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花のかげ~第1章 萌芽(2)

二.病院にて

 八時半ごろに飯山の実家に到着した時には日差しのせいか寒さもいくぶん和らぎ始めていた。母の趣味で庭にはいつも花が咲き乱れているのだが、季節的にはまだ花を咲かせる時期ではなく、庭はまだ冬の装いをそのままにしていた。
 最後のサービスエリアでメールを送っていたので、母は私が来る時間もだいたい予想がついていたのか、朝食をとらずに待っていてくれた。ちょうど通勤の方向とは逆に向かって車を走らせていたので、インターから実家まではあっという間であった。
 いつものことなのだが、私はよく母と話をする。話題はいろいろだったが、私の仕事の現状や愚痴を聞いてもらうことも多かった。
 私の仕事は高校の教員である。もともと私の家系には教員が多い。母方の祖父母は教員だったし、三人いる母方の叔父のうち二人は教員である。従姉妹たちで教員になった者も多い。母からすれば私が教員になるのは既定路線だったようだが、私自身は教員になるかどうかは大学時代に迷ったことがある。身内に教員が多ければどうしても教員という仕事が一番身近な仕事になる。そのため進学で家を出るまでは教員になりたいと思ったこともある。だが大学時代はこのまま教員になるべきなのかどうかずいぶんと考えた。一般企業への就職活動もして内定をいくつかもらっていたが、どうしても就職の方向性に迷いがあったことと、もう少し専門を学びたいという思いから就職を一時留保して大学院に進学した。だがこれが結局は私の選択肢を狭め、私に教員の道を進ませることになった。それについてはいまだに正解だったのかどうかは自信が無い。とはいえ、その迷いの元をたどれば、そこに父の存在があったことは間違いない。
 そういうわけで、教育業界の現状を多少は知っているであろう母に愚痴をこぼすことは多かったのだ。母は教員ではなかったので実際にはそれほど実情を知っているわけではなかったが、息子の仕事がどういうものなのかを聞くのはそれほど苦痛ではなさそうだった。その日も例によってそんな話題が中心だった。だがいつまでも話をしているわけにもいかない。その日は病院に行かなければならなくなっていたからだ。
 病院は車で十五分ほどのところにある中規模の病院だった。母が脳梗塞になった時は家からもっと近くにある分院に入院していたが、その後は本院の方で定期健診をしていた。向かったのは本院の方である。
 その病院は、どこにでもよくあるような少しさびれた感じがする病院だった。聞けば経営が今ひとつらしい。少し薄暗い感じがするのは、芳しくない経営状況とは決して無縁ではないだろう。廊下は絨毯だったが、もう長いこと張り替えていないのがすぐわかるような色合いだった。とはいえ、外来患者は高齢者を中心にかなりの数にのぼっていた。
 予約がとれていたためか、それほど待たされずに診察室に入った。診察室と言ってもカーテンで区切られたようなもので、広さはそこそこあるものの、最新の病院と比べるとかなり見劣りするようなところがあった。
主治医は私よりも若干年上の女性の医師だった。高齢者に対してはお決まりなのか、その日の日付や生年月日などを言わせたあと、母のMRIの画像を見せながら、
「やはり再撮影をしても結果は変わりませんね」
と、結論から先に言った。私が画像を見ると、向かって左側のところにやはり白いもやもやしたようなものがはっきりと見える。向かって左側とはいえ、それは下から見たもので画像の上が眼になるため右側頭葉の部分になる。その白い部分も想像していたものよりもやや大きめだった。
「この白いものが何なのか、現段階ではわからないというか、いろいろな可能性が考えられるんですよ」
と、その医師は言った。つまりMRIでは異常らしきものがあることはわかっても、そこから先となると髄液を採取してみるなどのより具体的な検査が必要になるとのことだった。
 そして最後に「脳腫瘍の可能性もある」と言ったところで、母はおもわず息をのんだ。今の医学では、病名を隠さずにはっきり言うのが普通なのだろうが、本人からすればさすがに動揺するものである。それに母の若いころはがんのようなものは病名を本人に告知することが一般的ではなかったわけで、時代が変わったとはいえそれはなかなか受け入れることは難しい。ましてや当の本人である。しかも母は十数年前に自分の従弟と親しい友人が脳腫瘍で他界していたため、脳腫瘍という言葉には過剰に反応せざるをえなかった。
