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私が独立開業し、太田に移動するまで

一軒家で開業

自分が健康になるために、医療を提供する

さて、燃え尽きた後、私は、病院勤務医をやめた。2014年のことだ。
なぜか。私には、システムが合わなかっただけのことだ。自分が受けたくない医療を提供する病院で、私は医者として働きたくなかった。
身も心もボロボロになった私は、自分が病気にならないために、受けたい医療を追求したい。そのために、開業した。

さやかの健康支援塾

実は、開業前、セミナーだけ開催していた時期が数ヶ月ある。
もう、医者として、患者さんと関わって、依存され、頼りにされ、結局自分が疲弊するのが嫌だった。もっと違う形で、医療の枠組みを再構築したかったのだ。
自分の医者としての意義に疑問を感じ、こんなことを記している。
https://gunma-hhc.org/%e7%a7%81%e3%81%8c%e5%8c%bb%e8%80%85%e3%81%a7%e3%81%82%e3%82%8b%e6%84%8f%e5%91%b3/

そんなセミナーを自宅サロンとして公開していると、実に多くの人がやってくる。医者が、異業種と交流することは少ない。セラピスト、保険者さん、サプリの営業、下着の営業、化粧品の営業などなど。実に世の中には多くの職業があることに驚かされる。娑婆の世界に出たことがない私は、そんな異業種の方との交流が楽しかった。一方で、何というか、疲弊していたのも事実だ。私が自閉傾向にあるのは、先に書いた通りだ。
この頃、私は、「人間はエネルギー体である」ということを量子力学を基本としてバイオレゾナンス医学の視点から一般向けにセミナーしていた。
クリニックでセミナーをすることもあれば、出張してセミナーもしていた。サロン、美容室など、興味がある人が集まってくれて、話した。
話すのが楽しかったし、それを理解してくれる一般の人たちが少なからずいることに手応えを感じていた。私が目指している医療の方向性は間違いない。


待合室をセミナールームにした


まずは、一人でクリニック開業

開業当初は、手描き看板を一軒家の前に掲げた

勉強会を開いている内に、理想とする医療を提供するクリニックを開設したいという気持ちがむくむくと湧いてきた。
せっかく、一軒家を借りたんだし、クリニック開業してみようかな。
と言うわけで、借りた一軒家の図面を持って、前橋保健所に出向いてみた。
保健所の方に聞いてみると、なんとこの一軒家、医療施設の開設基準を満たしていた。
と言うわけで、クリニックを開設することにした。
保健所の担当の方からは
「関根先生、見切り発車というのは、良くないですよ。」
なんて心配されたが、聞く耳を持たない私は、そのまま開業に踏み込んだ。
その時、書いた記事がこちら↓

一軒家で開業したのは、上記の通りの理由だ。開業のハードルを下げて、固定費をなるべく抑えて、ニーズ調査も含めて、思う存分、試行錯誤した。
保健所の申請に限らず、税務署の手続きも、レセプト申請も全部自分でやった。最初は、受付も雇わず、電話対応も全て一人で行った。
そんな当時から、今まで通ってきてくれている患者さんたちに感謝したい。専門書を調べるか、わからなければ、関係部署に直接足を運んで聞くと、何でも教えてくれた。
そのプロセスは大変だったでしょうと言われるが、結構楽しかった。知らないことを学ぶのは楽しいことだ。後で知ったが、このような医院の開業をコンサルタントに一式お願いすると大金がかかるとのことだった。なんでも自分でやれることはやる、それが関根家のモットーだ。

6畳の和室が診察室 太田に移動した今でも通院してくれている患者さん

さやかが太田に移動するまで

出会いは必然!?

