見出し画像

聖フランシスコと味わう主日のみことば〈四旬節第5主日〉

「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」(ヨハネ12・25)



四旬節を皆様はいかがお過ごしでしょうか。いつもより、少しだけ好きなことを我慢したり、誰かのために祈ったり、不平や悪口を言わないように心掛けたり、何かしら、自分に出来る小さなことを、神様に献げていらっしゃる方もいることと思います。
 
今日の主日のみことばは、そのような神様への小さな〈献げ物〉をする季節を送っているわたしたちが、〈復活〉に向かってより一層前向きな気持ちで〈献げ物〉をすることができるよう、励ましてくれているように思われます。

ところで、〈自分の命〉を愛するのは、人間にとって至極当たり前のことですが、それを「憎みなさい」といっているイエスの言葉を一体どのように、わたしたちは理解すればよいのでしょうか。これを理解するヒントを、アシジの聖フランシスコの書き物から、読み解いてみましょう。

フランシスコは、キリストの足跡に従おうとする兄弟達に『訓戒の言葉』を遺していますが、その14番目には次のように書かれています。

祈りや信心業に励み、自分の体に厳しい断食や苦行を課していながら、自分の体への侮辱だと思われるただひと言のために、あるいは、自分から取り上げられた些細なもののために、躓いて、すぐに心を乱してしまう人が大ぜいいます。こういう人は心が貧しくありません。なぜなら、本当に心の貧しい人は、「自分自身を憎んでおり」(ルカ14・26)、「自分の頬を打つ者をも愛している」(マタ5・39)からです(脚注1)。


ここでは、〈自分自身を憎む〉ということが、〈心の貧しさ〉との関係の中で語られていますが、これはどういうことなのでしょう。

おそらく、フランシスコは兄弟達と一緒に暮らしていた日々の中で、信心深く祈り、一生懸命断食し、苦行に励んでいる兄弟が、自分に浴びせられた侮辱と思われるただ一つの言葉や、何か自分の考えとは異なる事態を強いられたとき、いとも簡単に心を取り乱してしまう様子を身近に見ていたのでしょう。

本来、こうした祈りや断食といったことは、心の貧しく、へりくだったイエスの足跡について行く力を養うための手段に過ぎないことですが、人は知らず知らずに、そうした外的な行為を目的としてしまい、肝心な内的な生き方をおろそかにして、本来の目的を見失ってしまうことがあります。そうなると、その人は、自分自身の心を〈我=わがまま〉で太らせてしまいます。それは、イエスの言う「自分の命を愛する」ことになってしまうのです。それでは、貧しく、へりくだったイエスのように生きることが出来なくなってしまいます。

フランシスコは言います。「本当に心の貧しい人は、『自分の頬を打つ者をも愛している』」。この言葉から、イエスのように生きることは、とてもラディカル(徹底的)なことだということが分かります。つまり、「自分を侮辱する隣人を、すぐにゆるし、愛せるほどに、心の貧しい、へりくだった者になりなさい」とイエスは、言っているのです。それは、言い換えれば、わたしたちが大きくしてしまった〈我=わがまま〉を、「もっと小さく、小さく、小さくしなさい」と言っていることなのです。

しかし、どうでしょう。「これはとても難しく、自分にはとてもできない」とわたしたちは思ってしまいます。確かにその通りです。わたしたちの力だけではとても出来ないことです。ところが、イエスは次のようにも言っておられます。

「わたしに仕えようとする者は、わたしに従いなさい。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる」(ヨハネ12・26)。


イエスは、わたしたち自身の力だけでは到底出来ないことへと、わたしたちを招いておられます。それは、神様の〈恵み〉の業です。わたしたちは、その〈恵み〉に対する信頼を持つようにと、促されているのではないでしょうか。その行き着く先は、〈永遠の命〉です。


脚注1 『アシジの聖フランシスコの小品集』、庄司篤訳、聖母の騎士社、1988年、40-41頁。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?