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信仰サッカー

「ならいいよ。おやすみ。」

と、一方的にユウジから通話を切られた。
昨日の夜ライン見てなかったの多分怒っている。機嫌が悪い。

iphoneをソファに投げて、
そのあと自分の身も預ける。

本棚の隣の空気清浄機と目が合う。

てか、この空気清浄機、
本当に綺麗な空気を出してるの?

と疑ったのは、ほんの思いつきに過ぎなかった。

目に見えないものは確かめようがないし、
信じるしかない。

この水も本当に天然水なのか、
信じるしかない。

と、ペットボトルの水をひと口含み、
ソファから身体を起こした。


私たちはいかに目に見えないものを信じて生きているのか、とふと怒りが沸いてきた。

というより、綺麗な空気も、天然水も、ユウジの言葉も、信じるしか選択肢がない。

信じるしか残されていないとき、人は祈るしかない。

だったら、これも祈りなのかな。
誰に対しての??



多分神様だ。

 人の信仰については、割と昔から考えている方だ。

海外の映画や、特に本を読んでいると、
必ず神が出てくる。
ドストエフスキーなんか、神ばっかりだ。

だから神についての記述に多く触れてきたからかもしれない。神と言われても耐性がある。

特に海外の人が、あまり他人のことを気にしないのは、個人が神様と契約をしているからだと思っている。

神様へのエクスキューズさえあれば、他人へのそれは必要ない。日本の同調圧力が海外にない理由だ。

だけど、信仰の始まりについて書いているものはあまり見たことがない。

だから空気清浄機を睨み、自分で答えを出す。今までそうしてきたみたいに。

信仰の始まりは、恐らくこうだ。

人は人である限り、欲の終わりはない。
自由を与えられたら人はどこまでも厚顔に振る舞う。

惰性で生きていける原資さえあれば、
人はどこまでも堕落できると思う。

朝お日様が出ても寝ていたい。
お腹がいっぱいになるまで食べたい。
ずっと性交に溺れていたい。
嘘ばかりついて、人を騙して楽に生きたい。
気に要らないことは暴力で解決したい。
殺して犯して飲んで食べて吐いていたい。

人間はそう遺伝子にデザインされている。

そして、実際そういう時代もあったのだろう。

でもそれでは不都合が出てきた。
一番偉い人が、人が繁栄しねー!ってキレた。
だから禁止した。
それが宗教だ。

と、ここまで約3分。
ユージからLINEかかってきた。

よしよし。実はお風呂に入るの待ってました。


「もしもし?」
「もしもし?俺。さっきなんか最後感じ悪かったよね。ごめんね。」

思わずにまる。
私はユウジの言葉よりも、その時の雰囲気や声のトーンで、推し量る。
かかってくることを確信していた。

「ううん、全然。
ねえ、会いたいね。」

「ふふ、会いたいね。」

そう、宗教はそういう意味で、もともと欲を縛るための機関だから、
そんなに毛嫌いすることは無い。
むしろというかやはり、偉いと思う。

私はダメだ、もうユウジに会うだろう。明日。そのことを思い、自虐的に笑う。

結局目に見えないものに対して、
私たちはそれに名前をつけて、祈るくらいしかできない。

今は目に見えないが、今日セーブしたカロリー分、私のボディはスリムになっているはずなのだ。マジで。



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