その出会いは、あるセミナーの日だった。
「こんにちは。」
今でも覚えている。親友「三田章子さん」(以下、あっこさん)との出会いだ。
偶然なのか、私の母親もあき子という名前だ。
話してみると、マインドマップとフラワーエッセンスを学んでいて、インストラクターとして講師をしているとのこと。
私も学んだばかりのことだったので、それらを共通言語として話せるのが嬉しかった。
「そんなマニアックなことを学んでいる人が世の中にいるんだ。しかも、この群馬に。」と一人呟いた。
私は前橋で、あっこさんは太田。
それから、私の交流が始まった。私が太田に出向くか、あっこさんが前橋に来るか。
前橋の「旧さやかクリニック」で、デザイナーズごっこをしたりした。二人でまかないご飯を作って食べたり、これからやりたいことを語り合ったり。
今だから思う。
私は、生まれて初めて、脳の使い方が似ている人に出会った。
そして、私の頭の中で抱えているジレンマを理解してくれる人に出会ったのだ。
それまでは、私が見ている私と他者が見ている私のギャップに苦しんでいたが、あっこさんは、私が見ている私を一緒に見てくれた。
嬉しかった。
脳のストレスが一気に軽減し、湯水のようにアイディアが湧いてきて、とにかく、二人でカフェに行っては、夢を語りながら、マインドマップを描きまくった。後に、この時マップに描いたことがどんどん事業展開され、夢が叶っていくという事実に気づくことになるが、その時の私はそんなことを知る由もない。
この時、一緒に開いた波動セミナーが大好評だった。


私が太田に来た理由

私が太田に来た理由。今までに、いくつか書いているので参考にしてほしい。

大した理由はない。
「えっ!」
と驚く方もいるが、皆さんは、どのように住む場所、働く場所を決めているだろうか。
以前、都内のセミナーに参加した時に出会った人は、宮古島を旅して気に入ったから移住したと言っていた。聞いた時に驚いたが、仕事なんてどうにでもなる。
私は、青森県弘前市の弘前大学で大学生活を過ごし、栃木県の自治医科大学で研修医として働いた後、沖縄県名護市の県立病院で2年ほど、働いたことがある。ちょうど大学病院での研修に物足りなさを感じ、友人が働いていて、Generalistとして勉強になると聞いて、私は移動した。
小児科医の友人から「沖縄良いね。」と言われたので、「小児科医も足りなくて募集いっぱいあるよ。」と伝えたが、移動したくても色んなしがらみがあって移動できないのだそうだ。
その時の感覚と似ている、
ただ、一緒にやりたい仲間がそこにいたから、太田に来た。
それ以外に理由が必要だろうか?と思う。
移動してすぐに、清水聖義市長とラジオで対談させて頂いた。その時のトークが楽しすぎた。冗談か何かわからないが、
「前橋から太田に来て、都落ちだよ。珍しいことするね。」とラジオで市長と話したのを覚えている。

よく分からない内に、ちょうど選挙の時で、応援演説を頼まれた。選挙には興味ないけれど、太田市に移動してくる時に、清水市長にはお世話になったので、演説させていただいた。依頼が来たときは、公民館のような小さな場所で話すと思っていたら、行ってみたら、随分と大きな会場なんでびっくりした。



人生には、流れのようなものがあって、何だかその時、ものすごく急ぐようにして前橋から太田にやってきた。
新しい太田ライフが始まったのだ。

この時、こんなことを書いていた。
「ぐんまHHCの学びの場と一体化した診療スタイルの実現」
住民が学びながら自分の身体を癒していく。
従来型の診療スタイルを超えた真の健康づくりがいよいよ始まる。

私のモットーは、好きな人と好きな場所で、好きなものに囲まれて、好きなことをして生きること。
そうやって、私は自分の生きたいように自分の人生を歩もうと決心したのだ。

太田で、さやかクリニック本格開業

昔、飲食店だった建物をリノベーション
お化粧して、ちょっと気取った私

お試し期間を卒業し、いよいよ本格開業

いよいよ、一軒家での試行錯誤の時代は過ぎて、本格的にクリニックを開業した。人を雇用して、場所も新しくして、よし、頑張るぞ。

医者という立場でセミナー活動を推進した

「病院を出よ。街へ出よ。」と掲げて、セミナーや講演会活動をし、「学びながら健康になる」という取り組みをしていた。
そのために、NPO法人 ぐんまHolistic Health College(以下、ぐんまHHC)を立ち上げた。
太田市に、市職員向けの「心のケアセミナー」を依頼され、講演したり、ぐんまHHCの代表として、精力的に市民教育に取り組んだ。
とにかく、一生懸命だった。太田市の小学校PTA向けの講演会、桐生市役所の「心のケアセミナー」大泉役場の「健康セミナー」。市民の意識が変わるのであればと、話した。