 とはいえ、医師も看護師も長年の付き合いのある人たちだったので、その後は穏やかに話が進んだ。こんなに一人の患者に時間をかけて他の患者たちの迷惑にならないだろうかとこちらが気をもんだくらいだが、それがその病院では普通のようだったし、大きい病院の「二時間待ち十分診療」というのも最近は少し改善されつつあるという話も聞く。だからいつもそんなものなのだろう。
 だが今回は私が付き添ったということで、少し意味合いが異なっていた。前回は私の姉が付き添ったのだが、今回は私である。つまり、大きな病院で検査する必要があるかどうかということになるわけなのだが、医師は迷うことなく、
「ここではこれ以上の検査はできません。大きな病院で検査した方がいいですね」
と淡々と言った。そして私の方を向いて、私の居住するところと、連れてくことになるであろう病院はどこになるかを聞いてきた。家族での話し合いはすでにできているからここへきているのだろう、とでも言いたげな表情だった。
 私の居住する桂田には大学病院が二つあり、一つは私の自宅から歩いても行ける距離にある。私自身やっかいな免疫系の皮膚疾患を持っているためにそこに定期的に通っているし、妻も二年前に大腸がんを患い、そこで手術をしている。すでに他界しているが妻の父親もそこで白血病の治療をしていたこともあり、私にとってはやっかいな病気なのかどうかは別として、大きな病気かどうかを検査するにはそこに連れていくのが一番だということは最初から思っていたことである。そのことは母に前の日に電話で話していて、母も迷いはしたものの、「もしそうなったら」という条件つきで私の案に承諾していた。
 結局は私の住む東京の桂田市にある大学病院に紹介状を書いてもらうということで話がまとまった。しかし紹介状や画像を用意するのに二日ほどかかることから、私たちはいったん病院を後にした。大きい病院で検査しなければならないということが確定すると、母は不安を一層募らせることになった。とはいえ、その段階では病気が何なのかは何とも言えない。その不安の募らせ方に少し違和感を覚えたわけだが、そのことを言うと、
「脳梗塞をやってからね、自分の健康に自信がなくなっちゃったからどうしても不安ばかりが募っちゃうのよ」
と母は眉間にしわを寄せながら言った。確かにそれは理解できる。母はもともと気が強くせっかちなところがあったため、病気に関してそこまで気弱な姿を見せることは多くはなかったものの、ある種病的なほどのネガティブなところもあった。気の強さは気の弱さと表裏一体のところもあり、それは病気の部分に関しては気が弱くなる方へと出ることになった。年齢のせいもあるのかもしれないが、ことあるごとに「髄液を取るなんて、痛いのかねぇ」と口にした。この繰り返し同じことを口にするのは認知症の人にはよくあることらしいので、認知面はどうなのかと母に聞いてみた。
「なんかねぇ、私さぁ、最近頭おかしいんだよね」
と、いつもの言葉が返ってきた。母と電話で話すと、何かを忘れていることについては母よくその言葉を口にした。年を取れば物忘れはひどくなるものだ。それは不思議ではない。実際その日に話した医師も、認知面では特に問題は無いということを母に言っていたらしい。もっともそのことは後日母の思い違いだった可能性が浮上するわけだが……。
 帰宅してからも母の不安は尽きなかったが、時間とともに少しずつ落ち着きを取り戻してきた。私の住む街にある大学病院はその日私たちが行った病院のゆうに三~五倍はあるだろう大きさだったし、専門医も多数在籍している。そこで何でもないことがわかれば安心もするだろうということを母に言って聞かせて落ち着かせることにした。とはいえ、なし崩し的に住み慣れたところを離れて私の家に移って治療を受けることになる可能性もあるわけで、それについては不安を隠せないようだった。
 その日私は実家に泊まり、次の日に帰宅してから中二日おいて再び帰省し、紹介状をもらいがてら母を自分の家につれてくることになった。やや薄曇りではあったが、それほど寒くはなかった。
