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いい日旅立ち〜いざ、航海へ



私たちの人生は「船旅」に例えられます。「船出」「順風満帆」「舵取り」といった航海のたとえを私達の生活でも用います。海の天気は変わりやすく、晴れてたらと思ってたら、いきなり大雨がきたりします。私たちの人生の船旅、航海においても、順風満帆な時もあれば、まさかという嵐もあったりします。

今日は、行人坂教会が120年間続けてきた「船旅」で、新たな航海の始まりということで、ヘブライ人の手紙から「錨」という言葉に注目して、私たちに与えられた希望についてみていきましょう。


1.動かない遠くの目標

この度、行人坂教会の主任担任教師に招聘いただきました関智征です。少し自己紹介します。私は新潟県新潟市という港町で幼稚園から高校まで育ちました。両親は今も健在で新潟市内に住んでおります。その実家から自転車で10分ほどで日本海の海水浴場がありました。小さいときから父親と弟と海に遊びに行きました。高校のすぐ裏が海でした。テニス部のランニングは海沿いの道でした。トレーニングをしながら、新潟港から佐渡ヶ島に向かう佐渡汽船という船を眺めていました。

小学生の時、毎年、夏休みに祖父と祖母が住む佐渡ヶ島に行き、両津という港町の海水浴場で遊ぶのが楽しみでした。佐渡汽船の船に乗り込む時、ワクワクして走って船に乗っていたのを思い出します。「本船は新潟港を出港し、両津港を目指して出港します」という船長さんのアナウンスをきくとテンションが上がりました。新潟の港を離れると、かもめ(?)が船についてきました。カッパえびせんを船のデッキからあげると、かもめがパクっとお菓子をくわえていきました。

しばらくすると、新潟の陸が遠くなりましたかもめもいつのまにか、いなくなります。海だけの景色が続く中、デッキで輪投げをやったり船の中のゲームセンターでインベーダーゲームをしたり、大きい船の中を探検して回ったりしていると、遠くにかすかに見えた佐渡ヶ島の陸が大きくはっきり見えてきます。すると、船のアナウンスで「ありゃさーありゃさー」という佐渡おけさが流れてきますと「今年も佐渡でおじいちゃんとスイカ割りして遊べるぞ!」という気持ちになりました。

夏の新潟の海は気持ちよくて景色も最高なのですが、冬の日本海は景色も一変します。毎日、低い雲で空の色は暗く、ほとんど毎日、雨か雪です。松尾 芭 蕉 は越後を旅したときに、日本海の新潟沖に浮かぶ佐渡ヶ島を見ながら「荒海や佐渡に横とう天の川」と詠みました。それくらい冬の日本海は大荒れの日が多いのです。

冬に舟にのって佐渡ヶ島の祖父母の家に遊びにいくと、風も強く、船は大揺れです。船酔いします。うちの母なんかは「佐渡汽船の船がしんどいから冬は佐渡に帰りたくないっちゃ」と嫌がっていました。

ある冬休み、雪の日本海を佐渡汽船で祖父と祖母の家に、親戚のおじさんと乗りました。グラグラ揺れる舟の中で船酔いしそうになっている小学生の私に、親戚のおじさんに揺れる舟で言われました。

「ともくん、船酔いをしない方法を知っているかい?」
「えっ。知らない」
「近くをみていると、気持ち悪くなるでしょう. でも遠くにある陸をみてごらん。動かない陸から目を離さないでいると、少し船酔いが楽になるっちゃ。」

この遠くの動かない目標に目を向けるという言葉は私自身の原体験になっています。「信仰の創始者または完成者、昨日も今日も変わらないイエス・キリストに目を向け、たとえ目の前にたくさんの問題があっても、目標に向かって進んでいきます。


2.安全で確かな錨(いかり)

「わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものである。(ヘブライ人への手紙6:19)

佐渡ヶ島両津港に船がつくと、当時、電動式のチェーンで舟の先頭にある船の錨が、海底におろされます。この「錨」の目的は何でしょうか。船の「錨」を港や停泊地で海の底までおろすことで、船が海の上にしっかり留まるためです。


錨は英語でアンカーです。陸上競技や水泳のリレーの最後の人をアンカーと呼んだりします。テレビ番組のニュース・キャスターで中心の人をアンカーと言ったりします。アンカー(錨)とはそのチームの中で「いちばん大事な役割」という意味で使われます。

私の先輩が通っている東京池袋教会の建物は、教会の建物が船の形をコンセプトにデザインされていて、その教会の中に本物の船の錨がありました。その錨の横には、こんなことばが刻まれていました。

