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終楽章に光った雫           -響け!ユーフォニアム3-

媒体との相性の良さからか、音楽をメインテーマに掲げるアニメ作品は多い。2024年春クールにおいてもそれは例外でないようで、「ガールズバンドクライ」「夜のクラゲは泳げない」などの音楽アニメが放送された。アニソンライブなども活発な昨今、そういった作品の増加は喜ばしいことと思うが、一方で音楽アニメにハマりきれない自分というのも感じている。音楽に明るくないため話の子細に興味を惹かれないのか、結論をライブシーンに託しがちな進行に飽きてしまっているのか、或いはその両方か。原因は定かでないが、自分にとってハンデを抱えたジャンルであることは確かだ。しかしそんな自分にも、心からハマったと言える音楽アニメシリーズが存在する。そこで本稿では、当シリーズ、特にその3期について感じたことをまとめつつ、自らの期待する音楽アニメ像についても考えていきたい。


響け!ユーフォニアム

「響け!ユーフォニアム」は、武田綾乃による小説を原作とし、京都アニメーションが映像化を行なったアニメシリーズだ。ユーフォニアム奏者である主人公 黄前久美子(cv. 黒沢ともよ)が、北宇治高校吹奏楽部に入部してからの3年間を描いている。1年生編を描く1期(2015年)・2期(2016年)がそれぞれ1クールずつ放送されたのち、同吹奏楽部の別メンバーにスポットを当てたスピンオフ映画(2018年)や2年生編を描く劇場長編(2019年)・劇場中編(2023年)を経て、このたび3年生編がTVアニメとして全13話で放送された。

1期キービジュアル
©武田綾乃・宝島社/『響け!』製作委員会

内容について、映像に目を向ければそこは流石の京都アニメーション、全編通してクオリティは抜群であるし、ストーリーに関しても、武田作品ならではの濃い人間関係が魅力的である。加えて個人的な思い入れを語るなら、本シリーズの1期2期は一気見をせずに視聴した初めての旧作でもあって、TVアニメの醍醐味である物語の分割美を理解したという点から、自分のアニメ史におけるランドマーク的作品としても印象深い。

"響く"ための1年生編と来たる3年生編への懸念

アニメ化されて長い本シリーズであるが、作品の根幹として真に重要なのは1年生編である。この事実は1年生編が最も長尺でアニメ化されていることからも分かるが、より具体的には、1年生編における久美子の顕著な変化がそれを表している。つまり、中学生時代の吹奏楽コンクールで関西大会出場を逃した際に同級生の高坂麗奈が発した「悔しくて死にそう」を理解できなかった久美子が、高校で再び彼女と出会い、彼女を含めた他の部員や顧問との交流の中で、青春に前のめりになっていくという変化である。1年生編のキーパーソンである田中あすかは久美子のことを「ユーフォっぽい」と評するが、タイトルの「響け!ユーフォニアム」はこの発言と繋がっており、低音を担当するユーフォニアムを久美子の一歩引いた性格に重ねたうえで、その音が"響く"ことを青春に前のめりになることとして鼓舞している。
さて、ここでひとつの懸念が持ち上がる。作品の根幹たる"響く"ための1年生編、後輩の登場を以て"響いている"久美子を描いた2年生編。では3年生編は何を描くのだろうか。予告編においては、久美子が部長になり転校生が登場することが示されたが、何が起こるにせよ久美子が青春に前のめりになる過程は既に描かれてしまっている。3期視聴前の自分には、この物語にテーマ的な未踏領域が残されているとは思えなかったのである。

新たな視点"青春の価値"

結果として、3期で描かれたのは視点の進化であった。3年生になり、部長にもなった久美子は、より大きな視点から苦悩を抱えることとなる。それは卒業後の進路を決めねばならないという焦りであったり、絶対視されていた顧問 滝昇への信頼の揺らぎであったり、特別な関係を築いてきた麗奈と最後を飾れないかもという不安だったりする。これらは全て彼女が取り組んできた"青春"の価値を問うものと言えよう。1年生編を経て彼女が目指してきた姿、響かせてきた音は、絶対のものだったのか。続ける意義はあるのか、報われる未来はあるのか。そういった問いに向き合う3期であった。
では、久美子は、本作は、どういった結論を出したのか。紆余曲折の果てに辿り着いた結論を一言でまとめてしまうのは、物語の分割美の観点からも憚られるところだが、ここではあえて本編中の台詞を引用したい。

「ここで指導するようになって二年半、正直最初はモチベーションを保てるか不安でした。毎年メンバーが変わる楽団で、毎年一度しかない大会を目指すようなものですから。」
「確かに、、、そう改めて言われると変ですよね、学校の吹奏楽って。」
「大学生だった頃、彼女に言ったことがあるんですよ。それは賽の河原で石を積んでいるようなものじゃないかって。」
「奥さんは、何て答えたんですか。」
「石じゃないよ、人だよ、と。」

11話における滝昇と久美子の会話の一節だが、先ほどの問いに対する、静かながら力強いアンサーである。これまで取り組んできた音楽の価値が問われるなかで、しかしそれに取り組む人の在り方は揺るがない。そういった主張は、響け!ユーフォニアムという作品が演奏シーンを頻繁に省略することからも裏付けられる。青春の根幹にあるのは技術ではなく人なのだ。

人の成長、涙の意味

重要なのは演奏シーンではないとしたが、であるならば、本作のクライマックスは最終話ではない。その直前、久美子がソロを外れた12話の最終オーディション回である。物議を醸しもした12話だが、この敗北には青春の価値の証明という点で、大きな意義がある。それは何か。繰り返すようだが、本作において重要なのは技術ではなく人であり、本作における成長とは、熟達した演奏を達成することではなく憧れた姿に近づくことである。久美子の憧れた姿とは「悔しくて死にそう」だった麗奈の姿であり、久美子は敗北を悔やんで初めて、麗奈と同じ特別に至ったことを証明できるのである。

私、この気持ちも頑張って誇りにしたい。
どんなに離れてても、麗奈と肩を並べられるように。

おわりに

作品紹介の際に、「○○の成長を描いた話」と表現するのが嫌いだった。成長を描かない作品の方が珍しい中で、それは本質的な説明にならないからである。キャラクターの成長を描くことは前提として、重要なのは特筆性の有無である。その点から考えると、「響け!ユーフォニアム3」は特筆的な成長を描いていると言えるだろう。すなわち、音楽アニメにおいて技術的な側面を排し、人間関係の積み重ねによって心境変化を描き、主人公の敗北によってその結実を証明している。冒頭の議論に立ち返れば、自分が求める音楽アニメとは、表現を音楽に頼りすぎない作品かもしれない。そう思った。

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