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十三は情操教育の街である

大学進学に伴い、ひとり暮らしを始めたのも早いもので15年前の話になった。およそ進学校とはいえない高校で『蛍雪時代』とは無縁の堕落した3年間を過ごしたことから、主要な大学やその周辺環境について極めて無知だった僕は、安直にキャンパスから徒歩10分ほどの下宿の世話になった。郊外住宅地と学生街とがごっちゃになった千里の丘で、和歌山の田舎に生まれ育った大学生は持ち前の社会性の欠如をいっそう加速させた。要はろくに友人をつくることができず、ただれた大学生活を送るでもなく、卒業のその日を迎えたのである。梅田までは最寄駅から電車で20分強の距離だったが、そこで遊びを覚えることもなかった。

コンパともナンパともサークルとも無縁のキャンパスライフをまっとうし、実家に戻った僕はアルバイトのかたわら、唐突に受験した公務員試験に失敗。同時期に大学時代からの交際相手とも破局を迎えた。そのショックからかは判然としないが、売れないことは明白なバンド活動を開始し、ローリー寺西の影響から髪を伸ばすようになった。やや遅れて売れるために転居したのが淀川のほとり、阪急電車が3方向に分岐する十三の街だった。

新たな住まいは十三駅の東口から10分ほど歩いたところにあった。家賃3万2000円のオールドファッションなワンルーム、なおかつエレベーターのない5階建ての5階。歩いて1分ほどの距離にはストリップ小屋があったが、個室でいけないことをしていたらしく、ほどなく警察のガサ入れがあって営業停止処分になった。

典型的な郊外住宅地である千里とは異なり、十三には飲み屋があり、喫茶店があり、きちんと機能する商店街があった。古本屋に銭湯、風俗街もあった。正確にはそれらは千里にもないわけではないのだけど(風俗街はないけど)、周知の通りそれらの濃度が明らかに違っていた。トマソンやその延長線上にある被写体の撮れだかも段違いだった。僕が暮らした東口はステレオタイプな十三とはいくらか様相を異にしていたが、それでも大学の4年間を通して縁のなかった文化との接触は避けるべくもなかったのである。

そうした環境下に暮らすうち、自然と喫茶店に通うようになり、外で飲酒することを覚え、酩酊したまま西中島南方の駅のすぐ近くで楽器を携えたまま寝るようになった。乗り換えに便利な土地柄、近隣の街にも出かけるようになった。それらの原資は新大阪の「IT企業」におけるエロチャットの監視で稼いだ。その間、駅前にいけない待ち合わせをしている男女を認めたり、絶えずペットボトルを打ち鳴らしながら街を練り歩くホームレス男性に遭遇したりと、多様性なるものとの接触の機会もあった。十三バイパスのすぐ近くでエロチャットに出演している女性とすれ違い、腰を抜かさんばかりに驚いたことはいまも記憶に新しい。

ややあってテレビ局の子会社に籍を移し、報道のカメラアシスタントという職を得たが、自宅から徒歩15分のしょんべん横丁で大規模な火災が発生したその瞬間は寝ていた。本来であればスマホのカメラでも回すべきところ、迷惑をかけた。ともあれ、十三住まいゆえのアクセス性のよさから京都と神戸の支局での勤務もあり、つまりはその先々で飲む機会があり、周回遅れでスレていくことができたように思うのである。折々に酒席を設けてくれたカメラマン諸氏には、いまさらながら謝辞を述べねばなるまい。ありがとうございます。

結局のところ十三には2年ほど住んだが、あの2年間がなければいまの僕はなかったような気がする。ここでやっとこさ、自らの趣味嗜好が確定した感がある。猥雑であるがゆえに懐が深い。それゆえ、対外的な自己表現のギリギリのラインを表出できる――千里の丘で社会へのコミットを果たせなかった僕を、どうにかこうにか表へ引きずり出してくれたのが十三の街だと思う。地元にいてはなかなか接触のしようがない大阪の大阪らしいところに、半ば強制的に連れ出してくれたのが十三の街だと思う。阪急沿線から外れたところに暮らすようになって久しいし、西口のなにわ、東口のもみの木ともども閉店してしまったけれど、ちょこちょこ顔を出すようにしたい。

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