行政と一体になった、健康づくりの推進、まちづくり。
健康は、病院の中で得られるものではない。
「病院を出よ、街へ出よ。」

ある朝、腰痛で動けない

ある朝、起きたら腰痛で動けなくなっていた。
「さやかクリニック」と太田市で、大きな看板を掲げて3年が経った頃だった。
当時の事務長が
「腰痛で動けない時には、私がお迎えに行きますよ。」
と言ってくれた。その言葉に感謝どころか怒りが湧いてきたのを今でも覚えている。
「私は病気になっても私は休めないのか。医者である前に人間なんだけど。」と。
「休ませてほしい。」
と言えない自分がいた。
そんな時、夫がこんなことを言った。
「何のために、開業したんだ?さやかは。自治医大にいた頃は、勤務が大変で、当直が大変で、もう少し楽に働くために開業したのではないのか?」
その時、自分がなぜ開業したのか、すっかり忘れてしまっていた。
それでも、休めないと言い聞かせて、這うようにしてクリニックに行き、仕事をこなしていた。
「患者さんの前では、弱音は吐けない。」
と言いながら。
しかし、今から思えば、結構弱音を吐いていたんだと思う。
腰痛で腰を曲げて歩いていると、患者さんから
「先生、お大事に。」
と言われることもしばしば。
そして、とうとう、私は、
「医者を辞めます。」
とまで言うようになっていた。
「もう、クリニックを畳んで、しばらく一人でゆっくりしよう。」
そんなことを考えた。
そう。
「のたれ死んでも良いから、自由が欲しい。」

この頃の私の葛藤

もう、医者を辞めたいのに、辞めてはいけないと自分に言い聞かせている自分がいた。
このまま、生きる屍のように毎日同じことをしているのは嫌だ。そして、従業員に給与を払うために、借金を返すために、働き続けるのも嫌だ。そう感じて、限界だった。

いつの間にか勤務医時代と同じことを繰り返していた

組織全体が硬直していた

その当時は、分からなかったが、実は組織自体が硬直していたのだ。「院長」であり「医者」であり「経営者」である肩書きが、「さやかクリニック」という組織を創っていた。だから、働いている人が、私を院長だと認識し、ヒエラルキーの組織を創っていたのだ。

朝会のストレス

そんな硬直した組織で、当然、スタッフとの意思疎通がとれる訳が無い。私は横並びで、スタッフと意見を共有しようと、毎朝、15分ほどミーティングして、近況を一人一人話してもらっていた。始めは、本当に和気合い合いと、内面をシェアし、根っこの部分で繋がって仲間と仕事していた。いつの頃からか、ミーティング自体が、義務化され、皆があまり参加したくない会になっていた。このミーティングで、私は何度も涙を流したが、その意図は深く理解してもらえなかったのだと思う。
結局のところ
「変わり者の院長が、泣いたり喚いたりしている。」
で終わっていた。
「院長が、突飛なアイディアを出して、組織が混乱しないようにしよう。」
そんな空気がはびこっていた。

失敗したらどうしようという恐怖

結局のところ、私が抱いていたのは、医者として、統合医療を追求していくことへの恐怖感だった。人からどう見られるのか。他の医者から批判されないか。一見変わった医療を、一体どれだけの人が理解してくれるのだろうか。
その恐怖のあまり、行政との連携、事務長職の方への依存があったのだ。そして、「さやかクリニック」と言う、私の恐怖から始まった組織は硬直し、本音を語り合う組織とは程遠い状態となっていた。


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