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恋と喫茶とおっさんと

昨晩、喫茶店に関する話を聞いていて、そういえば僕も意識的に喫茶店通いを始めてからだいぶになるなと気づかされた。もうゆうに10年は経っている。記録用に使っている食べログで「行った店」を確認してみると、「喫茶店」は491軒、「カフェ」は265軒と出てきたが、これには我ながらのけぞらざるをえない。この間、芦田愛菜ちゃんは少女から大人の女性に、清水富美加ちゃんは千眼美子ちゃんになった。喫茶店を取り巻く状況も、ずいぶん様相が変わってきたように思われる。

僕の喫茶店趣味を決定づけたのは、阪急十三駅を東へすぐ、商店街の2階に構える喫茶店・外國船である。その存在については大学の先生から聞かされており、たまたま近所に住んだことがきっかけで、足を運ぶようになった(これが学恩というのだと思う)。2012年のことだ。階段の蹴込み板には各国の港町の名が刻まれ、その最下段には「階上はアンテークな船室ムードが好評」(原文ママ)との貼り紙。確かにその言葉の通り、ビロードのソファ、アールを描く木製のパーティションは十三離れしたもので、往時のクルーズ船のごとき雰囲気を醸していた。そこに加わる家庭科学習を思わせる座布団カバー、スポーツ新聞等々が、ここが十三であるという現実を否が応にも意識させる、バランサーとしての機能を果たしていた。

何より出色だったのが、ウェイトレスのお姉ちゃんだ。まったく覇気を感じさせないその接客術は、20代前半の物を知らないヤングに、画一的なマニュアルが存在しない個人店における振る舞いを説くうえで、最良の教材だった。振り返ってみても、口角が上がっているところを見た記憶もなければ、おなかから声が出ていると感じたこともない。吉田美和と足して2で割っても、お姉ちゃんの方が勝つかもしれない。そこに特段うまいわけではないコーヒーが加わり、「それでもいい」「それがいい」という思考パターンが構築されていったように思う。

そうやって外國船の船上で開眼したわけだが、さらに趣味を広げるうえで十三住まいは圧倒的なアドバンテージになった。駅北東のつばめ通りにはマイルドな細野晴臣といった風情のマスターが営むもみの木が、西口を出てすぐのところには窓外に十三の人間模様を見下ろせる喫茶なにわがあった。当時の交際相手と連れ立って、いろいろの店に出かけては実利の伴わない話題に終始した。「あった」と記したことからも明らかなように、いまとなってはいずれの店も閉店しているが、ともあれそこから我々は府内、府外を問わず行く先々の喫茶店で無用の時間を過ごすようになっていた。東京、尾道、福井、広島、尾道。喫茶店趣味と関係の深化は同時進行、趣味を同じくする者同士の外出は余計な心配りをする必要もなく、実に気楽なものだった。

しばらくすると、店の人と話すことにも抵抗感がなくなってくる。ここへ来て、ようやく社会化の萌芽が始まったのである。四条通から西洞院をやや下がったところにある珈琲の店 雲仙では、常連のシルバー層のみなさんが「紀州の若」と水を向けてくれ、ママとも懇意になった。のちに取材がかなったのは、ひとえに光栄なことだった。先ごろ閉店した南森町の潮騒もマスターが気安い人で、周辺の昔話をよく聞かせてもらった。平日しか開けていないその店に行くということは、すなわち無職ということであり、足が遠ざかっては顔を出しということを何度か繰り返しては、「また辞めたんか」と鋭く切り込まれていた。さすがは剣道の師範である。いや、柔道だったかもしれない。合気道でしたっけ。

これらの店に通っていた時期、僕は喫煙者にモデルチェンジしていた。デビューは25歳ごろ、バンドマンをやっていたわりには遅咲きの部類に入ると思う。なぜ吸うようになったかというと、これが実に情けない。完全なるこちらの落ち度により、先の交際相手との関係がついえたからである。決定的な絶望感に駆られた僕は、やおらコンビニに足を向けたが、銘柄も何もよく分からないので、一番に目についた黄色いパッケージ、つまりはロングピースに手を出した。タールが強いとか、比較的高級な部類に入るとか、かつて誰それが吸っていたとか、そういうことはどうでもよかった。

ただ、タバコを吸うようになってからというもの、喫茶店との結びつきはより強くなった。いまから考えると、喫茶店通いを始めて間もないころの僕は、どうやって紫煙を伴わずして時間を過ごしていたのか、不思議である。いや、彼女とおったわけですね。当時以上に引き出しが増え、「ぼくのかんがえたさいきょうのデートコース」も組み立てやすくなっているというのに、世の中とはよく分からないものだ。そこから6、7年が経過したが、望ましい恋愛というのには一切縁がない。

後ろ向きな感情に支配されそうになったが、気を取り直したい。とにかく、そのころはギリギリ「喫茶店にタバコはつきもの」という見方が優勢だった(当社比)。映え、エモいといった瑞々しい感性で喫茶店が語られる、一部マニアの存在が大衆に知られるに至る、ちょうど端境期だったように思う。しかし、かような価値観に対応するためか、いまや古くからの店でも完全禁煙のところは多くなり、おっさん連中は居場所を失った。さらにホットケーキなり、パフェなりの名物(悪意を持って表現するなら、名物に祭り上げられたもの)がある店には目を疑わんばかりの行列ができるようになり、新興の店が「純喫茶」の看板を掲げるようにもなった。喫茶店は所在なげにだらだらする場所ではなくなり、明確な目的、例を挙げるなら写真撮影や感情の揺動を求めて訪ねる、そんな性格を帯びるようになっていくわけである。厳格な受動喫煙防止条例下にある東京はさらにハードな情勢らしく、愛煙家かつ喫茶愛好家の都内在住者の生の声には、半ば悲鳴に近しいものを感じずにはいられなかった。

「老害」とのそしりを受けないためにも明言しておくが、こうした状況の変化自体を悪く言うつもりはない。自らが落ち着ける場所を探せばいい、それだけのことだと思う。ただ、野球帽にワークジャケット姿のおっさんたちは、どこへ行ってしまったのだろう。こうした経過の間に、僕もお兄さんとおっさんの狭間を生きる年齢になり、老害当事者としての構成要件を満たしつつあるが、このよく分からないロン毛もいったいどこへ向かおうとしているのだろう。

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