見出し画像

コンベンツアル会ゆかりの聖人たち-第三回 聖クララ

アシジの聖クララ(1194-1253)

聖フランシスコの生き方に憧れ、生涯を清貧のうちに生きたアシジの聖クララの紹介


1194年、クララはイタリア・アシジの裕福な貴族の家庭に生まれました。母親のオルトラーナは出産に際して死の危険から救うために熱心に祈りました。すると「恐れることはありません。あなたは光そのものをさらに輝かせる光をこの世にもたらすのですから」という声が聞こえてきました。そこで「クララ(輝き)」と名付けられました。

父親のオフレドゥッチョのファヴァローネは、クララが幼いときになくなりました。クララにはベアトリーチェとカテリーナという姉妹がいました。父親の早すぎる死、ペルージャへの避難、経済的困難はクララの個性を作り上げてゆきました。これらすべてのことは後に福音的生活に入ることになる彼女にとって必要なことだったのでしょう。

フランシスコの青年期が波乱に満ちていたのに対し、クララの青年期は直線的で透明なものでした。わずか13歳の時に、ポルチウンクラ教会の修復のために働く貧しい若者たちを支援したいと思いました。その中にフランシスコがいたとは思いもよらないことでした。この時の施しがフランシスコとクララの最初の出会いとなりました。

1211年、クララの親族は結婚の準備を始めましたが、彼女はこれを拒みます。
クララのかたくなな態度に親族たちも諦めざるを得ませんでした。フランシスコに出会ってからクララの人生は全く別の方向性をとり始めました。むしろフランシスコとその生活に惹かれたのはクララであり、いつも一緒にいたいと思っていました。よくクララと行動を共にしていた友人のボナ・ディ・ゲルフッチオによると、それがキリストに従って生きる方法と彼女には思えたのでした。

1212年3月18日、枝の主日の日曜日、家を飛び出し、ポルチウンクラの庵で短い祈りをした後、髪を切り、自分自身を神に捧げました。それは福音に生きるために固い決意で新しい道を歩み始めた決定的な日でした。

親族たちははこれに猛反対し、フランシスコが夜彼女をかくまったバスティアの聖パウロ教会を襲いましたが、クララを取り戻すことは出来ませんでした。

数週間後、今度は妹のカテリーナもクララに加わり、すべてを神に捧げるために付いてきました。フランシスコはカテリーナの髪を切り、アグネスという新しい名を授けます。そして神に自らを奉献するためにサンダミアーノ教会を彼女たちに与えました。アグネスに続いて、パシフィカ、バルビナ、フィリッパ、ボナベントゥラらが加わりました。

フランシスコは彼女たちのために、その生活の様式について書き記し、自ら進んで貧しい者として生活するように諭しました。

1216年、クララたちの新しい共同体に貧しさを表す名をつけることを望んで、クララは教皇イノセントIIIに貧しさの特権、すなわち何も所有しない特権を求めました。当初、清貧の女性修道会という名前で呼ばれました。1263年以降クララ会となりました。

徹底した貧しさは、間違いなくクララとその姉妹たちの生活を特徴付けるものでした。

何年もの間、クララは病に苦しみ、粗末なベッドに臥しながらもサンダミアーノの魂であり続けました。そこから神の計らいによりクララの会は何百もの修道院が誕生してゆきました。イタリアでは60以上、他のヨーロッパ諸国でも40以上に拡大してゆきました。

フランシスコの死後、フランシスコの生き方に最も忠実であった彼女のもとに兄弟たちはしばしば向かいました。兄弟会の制度的危機に際しても彼女の助言と祈りを求めました。

1253年8月11日、「わたしをお創りになった神は祝されますように」と主をたたえながら、彼女を息を引き取りました。2年後の1255年、教皇アレクサンドロ4世は、彼女を聖人の位に上げました。彼女に捧げられたサンタキアラ教会に移される前に、アシジのサンジョルジョ教会に遺体が安置されました。そこは聖フランシスコの遺体が安置された場所でもあります。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?