見出し画像

ひ弱な私

なんで、私は誤解されるのだろう。

肝子ちゃん

ある夏の夜の出来事

ある夏の夜、お母さんと、妹2人と散歩していた。多分、私が小学校低学年だったと思う。ビーチサンダルで散歩していた。近所でキウイフルーツを育てている人がいて、
「食べたいなぁ」と思いながら、歩いていたら、何と、犬の糞をふんづけてしまった。
「ぬるっ」
ビーチサンダルからはみ出て、足の裏に犬の糞がべっとり。
泣きながら家に帰って、お母さんに足を洗ってもらった。今でも思い出すと泣けてくる思い出。
あの頃、私たち家族は、小さな貸家に住んでいて、毎年8月15日前橋の花火大会の日がやってくると、近くの橋の上から、花火を見た。みんなで、お酒やら料理やらを持ち寄って。花火はとっても小さく見えて、花火よりお母さんが近所の人と一緒に笑いながら愉快にビールを飲んでいるのを覚えている。

のろまな私


さて、その頃、私が小学校1−2年生の頃だ。周りの人から何か指摘されやすい性格だった。
「さやかちゃんは、歩くのがのろいね。」
「さやかちゃん、大丈夫?」
とか何とか。その度に傷ついていた。
「私は、きちんとやっているのに、どうして、そんなこと言われるのだろう。」
それは、実は、つい最近まで同じようなことが続いたのだ。
幼少時は妹とよく喧嘩して、お父さんに怒られていた。
小中学生の頃は、とても内気だったが、時々、訳のわからないことで、泣いていた記憶がある。先生が来ても、さやかちゃんがどうして泣いているのか分からないと言った具合だ。
高校生の頃は、自分を表現する友達ができた。とても嬉しかった。よく友達と紅茶やさんに行ったり、ご飯を食べたりしては、しゃべったのが良い思い出だ。一方で、数人で行動すると、自分だけ浮いている感じがして、疲弊していたのも確かだ。
そして、ついに大学1年生の時に、同級生の男の子から
「関根さん、大丈夫?」
と言われて、とても悲しかったのを覚えている。友達が慰めてくれたが、どうして、さやかちゃんが泣いているのか、分からないと言った具合だった。

私が見る自分と、人から見る自分が違う


今から思えば、私が見る私と、他人から見る私が違うって言うだけだった。
みんな、自分と同じ脳の使い方だと思っていたから、自分が他者が異なる思考や表現パターンを持っているなんて想像すらしたことがなかった。
私は自分の頭の中で、ものすごく色んなことを考えているのに、それを表現するのが苦手だったのだ。
表現していないから、理解してもらえないのは当然なのに、どうして、自分を理解してもらえないのか分からなかったのだ。
それも、つい最近まで。
だから、人からは、自分がのろまに見えて、実際のろまだったのかもしれないが、のろまと言われると腹が立ったのだと思う。
つまり、私には、自閉傾向があったというだけだ。
単純に、自分と他者とでは、思考のスピードやパターン、つまり脳の使い方が異なるという事実があるだけだ。それも十人十色。全員が違うのだ。

ひ弱な私が医者を目指した理由

資本主義の追求

私は、今になって良く聞かれることがある。
「先生は、なぜ医者になったのですか?」
何を隠そう、私が医者を目指したのは、実は「貧乏になりたくなかったから」というものだった。
小学校1年生になった私は、妹と同じ大きさの黄色い小さな傘をさしていた。学校に行くのに肩が濡れてしまうことがよくあった。もっと大きな傘が欲しかった。「傘を買ってほしい」とは言えなかった。家に傘を買うお金がなかったのか、それとも、「まだ使えるのだから大切に使え。」という父親の教えだったのかはよく分からない。
なぜか、大人になっても傘をなかなか買えない自分がいた。傘なんて後回しでよい。しばらくの間、人からもらった傘やビニール傘を使っていた。
やっと数年前、決意して、自分のためにデパートで高級な傘を買った。初めてだったかもしれない。
使えなくなるまで、ものを大切にしなさいという教えを未だに捨てられない。
裏紙が使えるのに捨てるのはもったいない。
封筒が使えるのに捨てるのはもったいない。
使っていない部屋の電気は消しなさい。
そんなもったいない精神の私がいる。
豊かになった今でも、タクシーに乗って移動するのがもったいなくて、歩いたりする。

妹の悩み

 私が医学生の頃、妹はすでに会社員として働いていた。私の妹は、学生時代は陸上部で走ったりしていたこともあり、比較的元気で、風邪を引くことも少なかった。しかし、学校を卒業して、働き始めると、「肩が痛い」「頭が痛い」「体がだるい」などで、医者通いが始まった。最初の頃は、点滴をしてもらって帰ってきていた。別の医者に行って、「点滴をして欲しい」と頼んだら、断られたと泣きながら帰ってきた。
 医学生だった私は、妹と医者とのやりとりがうまく理解できなかった。点滴が良かったかどうかは別として、とにかく、医者に通院しても、妹の症状が改善しなかった。検査をしても異常がない。
 今から考えれば、いわゆる「不定愁訴」だったのだろう。当時の私は、妹が可哀相で仕方なかったし、何か、そのような医療を受けることは無意味なんじゃないとという気がしていた。実際、妹は医者に行っても症状が良くならなかったのだ。
 一体、医療とは、どこまで人の役に立つのだろうか。そんな疑問を医学生ながら持っていた。
 そんなモヤモヤが、今でも、私の医者としてのあり方の原点となっている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?