“錨(いかり)”は聖書では希望、安全、不動のシンボルであり、永遠の生命キリスト教的シンボルです。私たちの教会は、このいかりをつけ主イエス・キリストを船長とし、私たちは船員となり、嵐の中でもこの信仰と希望と愛を運ぶ船でもあります。

港でどっしりと海底に沈んだ錨は海の上の船を支えます。同じように、イエス・キリストという錨が私たちを生かして支えてくれるのです。

私たちの人生の船旅の中では、海の状態が凪の時、順調な時もあれば、海が大荒れ、思ったようにいかなくて心が嵐みたいな時もあるのではないでしょうか。今は思うようにいかなくても、じっと待てばそのうちにチャンスがめぐってくるという「待てば、海路の、日和あり」精神でアブラハム、イサク、ヤコブも忍耐しながら希望を忘れず根気よく待って、約束のものを得たわけです。

将棋界のレジェンド加藤一二三九段(ひふみん)が、こんなことを書いていました。

キリスト教の最高の徳は忍耐だといわれています。新約聖書ローマ人への手紙の中で聖パウロは次のように言っています。「艱難は忍耐を生じ、忍耐は練達を生じ、練達は希望を生ず」☆。失敗とか挫折とか、思うようにいかないことがあるからこそ、人間は成熟し、人格的にも深みが増していくんですね

 

3.人生の荒波

私たちの人生でも、凪で順風満帆の時もあります。逆に、試練という荒波に押し流されてしまうものです。心の中が嵐。感情の大波や暴風雨に揺らいでしまうものです。今、先が見えない。不安だ。人と自分を比べてばかり。寂しい。体調が思うように回復せず体が痛い。
大事な人に会えない。悲しみを抱えている。いろいろ大変で、てんてこ舞いだ。イライラ。人を傷つけてしまう。どの方向に進んだらいいかわからなくなったりします。思うようにいかなくて、失敗しても

しかし、そんな私達のためにイエスが十字架にかかり復活しました。そのイエス・キリストという船の錨が見えないところで私たちを支えてくれているという希望があります。それは、主イエスキリストの十字架の血で私達が赦されるという希望です。大祭司イエスが私達のために祈ってくれているという希望です。天のふるさとに、志を果たしていつの日にか帰らん、という希望です。


私の生命の恩人の102歳のお医者さんが先日3月21日に、天に召されました。お医者さんは駿河敬次郎先生というお名前です。その駿河先生がおっしゃってました。

私の命の恩人のことば

どんなに辛い経験、腹が立つ経験、悲しい経験も、すべて益になる。永遠の命という目標に向かって船旅を続けていく、ということです。

結論

讃美歌「わが身の望みは」にこんな歌詞があります。
“風いとはげしく なみ立つ闇夜も みもとに錨(いかり)をおろして安らわん”

激しい風、波たつ闇夜。人生の試練を表現した歌です。試練の時も向かい風の時も、イエスという錨が支えてくれるから、心に平安がありますように、という祈りがこめられています。
教会は、イエス様を船長とする船です。この!地上の旅を前に向かって進んでいく船です。目的地に向かって旅を続けます。

この行人坂教会は120年前に船出をして、多くの方の祈りとお支えによって今日まで船旅を続けてきました。イエス様を伝えたいと教会を始めた組合教会の方々。代々の牧師さんたち。先に天に召された多くの天上の友。多くの方々の祈りと奉仕の中で、晴れの日も雨の日も嵐の日も、礼拝を続け、信仰の灯火をともしてきました。

さあ、今日から行人坂教会の船旅も新しい季節を迎えます。

「私は決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにしない」(ヘブライ人13:5)
そう言われるキリストが、今もこの場に生きておられます。そしてキリストが私達の教会の船の錨として、復活の力で私たちを生かしてくださっています。

今日からの生活も主イエスという錨が共にありますから、私たちの人生の船旅をどっしり前を向いて、神の息吹に息吹かれて進めていこうではありませんか。

祈り

天にいます私たちの父よ。新年度を迎えることができ感謝します。私たち行人坂教会が、新しい季節を迎え、新たな船出の日を迎えました。この旅立ちの日に、この地上の船旅を前に向かって帆を上げて進んでいけることを感謝します。
この主にある共同体の船旅をお守りください。ここに集うお一人お一人と、ご家族や同僚の方を祝福してください。病気や試練の中にある方に慰めがありますように。私たちが荒野を行く時も嵐ふく時も、イエス様がこの船旅を共にいて導いてください。キリスト・イエスが「船の錨」として私たちの人生を支えてください。

旅立ちのこの日、私達の船出をあなたが祝福しお守りください。み心が天で行われるように、この行人坂教会でも行われますように。アーメン


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