偶像礼拝とは、思いの中で勝手に作り上げる自分の「神」を優先することである
モーセがシナイ山で神様から授かった十戒の板。そのうちの、第3戒が、「自分のために偶像を造ってはならない」というものです。いわゆる偶像礼拝を戒めたものです。
偶像礼拝といいますと、日本のクリスチャンは仏像やお地蔵さんなどに手を合わせることを連想しがちです。
しかし、「異教」の像だけが偶像礼拝ではありません。
自分の心を占めている神以外のもの。それは偶像になりえます。
たとえば学歴でも健康でも良い行いでも、「こうあるべきだ」と私たちの基準で物事を判断する時に、それは偶像になりえます。
時には、社会的成功、お金など、さらには教会や善行でさえ、偶像になりえるのです。
私たちは偶像をつくりやすいものです。
「神とはこういう方だ」と思い込み、その決めつけが頭を占めるならば、それは私たちの偶像になります。
「もし神がいるなら、なぜこんな悲惨なことがおきるのか」と誰もが感じる時があるのではないでしょうか。
これも、もしかしたら「私がもし神様だったら、こんな悪いことは起こさないだろう。私のほうが神様より賢い」と自分の思いで判断する偶像をつくっているかもしれません。
すなわち、偶像礼拝とは、目に見える異教の像だけでなく、私たちの心の中で神以外のものを第一にし「こうあるべきだ」とすることです。
この点、ニューヨークの牧師ティムケラーの『偽りの神々』が、偶像礼拝について的確に論じています。
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