負荷について 2023
新年から負荷について考えている。ストレスとも言い換えられるものだ。何故かこの負荷の持つ意味や正体が気になり始めたのだ。
まず仕分けから。
身体的負荷と精神的負荷に分けてみる。
イメージだけで語ると、身体的負荷は重さとか、摩擦による動きにくさ、という捉え方だ。負荷の単位は何だろう。重さを表すキログラム、重力単位のジュールが真っ先に思いつく。
つまり身体的負荷とは、自重のことだと仮定してみる。
翻って精神的負荷はどうだろう。まあいわゆるストレスと言って良いだろう。
この2つの負荷が、我々のストレスの原因だ。さすがに肉体的負荷を減らすことは劇的にはできない。
だが、精神的ストレスは軽減できる。そう思っていないだろか。残念だが、精神的ストレスは無くならない。それはストレスゼロの状態を想像してみるとそれが分かる。
ストレスゼロを想像すると、
まず、何にもぶつからない広いパーソナルスペースがいる。そこには一切物質がない。
物質の存在は、ストレスの可能性を秘めているからだ。もっと小さい方が良かった、あの色が良かった、ぶつかった、落とした、壊れた、飽きた、といった新たなストレスを産むに違いないからだ。
もちろん人もいない。比較自体がストレスになるので他人は要らない。たとえ親兄弟や家族でもいてはならない。
思った時に、全てが叶えられる状態を維持する。四次元ポケットドラえもんなし。
例えば寝たいと思ったらコンマ何秒で睡眠に入り、なんか食べたいと思った瞬間、その味が口の中に広がる、まさに夢の機能だ。
さすがにドラえもんはいらない。ストレスになるだろう。
そして、肉体的負荷もなくすなら、重力もなくして、気温も湿度も一定の部屋を用意しなければならない。
これでようやくストレスゼロだ。
ただし恐らくその生活にも飽きてきて、ストレスを感じることになるので、ストレスゼロを体験できる期間は限られているだろう。
と、考えていくと、我々人類は負荷を持ち続けるように初めからデサインされたのだと仮定してみる。
そして実は負荷というのは、
人を構成する要素、水、細胞、と言ったレベルで決まった量が身体に存在しており、その姿は様々な疾患として表に出てくるものなのかもしれない。
例えば、派手ではないが、自分で好きなことをして稼いで人生を送る人と、会社勤めでやりたくないことをやり、お金のために働く人との間にストレスの差はあると感じるだろう。
だが、実際には違う。
前者は一見ストレス度が低そうだが、自分で舵取りをするため、そちらに心労負荷がかかる。
芸能人やスポーツ選手も、明日が分からないという不安がストレスに形を変える。
そうやって考えてみたら、誰もがみな同じ量の負荷を、減らせることなく抱え続けているのかもしれない。
身体的負荷の偏差が、自重の差であるならば、肉体的負荷の程度の差は身体的特徴の差ぐらいのもので、
そのメソッドを精神にもあててみると、やはりストレスの絶対値は、個人的にあまり差がないと言いきれる。
では、人類は古来から現代まて同じ量のストレスを抱えているのに現代人だけが精神的に不幸に見えるのは何故か。
答えは簡単だ。他の生活水準が上がりまくったからだ。
暖かい暖房の効いた部屋で、殺される不安もなく、美味しいコーヒーを飲んで本を読んでいる現代人のずっーーと昔の先祖は、この1月の寒い中、隙間風の入る家で藁の中で暖をとり、震えながら、腹を空かせていたかもしれない。ストレスの種類が違うのは当たり前だ。
結論。
・自分の今抱えているストレス量は、実は他人とそんなに変わらない。みんなハッピーというわけではない。
・時代によってストレスの現れ方が異なる。現代は衛生上だいぶマシな為、精神的疾患へとストレスが形を変えた。
と自分なりに物事を理解することにより、溜飲をさげ、ストレスを軽減する作業報告。
あと、年末から結構聴いているストレス軽減ビタミン剤を。
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