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散る華は醜く、それゆえに。           -炎上撲滅!魔法少女アイ子-

少し前に「惡の華」というアニメを観た。作画にロトスコープを用いた作品でそれだけでも強い違和感を与えられたが、内容もかなり刺激的なものだった。クラスのマドンナに想いを寄せる主人公は、ある日彼女の体操着を盗んでしまう。自身の行為を後悔する主人公は、しかしその行為を目撃した別の少女に脅迫されることでより過激な行動に出ざるを得なくなる。初めは嫌悪感をもって脅迫に応じていた主人公だが、徐々に少女そのものに惹かれていくようになり、一方で体操着を盗まれたマドンナにも倒錯的な一面があることが明らかになってきて、、、というストーリーだ。背徳的、退廃的な空気感はフランスの詩人シャルル・ボードレールによる詩集「悪の華」からの引用であるとされるが、これについて、視聴当時の自分には良さが理解できなかった。単に「気持ち悪い」としか感じられなかったのである。
さて、このように嫌悪感と芸術性が共存するとは考えていなかった自分であるが、最近ある作品を観たことでその考えに変化があった。本稿では、その作品と、その作品について感じたことをまとめていきたい。


炎上撲滅!魔法少女アイ子

「炎上撲滅!魔法少女アイ子」は、2024年冬クールにおいて公開された4分×12話のショートアニメ作品だ。ネットクリエイターを基軸に新たなTVアニメの可能性を探るプロジェクト X Animeシリーズ における第二弾として、「教室隅の男・その名はジャック」氏を中心に作成された。タイトルにもある通りテーマは"炎上"であり、公式サイト[1]では以下のようにコンセプト説明がされている。

毎日のように報じられる不倫、パワハラ、コンプライアンス違反…
街のモラルは底を尽いていた。

そんな『裁かれざる悪』と戦うため、善良な市民達はスマホを、
魔法少女アイ子はアイ・ステッキを手に取った。

正しく清らかな社会の実現を目指して、
アイ子は今日も炎上芸能人や不倫政治家と戦うのだ。

アイ子よ、怒れ!正義の炎が、悪を焼き尽くすまで。

公式サイト あらすじより

一見すると世のリアルな悪を敵として位置付けた魔法少女ものであるが、しかしながら本作は「魔法少女×社会風刺 炎上エンタメショートアニメ」と銘打たれており、本編の毛色はこのあらすじと少々異なる。すなわち、問題を起こした"社会の悪"を市民と共に成敗する主人公のアイ子は、最初の方こそ憧れていた正義のヒロインになれたと喜ぶが、しかしその実態は私的制裁集団の頭領でしかなく、実現されるのは徹底的な監視社会でしかない。疑念から目を背けつつ肥大化する"正義"を先導してしまったアイ子を待っているのは、絶望と破滅であった、、、というのが真のあらすじである。まさに私的制裁の横行する現代社会をダイレクトに風刺した作品と言えるだろう。

風刺作品の妙

さて社会に異を唱える風刺作品に着いて回る視点として、"その風刺が秀逸なものか"というものがある。皆が感じているが上手く言語化できていない違和感、そういった感情を作品内でそれとなく主張できているか。これが重視されているように思う。
その意味では本作の風刺は、さほど秀逸なものとは思えない。「罪を犯したことのない者だけが石を投げよ」的なメッセージは文字通り聖書にも書かれているほど広く知られた主張で、視聴者に新たな気付きを投げかけることは無いし、不倫した芸能人を批判しているうちに正義が行き過ぎてしまいプライバシー侵害の問題につながる描写は、ただ現実の状況をトレースしているだけで芸がないとも言える。
しかしここで考えたいのは、風刺そのものが必ずしも秀逸である必要はないのではないか、ということである。例えば自分が過去に視聴したアニメ作品として「新世紀エヴァンゲリオン」や「輪るピングドラム」があるが、これらの作品から主張だけを抜き出すとすれば、前者においては"身近な人の死を受け入れて現実を生きることの大切さ"であり、後者においては"思いやりが紡ぐ世界の美しさ"である。どちらも非常に陳腐な主張であるが、これらの作品がそういった陳腐さを内に抱えながらも依然として名作であると認められている理由は、その主張の纏う外殻が圧倒的に綺麗だからである。つまり、作品を評価する際の基準として、"主張が強いか"とは別に"演出が巧いか"も存在するという訳である。
ちなみに本作の"炎上"に関する主張的な重みについて、「教室隅の男・その名はジャック」氏は制作決定広報[2]上で以下のように述べている。

今皆さんが一番興味があるテーマはなんだろうと考えた結果、『炎上』こそがそれだと思い至ったのです。人気のネタに乗っかるのは、YouTubeでは常套手段なのです。とはいえ、一言で『炎上』と言ってもそれぞれ問題の内容は異なる為一括りに論じるのはナンセンスだし、アニメの中での『炎上』は現実の『炎上』には到底かないませんから、このアニメでは『炎上』はせいぜい取っ掛かりくらいのものです。あくまでこのお話はアイ子を主人公とする魔法少女モノであり、ちょっとしたディストピアモノであり、楽しいコメディでもあり…と、そんな感じを目指して作りました。

