を混乱させてはいけないが、可能なら工夫してもよい。
二作品目:一作品目で用いなかった人称を使うこと。時制――①〈今〉を現在時制で、〈かつて〉を過去時制、②〈今〉を過去時制で、〈かつて〉を現在時制、のどちらかを選ぶこと。

一作品目:一人称
「どこで間違ったんだろうな?」
 夫は居間から大声を上げる。私は食器を洗う手を休め、顔を後ろに向けて答えた。「間違ったなんてそんな、ちょっと友達と羽目を外しただけでしょ」
「友達って、あのチンピラどもがか」夫は声を張り上げる。
「あなただって昔よく喧嘩したって言ってたじゃない」
「喧嘩はしたけど、警察のお世話になったことはないよ」
 次男の正行を補導したと警察から電話があったのは二時間前だった。近所のゲーセンで高校生が取っ組み合いの喧嘩をしているという通報があり、警察が駆けつけると、上に下にの大乱闘が繰り広げられていて、逃げ遅れた正行と友人数人が補導されたのだ。正行は私と夫に連れられて警察署から帰る途中でも、家で夫に怒鳴られている間も、俯いて何も言わなかった。
「ただいまー」
 声がして居間に目をやると、玄関寄りのドアから長男の義明が顔をのぞかせている。
「おー、お帰り」夫がにこやかな顔で義明に声をかける。
「ご飯は?」私が訊くと、息子はすぐに首を横に振った。「大学で食べて来たから」
 私は洗い物に戻る。あの子は中学の頃からいつもああだったと思い返す。
「塾の帰りに食べて来たから」
 義明はそう言うと、帰ってくるなり二階へ上っていった。数学の勉強だ。なんでも凄く数学ができる同級生がいて、その子と仲良くするうちに数学にはまってしまったのだという。私が引き続き洗い物をしていると、そのうちまた、ただいまー、という声がする。今度は次男のご帰還だ。となれば、悠々と洗い物などしていられない。私は素早く行動する。居間を出て玄関に顔を向け、そのまま、そのまま動かないでね、と正行に声をかけ、急いでお風呂場に向かい、マットを手にして玄関に向かうと、それを床に敷いた。はい、この上で全部脱いで、私ははきはきと笑顔で言う。すると正行は、雨でグラウンドがぐちゃぐちゃでミッドフィルダーのパスが全然届かなくて、シュート三本しか打てなかった、などとぼやきながら泥をかぶったジャージとユニフォームを脱ぎ出すのだった。
「あいつも前は一生懸命にサッカーやってたのにな」
 夫が独り言とは思えない声量で言うので、また洗い物を止め居間に顔を出した。夫は右斜め前、部屋の角に設置されたテレビを観ていたが、遠い目をしている。昔を思い出しているのだろう。
「だって、あなたが止めさせたんじゃない」私はちょっと怒っている感じが出るように声を張る。
「えっ、俺が? そんなこと言ったかな?」
「言った言った。ほらっ、サッカーなんてやったって何の得にもならないって」私はまた大声を出したが、夫は見当がつかないのか首を捻っている。
 洗い物をしに台所に戻りながら、私はあの時のことを思い出す。あの時夫があんなことを言わなければ、私に夫を諫めるだけの力があったら、正行はまだサッカーをやっていただろうか?
