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コーダのしていることは「介護」なのだろうか

ヤングケアラーということばがある。

フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)によると、ヤングケアラーは以下とある。

「通学や仕事のかたわら、障害や病気のある親や祖父母、年下のきょうだいなどの介護や世話をしている18歳未満の子どもを指す」

成蹊大学文学部教授の澁谷智子さんは、ヤングケアラーを次のように定義している。

「家族にケアを要する人がいる場合に、大人が担うようなケア責任を引き受け、家事や家族の世話、介護、感情面のサポートなどを行っている、18歳未満の子ども」

カタカナ語に抵抗を示す人は多くいる。
私もそうだ。
「『ヤング』は18歳未満の子どもを指すのか。じゃあ『ケアラー』って何?」
と、戸惑った。
「『介護』でいいんじゃないの?」
という人もいる。

コーダ(耳の聞こえない親を持つ聞こえる子ども)はケアラーにあたる。

食事・入浴・排せつなど生きていくために必要な日常生活の手助けは耳の聞こえない親に対して必要ではない。
聞こえなくたって車の運転もする。
仕事もしている。
世の中のほとんどの人がなぜか知らないだけで、耳の聞こえない人は普通に生活している。

けれど、聞こえないがゆえに物音やことばは耳から聞くことはできない。
雨の音も風の音も、テレビの音も、そして人の声も、聞こえない。
なにより、人との会話が困難である。
ろう者同士であれば手話で会話ができるが、相手が手話の分からない人だと困難が生じる。

コーダは必要に応じて、通訳のようなことを幼い頃からするのだ。
家の中にいるときは、「雨が降ってきたよ」とか「水道の水が出しっぱなしだよ」とか、音を親に伝えることも日常茶飯事。

これは「介護」なのだろうか?
どう考えても「介護」ということばは当てはまらないと思える。

聞こえない親も子供から介護されているとは思っていないだろう。
「ときどき通訳してもらう」
くらいに思っているのではないだろうか。

コーダは自分が生まれた時から耳の聞こえない親と接し、親の耳が聞こえない現実を、生活の中で実感しながら生きている。
親子の関係性は他の親子と何ら変わりないと思うが、「聞こえ」に関してだけは、聞こえるコーダがサポートすることがある。

「親が子どもに」ではなく「子どもが親に」。

聞こえない親の耳代わりをする。
さらに、声で上手に話せない親の場合は「声でしゃべること」も子どもが補う。

介護ではなくケア。
親の聞こえや会話をサポートするケア。

「聞こえ」だけではなく、耳が聞こえないことによる二次障害もあり、コーダによってはさらに苦労するわけだが。
(また別記事で書きます)

ヤングケアラーの苦労ははた目からは見えにくいし、理解しにくい。
特にコーダは分かりづらい。
「コーダについては理解されにくい」ということを、コーダは自身の経験から痛感している。
そのためなのか、コーダが自身のことを語ったり書き残したりすることが、今まであまり無かったような気がする。

コーダが親にしているサポートを、
「『介護』でいいじゃん」
と簡単にまとめられてしまいそうになると、
「『介護』じゃないんだよなぁ」
と思う私がいる。
コーダが親に対して行っていることを介護だという人は、私の知る限りいないし、「介護とは違う」という認識をおそらく皆が持っている。
聴覚障害は他の障害とは質が異なっており、その子どものコーダが親に対して行っていることの質も、他人からは理解しにくい。

「ヤングケアラー」も「コーダ」も外国から入ってきた言葉だ。
だからカタカナ語ということもある。
慣れるまでには時間がかかるだろうし、もしかしたらいつまでたっても慣れないのかもしれない。

親は『ろう者』で、その子どもは『コーダ』だと言われても、初めて聞く人にはまったくもって意味が分からないだろう。
これはさすがに説明する必要があると私は思っている。

耳の聞こえない親を持つ聞こえる人が、『ヤングケアラー』・『コーダ』というどちらのことばに先に出会うのか。

どちらにせよコーダにとって、自分が親のケアをしてきたことは紛れもない事実であり、それが今の自分を形成している大切な部分であると言い切って良いと思う。
そのことを、コーダが自分自身のいちばん深いところで受け入れて、自分を認めることができたならば、もうそれだけで充分幸せなんじゃないだろうかと私は考える。

ぜひ手話でご挨拶を申し上げたいところではございますが、手話には文字がありません……なんということでしょう!…ということで、これからも日本語で文章を書いていきたいと思う所存です。