原作者コメントより一部抜粋

原作者の思いを汲むことが常に正しいとは思わないが、本作を単なる"炎上現象を批判する作品"として捉え、主張的な側面のみからその出来を議論することはナンセンスだと言わざるを得ない。

スマートな演出

前章では、風刺作品だからといって主張の強さを過度に評価する必要はないと述べた。風刺的な強さから本作を論じれば今一つかもしれないが、別の評価軸である演出の巧さから語ることもできるだろうする意見である。すると当然の帰結として、では演出はどうだったのか、という話になってくる。
これに関してはまず自省から始まらざるを得ないのだが、かつての自分にとってショートアニメとは30分アニメよりも軽い結果しか残せないものだった。これは今まで観てきたショートアニメの多くが、単話の詰め合わせのような雰囲気を帯びていたことに由来する。アニメ作品とはひとつの物語に3か月かけて向き合っていくものであり、本来不連続なストーリーに1週間の切れ目が存在することがその醍醐味である。とすれば細かく区切ることを前提とした単話詰め合わせ形式は邪道ともいえるため、その形式に頼りがちなショートアニメを軽んじていたのである。
そんな考え方をしていた自分に、新風を吹き込んだのが本作の演出だった。1話4分というショートアニメの中でも特に短い部類に属しながら、様々なパターンの炎上に向き合わせる(単話詰め合わせ形式)ようなことをせず、炎上そのものに向き合わせるのは序盤だけに留めたうえで、監視社会の成立・市民の信者化・正義の暴走とそのエンタメ化というように話をステップアップさせていったのである。加えて毎話ラストの惹きも丁寧に用意されていたり、終盤の引き返せなくなった地点で原初の憧れが回想されたりと、ひとつ連なった物語として見せるためのスマートな演出が仕込まれており、30分アニメに勝るとも劣らない重みが醸し出されていた。
また、ストーリーにおける状況の流動性の高さに反して、唯一アイ子の時間が停滞していたのも注目に値する。変化していく周りの状況に疑念を抱きながらも、彼女は大きく声を挙げることをしなかった。彼女が内に秘めてしまった疑念、信念を誤魔化したゆえの焦りと冷や汗が本作のラストをさらに奥行きのあるものにしているように思う。

魔法少女を襲う悲劇

さて、ここまでは風刺として或いは演出の観点から本作を語ってきた。ここでもうひとつ興味深い視点として、魔法少女史における本作の位置づけのことを考えたい。より具体的には、"悲劇が待っている魔法少女"というジャンルの中での本作の特異性についてである。
"魔法少女"はダークファンタジーとの抱き合わせて描かれがちだというのは、まさか偏見ではあるまい。浅学ながらその歴史を振り返ると「魔法少女まどか☆マギカ」に始まり、「結城友奈は勇者である」「魔法少女育成計画」「魔法少女サイト」など幾つもの作品が思い浮かぶ。しかしここで気になるのは、魔法少女を襲う悲劇はその多くが運命的で、抗いようのない展開になっているということである。これは考えてみれば当然のことで、抗いようがあって容易にクリアできるようなものならそれは悲劇とは言えないのだし、悲劇が運命的でない、すなわち魔法少女自身が直接その悲劇を起こしたのであれば自己責任論で片付けられてしまう。裏を返せば、運命的で抗いようのない悲劇に身を置く魔法少女にこそ、人々は同情し応援し感動するのである。誰が言ったか「散る華のあはれ」という言葉があるが、この美しさに通ずるものであろう。
一方で本作における悲劇は、全く以てマッチポンプであり自己責任と言うほかない。極論を言ってしまえば、悲劇ですらないのである。魔法少女に憧れたアイ子はその思いを利用されてしまった。そのことに対する憐憫はあるだろう。しかしラストの破滅は、明らかに周りに流されてしまったアイ子自身が招いた結果である。彼女は止めることの出来た状況を止めなかったことで、絶望し、破滅したのである。
誤解して欲しくないのだが、自分はアイ子の自己責任的な破滅をもって本作を批判したいのではない。悲劇が運命的で抗いようのないものであるほど視聴者は魔法少女に同情し、美しさを感じてしまう。そんな構造の中で、魔法少女を自己責任的な悲劇に曝し、視聴者からの同情が得られない、美しくもない散華を迎えさせてしまった本作の、バッドエンドの徹底ぶりを評価したいのである。

おわりに

冒頭にて、嫌悪感と芸術性が共存するとは考えていなかったと述べた。厳密に言うなら、これは今でもそうである。「気持ち悪い」と「美しい」のアンビバレンツが成り立つのは相当に難しいことであると思う。しかし本作「炎上撲滅!魔法少女アイ子」を観ることで、「気持ち悪い」とまではいかなくとも、魔法少女の散りざまが「美しくない」ことで感心できるのだという経験を得た。これはいわば「美しくなさ」「醜さ」の可能性である。
本作は爆発によって締められた。絵に描いたようなチープな爆発であった。しかしこの爆発はそのチープさとは対照的に、自分が捉える芸術の可能性に大きな衝撃を与えたのである。



[1]「炎上撲滅!魔法少女アイ子」公式サイト

[2]「炎上撲滅!魔法少女アイ子」制作決定広報

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