「サッカーなんか、なんにもならない。そんな金にならないこといつまでやっててもしょうがないぞ」
 ある日の食卓。中学に入ってもサッカーを続けるべきかな? と、真剣な表情で尋ねる正行に夫は即答した。いつも冗談を言う時のようににやけ顔だったから、夫はきっと軽い気持ちだったのだと思う。だが、正行の顔色はさっと変わった。何か言いたそうだ。しかし、一瞬夫を睨みつけると、すぐに箸を置き、ごちそうさま、と口にして二階に上がっていった。弟思いの義明はすぐに正行の後を追った。義明は戻ってくると、夫に向かって顔をしかめた。
「父さん、あの言い方はないよ。僕だってなんの役にも立たないから数学止めろって言われたら、そりゃ怒るよ」
「お前は大学教授になるんだろ? 大学教授は最高だぞ。楽に勤められて毎年一千万もらえるんだからよ」
「本当にそんなこと言ったか俺?」
 洗い物を終えて、夫の左斜め前の定位置に座ってからさっき思い出したことを報告すると、夫は不満そうに返した。
「言った言った」
「いやー、なかなか最初はもらえないだろ、そんな一千万なんて。でも安定してるのは確かだな。業績がないから大学教授を首にしたなんて、聞いたことないもん」夫はそう言うと、グラスを手にした。ウィスキーのロックをくいっと一口飲んで、上手い、と言ってグラスをテーブルに置くと、「そうか、そんなこと言ってたか」と呟き、さっと立ち上がった。どうしたのかと見ていると、ドアを開け部屋を出て行った。
 私も慌てて夫の後を追いかける。とっとっとっと階段を駆け上がり、正行の部屋の前まで来ると、夫は立ち止まった。ギターを弾く音が聞こえる。夫はノックして、すぐにドアを開けた。私は夫の背中越しに部屋の中をのぞき込む。正行はベッドに腰掛けエレキギターを弾いていた。
「何してるんだ」夫が訊く。
「ギターの練習でしょ」
 私が口を出すと、夫は「お前には聞いてない」と声を荒げた。
「アンプ使ってないし、別にいいだろ」正行は不満そうな表情をこちらに向けた。
「この子、最近学校から帰ってくると、三時間でも四時間でもああやってギター抱えてるのよ。頑張ってるの」と、私が取りなそうとすると、正行が私を睨みつけた。余計なことを口にするなというのだろう。この歳の子は難しい。
「なんだその目は」夫が怒鳴る。
「ごめん」正行は途端にしゅんとして下を向いた。父親を怒らせると面倒だとよくわかっているのだ。なんで来たの? 俯いたまま正行は問いかける。
「あ、それか? あれだ。お前サッカーやりたかったのか?」
 正行は顔を上げたが、キョトンとしている。この人は何を急に言い出すんだという顔だ。
「だからよ、サッカーやりたかったのに、俺が変なこと言ったから止めたのか?」そう口にしても正行は黙ったまま、こちらをじっと見ている。夫も黙っていたが、すこししてから口を開いた。「悪かったな」
「いいよもう。何年前のこと言ってるの?」正行は照れくさそうにギターに視線を移し、左手でギターの弦をいじくってから、こちらをまっすぐに見て続けた。「もういいかな? 練習したいんだけど」
「ああ、頑張れよ」
 夫はドアを閉じたが、しばらくその場から離れなかった。息子の弾くギターの音に耳を傾けているのか、難しい顔をしていたが、どこかで間違えたのか、息子が、ああクソ、と発するのが聞こえると、ふっと微笑んで私の方を振り向き、口に人差し指を持っていって、神妙な顔つきでコクンを頷いた。

二作品目:三人称
「どこで間違ったんだろうな?」
 夫の正義は居間から大声を上げる。妻の美代は食器を洗う手を休め、顔を後ろに向けて答えた。「間違ったなんてそんな、ちょっと友達と羽目を外しただけでしょ」
「友達って、あのチンピラどもがか」正義は声を張り上げる。
「あなただって昔よく喧嘩したって言ってたじゃない」
「喧嘩はしたけど、警察のお世話になったことはないよ」
 次男の正行を補導したと警察から電話があったのは二時間前だった。近所のゲーセンで高校生が取っ組み合いの喧嘩をしているという通報があり、警察が駆けつけると、上に下にの大乱闘が繰り広げられていて、逃げ遅れた正行と友人数人が補導されたのだ。正行は両親に連れられて警察署から帰る途中でも、家で正義に怒鳴られている間も、俯いて何も言わなかった。
「ただいまー」
 声が聞こえて、美代が居間に目をやると、玄関寄りのドアから長男の義明が顔をのぞかせている。
「おー、お帰り」正義がにこやかな顔で義明に声をかける。
「ご飯は?」美代が訊くと、息子はすぐに首を横に振った。「大学で食べて来たから」
 美代は洗い物に戻る。あの子は中学の頃からいつもああだったと思い返す。
「塾の帰りに食べて来たから」
 義明はそう言うと、帰ってくるなり二階へ上っていく。数学の勉強だ。美代が聞いた話では、凄く数学ができる同級生と前後の席になって、その子と仲良くするうちに数学にはまってしまったのだという。美代が引き続き洗い物をしていると、そのうちまた、ただいまー、という声がする。今度は次男が帰ってきたのだ。そうなれば、悠々と洗い物などしているわけにはいかない。美代は素早く行動する。居間を出て玄関に顔を向け、そのまま、そのまま動かないでね、と正行に声をかけ、急いでお風呂場に向かい、マットを手にして玄関に向かうと、それを床に敷いた。はい、この上で全部脱いで、と、美代ははきはきと笑顔で言う。すると正行は、雨でグラウンドがぐちゃぐちゃでミッドフィルダーのパスが全然届かなくて、シュート三本しか打てなかった、などとぼやきながら泥をかぶったジャージとユニフォームを脱ぎ出すのだった。
「あいつも前は一生懸命にサッカーやってたのにな」
 正義が独り言とは思えない大声で言うので、美代はまた洗い物を止め居間に顔を出した。正義は右斜め前、部屋の角に設置されたテレビを観ていたが、遠い目をしている。昔を思い出しているのだろう。
「だって、あなたが止めさせたんじゃない」美代はちょっと怒っている感じが出るように声を張る。
「えっ、俺が? そんなこと言ったかな?」
「言った言った。ほらっ、サッカーなんてやったって何の得にもならないって」美代はまた大声を出したが、正義は見当がつかないのか首を捻っている。
 洗い物をしに台所に戻りながら、美代はあの時のことを思い出す。あの時夫があんなことを言わなければ、私に夫を諫めるだけの力があったら、正行はまだサッカーをやっていただろうか?
