聖フランシスコと味わう主日のみことば〈復活節第3主日〉
メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する・・・エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる(ルカ24・46-48)。
復活節第3主日のミサの集会祈願(試用)では、次のように祈られています。「救いの源である神よ、あなたは御子キリストの復活によって、全世界を罪と死の支配から解放してくださいました。あなたに呼ばれ、一つの民とされたわたしたちをみことばによって強め、主の復活をあかしする者としてください」。
今日は、集会祈願の最後にある〈主の復活をあかしする者〉という言葉に注目して、主日の福音(ルカ24・35-48)を味わってみたいと思います。
弟子たちは、各々、それぞれの状況のもとで、復活したイエスに出会うという体験をしていました。彼らは互いにその喜びの体験を分かち合っていたのでしょう。上気した弟子たちの顔が目に浮かぶようです。
その時、イエスご自身が「彼らの真ん中に」(24・36)立ち現れ、いつものように「あなたがたに平和があるように」(24・36)と言われます。ここで、イエスが弟子たちの共同体の中心にいることが示されています。イエスは、常に共同体の真ん中にいらっしゃるのです。ところが、弟子たちは、目にしている現実を受け入れられずに恐れおののいてしまいます。
ここで、イエスは弟子たちにご自分の手足を見せて、さらに「触ってみなさい」(24・39)と言い、魚まで食べてみせます。これは、イエスの復活が、単に弟子たちの頭の中の概念上の出来事ではなく、まさにイエスに触れることのできる、それほどに生き生きと現実のこととして感じられるものだということを意味しています。つまり、復活のイエスとの出会いは、超自然的な次元で〈聖なる畏敬〉の念を起こさせるような不思議な出来事であると同時に、現実に根ざした疑いようのない〈信仰の体験〉なのです。
さらにそれは、単なる個人的体験に留ることなく、〈共同体的〉な次元に弟子たちを招きます。この〈共同体的〉であるということが、イエスの復活の一つの大きな意義であると言えるでしょう。復活のイエスの立ち現れたこの場は、すでに〈教会〉の萌芽なのです。
〈共同体的〉であるということは、神様のなさり方の大事な特徴です。神様による〈救い〉は、実は〈共同体的〉なものだからです。アシジの聖フランシスコも、全く個人的な信仰体験の後に、神様の摂理によって少しずつ共に信仰を歩む仲間たち、つまり霊的な兄弟たちを得ていきました。それはやがて、修道会へと発展していくのですが、しかしその始まりは、この時の弟子たちのように、数人規模のとても小さく、まだ弱々しいものでした。そして、この小さく、弱々しいことが、実は神様の方法にとって、もう一つの大事な要素となります。
小さく、弱々しいということは、それだけ非力で傷つきやすいことを意味しています。生まれたばかりの動物の赤ちゃんは、外敵に襲われる危険に曝されていますが、イエスの復活に立ち会っている弟子たちや、ごく初期のフランシスコのまわりにできた共同体も、いつ世間の迫害にぺしゃんこにされてしまってもおかしくないほど、弱々しい存在でした。
ところが、イエスは、こうした見るからに小さく弱々しい共同体の一人一人に向かって、切々と語ります。「わたしがあなた方と居たときに一度語ったことを、忘れてしまったのか。それなら、もう一度語ろう。聖書にこう書いてあるだろう。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する』と」(24・44-46参照)。
これを聴いて、弟子たちは、数日前のあの悲劇的な出来事をまざまざと思い出したにちがいありません。十字架に磔にされた目を覆いたくなるようなイエスの姿―。しかし、そのイエスが今、目の前に栄光に輝いた姿で喜びに満ちあふれているのです。この逆説は、人間的な常識を遙かに超えています。
イエスは続けます。「(聖書には)『罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と書かれている。あなたがたは、これらのことを証しする者になる」(24・47-48)。
イエスの復活をあかしするとは、結局のところ、このイエスの言葉に全幅の信頼を置いて、イエスの通った道を辿る事以外にないといえます。それは、非力で小さく弱々しい自分と、同じように非力で小さい兄弟たちという共同体の中で、自分自身を神様に懸けていくことです。
フランシスコは言います。
(わたしたちは)信仰篤く、柔和で、善良な人々に会うでしょう。そのような人たちは喜んであなたたちとあなたたちの言葉を受け入れるでしょう。もっと多くの不信仰で、傲慢で、冒涜の言葉を口にする人々にも出会うでしょう。そのような人たちは、あなたたちとあなたたちの言うことを非難して反抗するでしょう。それ故、忍耐と謙遜をもってすべてのことに耐えると心に決めてください〈『三人の伴侶による伝記』〉。※1
これを実行に移すためには、わたしたちはイエス本人に強めてもらわなければなりません。そして、そのイエスはいつもわたしたちの真ん中にいてくださるのです。
※1 『アシジの聖フランシスコ伝記資料集』、フランシスコ会日本管区訳・監修、教文館、2015年、186頁。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?