 ちょうどそのころ、世間では新型コロナウィルスが感染拡大の兆候を見せ始め、全国の学校が総理大臣のひと言で一斉閉校となっていた。私の勤務校も予定していた期末試験ができなくなり混乱が生じていたわけだが、それが皮肉にも私のフットワークを軽くしたことも確かである。通常であれば身動きもとれないほど多忙である時期に、一週間で二度も帰省できるなど本来であればあり得ないことであった。
 例によって未明に出発し、八時過ぎに実家に到着するという同じパターンで私は再び実家にやってきた。私もすでに年齢は五十を過ぎている。一週間で往復六百キロ以上を二度も一人で車で移動するのはなかなか堪えた。しかも普通の帰省であれば妻が運転してくれる時間帯があるが、この二往復はたった一人の運転である。とはいえそれは致し方ないと割り切らざるをえなかった。
 病院は十一時に予約が取れていたが、前回の受診からそれほど経っていないために他の予約患者の合間をぬってのものとなっていた。二度目ともなるとさびれた感じも少し慣れてきてはいたが、前回よりも待ち時間が少し長かったために病院内を少し歩き回ると、やはり経営状態が思わしくないことを示す部分がいくつも目立った。床のカーペットはところどころ黒ずんでいたりめくれあがったりしていた。掃除は行き届いているように見えて、よく見るとほとんど掃除されていないところもあった。壁のシミもそのままになっているところが目立つ。天井の照明もいくつか間引かれていた。些細なことではあるのだが、そういうところになんらかの兆候というものは見られるものではなかろうか。
 紹介状をもらう際に医師と話をしたが、母はやはり顔なじみの医師に治療を受けることに少しこだわった。だが、
「この病院も半年先に存在しているかどうかすらわからないわけですから、息子さんの住むところにある大学病院できちんと治療された方がいいですよ」
と医師ははっきりと言った。そこに勤務する医師が「存在するかどうかすらわからない」というのであるから、それはよほどのことなのであろう。それで母も少し覚悟が決まったようである。だが、後日知ったことだが、母は私の姉に「飯山で治療をする」と話していたらしい。それが実際は桂田で治療を行ったわけで、私には「そちらで世話になるわ」と言っていたわけであるから、この行き違いが小さなわだかまりのもとになっていたことを私が知るのはずっと後のことだった。
 紹介状とMRIの画像データの入った封筒を受け取る際、
「ひと足先に桜を楽しんでくださいね」
と、旧知の仲のような関係になっていた看護師が母に言った。
その後会計を済ませ、私たちはコンビニでお昼ごはんのための弁当を買い、いったん家に戻った。家に戻ると、母の兄、つまり私の伯父夫婦が来訪した。事前に自分の病気の可能性について話をしていたのであろう。この伯父は母と性格も似ており、気性の激しいところはあるが頼りになる人でもある。母が幼いころはよく喧嘩したらしいが、私が物心ついた時には仲の良い兄妹の関係であった。伯父は大病の可能性がある自分の妹を心配している様子ではあったが、私たちがその後に車で移動することを気遣ってか早々に帰っていった。
 そして母は事前に用意してあった着替えと自分の布団、そして数年来飼い続けているインコを車に積み、午後二時頃、私たちはそこを出発した。割とインターチェンジに近いところであるためにすぐに高速道路に乗れるわけだが、高速道路に乗るやいなや母はすぐに眠ってしまった。まだ最初のサービスエリアにすら至っていなかった。空は前回と違って曇っており、日差しもまぶしくないために眠りやすいのだろうとその時は思っていたが、その後も母はとにかくよく眠った。眠っていた時間と目が覚めていた時間とどちらが長かったかと言えば、ひょっとすると前者の方かもしれないと思えるくらい、母はよく眠った。これが後々いろいろと私の頭を悩ますことになることを、当時の私は知る由もなかった。
 私の家についたのは夜の七時半ごろであった。すっかり暗くなっていたが、実家のあるところに比べて寒さはかなり緩く感じた。私の家では妻と息子が私たちの到着を待ちわびていた。母は少し照れ臭そうに「お世話になります」と、出迎えた私の妻と息子に言って家に入った。
 一緒に連れてきたインコが少し緊張気味に鳴いた。

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