「サッカーなんか、なんにもならない。そんな金にならないこといつまでやっててもしょうがないぞ」
 ある日の食卓。中学に入ってもサッカーを続けるべきかな? と、真剣な表情で尋ねる正行に正義は即答した。いつも冗談を言う時のようににやけ顔だったから、正義はきっと軽い気持ちだったのだろうと美代は思う。だが、正行の顔色はさっと変わった。美代には正行が何か言いたそうに見えた。しかし、一瞬正義を睨みつけると、すぐに箸を置き、ごちそうさま、と口にして正行は二階に上がっていった。弟思いの義明はすぐに正行の後を追った。義明は戻ってくると、父に向かって顔をしかめた。
「父さん、あの言い方はないよ。僕だってなんの役にも立たないから数学止めろって言われたら、そりゃ怒るよ」
「お前は大学教授になるんだろ? 大学教授は最高だぞ。楽に勤められて毎年一千万もらえるんだからよ」
「本当にそんなこと言ったか俺?」
 美代が洗い物を終えて、正義の左斜め前の定位置に座ってからさっき思い出したことを報告すると、正義は不満そうに返した。
「言った言った」
「いやー、なかなか最初はもらえないだろ、そんな一千万なんて。でも安定してるのは確かだな。業績がないから大学教授を首にしたなんて、聞いたことないもん」正義はそう言うと、グラスを手にした。ウィスキーのロックをくいっと一口飲んで、上手い、と言ってグラスをテーブルに置くと、「そうか、そんなこと言ってたか」と呟いて、さっと立ち上がった。どうしたのかと美代が見ていると、ドアを開け部屋を出て行った。
 美代は慌てて正義の後を追いかける。とっとっとっと階段を駆け上がり、正行の部屋の前まで来ると、正義は立ち止まった。ギターを弾く音が聞こえる。正義はノックして、すぐにドアを開けた。美代は正義の背中越しに部屋の中をのぞき込む。正行はベッドに腰掛けエレキギターを弾いていた。
「何してるんだ」正義が訊く。
「ギターの練習でしょ」
 美代が口を出すと、正義は「お前には聞いてない」と声を荒げた。
「アンプ使ってないし、別にいいだろ」正行は不満そうな表情をこちらに向けた。
「この子、最近学校から帰ってくると、三時間でも四時間でもああやってギター抱えてるのよ。頑張ってるの」と、美代が取りなそうとすると、正行が美代を睨みつけた。余計なことを口にするなというのだろう。この歳の子は難しいと美代は思う。
「なんだその目は」正義が怒鳴る。
「ごめん」正行は途端にしゅんとして下を向いた。父親を怒らせると面倒だとよくわかっているのだ。なんで来たの? 俯いたまま正行は問いかける。
「あ、それか? あれだ。お前サッカーやりたかったのか?」
 正行は顔を上げたが、キョトンとしている。この人は何を急に言い出すんだという顔だ。
「だからよ、サッカーやりたかったのに、俺が変なこと言ったから止めたのか?」そう口にしても正行は黙ったまま、美代たちの方をじっと見ている。正義も黙っていたが、すこししてから口を開いた。「悪かったな」
「いいよもう。何年前のこと言ってるの?」正行は照れくさそうにギターに視線を移し、左手でギターの弦をいじくってから、両親をまっすぐに見て続けた。「もういいかな? 練習したいんだけど」
「ああ、頑張れよ」
 正義はドアを閉じたが、しばらくその場から離れなかった。息子の弾くギターの音に耳を傾けているのか、難しい顔をしていたが、どこかで間違えたのか、正行が、ああクソ、と発するのが聞こえると、ふっと微笑んで美代の方を振り向き、口に人差し指を持っていって、神妙な顔つきでコクンを頷いた。

よかったらサポートお願いしやす!