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16年って長く思えるけどこれからの人生のほうがきっともっと長い

どうも、髪の毛切りたいな〜と言うと皆にどこ切んねん!って突っ込まれるのが最近の悩みの総合政策学部4年 花岡愛が今回の部員日記を担当します。

おそらくこれが人生で最後の部員日記であり、noteの投稿になることでしょう。
最後やしなぁ、、何書こうかなぁ、、、4年生はみんなテニスのことについて書いてるしあたしも便乗しよか。
(テニスについて書いた方がすき!♡の数が多いからとかそんな理由では決してありません。みんなすき!♡してね、、、(小声))
先に言っておきますが、長く拙い文章となっております。ご容赦ください。

始めたきっかけ

ソフトテニスを始めたきっかけを皆さんは覚えてますか?
あたしは4人の姉がやってたからです。どうしてもソフトテニスが良かったから、とかではなく1番身近にあったのがソフトテニスでした。

小学3年生くらいまでは後衛をやってました。
このころはまだテニスが楽しかった時期ですね。
前衛になると一気に楽しく無くなりました。
ロブが追えないと怒られるし、ペアの子にサーブを背中に(わざと)ぶつけられるし。
アタックをバンバンぶつけられて止められないと怒鳴られました。
プレー中、死んだ魚のような目をしていると評判でしたね。
試合に負けると親に殴られ、え、これでテニス楽しいとか思う人はさすがに頭おかしいよな????(言い過ぎ)

とにかくあたしにとってソフトテニスはわりと辛いものだったなぁと思います。

越境して電車で1時間の中学で起きた3つの不幸

地元の中学には指導者がいないから、と言う理由でジュニアからソフトテニスをしていたSさん、Tさん、Hさんと同じ中学に集まりました。
TさんやHさんが所属していたジュニアの監督に勧められたのがきっかけでその中学に入学しました。

まず1つ目の不幸は、県内でトップの実力を持つSさんが心電図検査に引っかかりドクターストップに。

Sさんは県内ではもちろん、近畿大会でも上位に入るような選手でしたが、心臓に疾患があったようで大会などには出られないようになってしまいました。
団体戦というのは基本的に6人が試合をするので、4人強い人がいればそこそこ勝てるんですよね。
ですが、4人の中で1番強い子が試合に出れなくなってしまい、、、初心者の子が犠牲になったわけです。
犠牲になった、というのはどういうことかと言うと、中学からソフトテニスを始めたばっかりの子がジュニアからソフトテニスをしている我の強い(偏見)子と組まされるようになったのです。
しかも初心者と組んでいたジュニア上がりのHさんは一等我が強く、初心者の子が毎回泣きそうになりながら試合していました。

結局、団体で近畿大会にも出られてないんかな?1.5ペアしか強い子がいなかったので仕方ないですね。

次に2つ目の不幸は、中学3年になる前、指導者を学校から追い出したこと。

どういうこと?!ってなると思います。
色々あったんよなあ(笑)
話すとほんとに長くなるのでやめておきます。
とりあえず中学3年生から指導者が代わりました。

最後の不幸は、結局個人も団体も全中に出られなかったこと。

不幸っていうか自業自得なんですけど、中学2年までの指導者と色々あったおかげでしっかり練習出来ていなかったんですよね。
中学3年生で指導者が代わってからはしっかり練習することが出来てたんですけど、それじゃダメでした。(てか近畿大会で個人ベスト8に入らないと全中出れんとかハードル高すぎオバケ)

これの何が不幸かっていうと、わざわざ毎日往復2時間もかけて、決して安くはない定期代を払ってまで行った中学だったのに結果を残せなかったのが残念でした。いま思えばもっとちゃんと死ぬ気でやれば良かったなぁ、、、。

もうソフトテニス辞めるぅ!!!って泣きながら親と喧嘩したけど結局和歌山信愛へ進学

結構中学で散々だったので、高校でソフトテニス続ける気は無かったですね。
それを親に伝えるとぶん殴られ(怖い)、高校出るまではテニスを続けてと懇願され、結局和歌山信愛に入学しました。
何故か最初は中村学園に行こうとしてましたね。ほんとになんで??

今では信愛で良かったなぁと思ってます。
私が高校2年の時に三冠達成したのも昨日の事のように覚えてます。
きっと一生忘れることは無いやろな。
そういえば奈良インハイの団体決勝が文大杉並と対戦で、メンバーに勝又ってのがおって「何この強そうな名前!!!!」って思ったのも鮮明に覚えてます。

もしかしたら前のnoteに書いたかも知れませんが、高校に入学してすぐの頃は「乱打イップス」でした。今もそうかはわかりませんが、信愛は最初の乱打の時、1年生は3年生と打つ決まりがありました。
高一から見る高三って、めちゃくちゃ怖いんすよ、、、プレッシャーとかえげつなくてボールが真っ直ぐ飛びませんでしたね。いい思い出です。

確か高1のおわりに、監督から「(テニスを辞めて)普通クラスに行かないか?」って話をされたみたいです。信愛は一応進学校で、ソフトテニス、バレー、バスケ、なぎなたの4つの部活に入っている生徒たちでスポーツクラスが構成されているのですが、スポクラとほかのクラスとでは勉強のカリキュラムが全く違います。
スポクラ以外はみんな国立の大学を目指して勉強するようなクラスだったため、スポクラで1番の成績かつソフトテニス下手っぴな自分には、まあ勉強に専念するという選択肢もあるよって事だったんでしょう。
思えばそれもありっちゃありでしたが、あの時ソフトテニスをやめてたら慶應には来てないですね。
やめなくて良かったです。

最終的には、高校三年生の夏、インターハイに個人で出場することが出来ました。
実はドロー表を見ると、私の名前があるページの下の方に 勝又・小松崎、、、、?これ絶対当たるやつやん!と思ってたらしょっとびしてましたね、勝又。
ドロー表の組み合わせがよく、なんとインハイ個人ベスト16に入ることが出来ました。
びっくり仰天です。
ソフトテニス、やめなくてよかった☆

今思えば濃い高校時代でしたね。濃すぎて何も思い出せないくらい。

満を持して慶應義塾大学へ入学、そして卒業へ

慶應に入ってからの4年間は前のnoteでわりと語り尽くせたかなぁと思うので、多くは言いません。

これまた濃い4年間でした。
個性豊かな同期たち、頼りになる先輩、いつも支えてくださっていたOB・OGの皆さんにはほんとうに感謝の気持ちでいっぱいです。
本来であれば3月にある追いコンで感謝の意を伝えられれば良かったのですが、コロナウイルスの影響でオンラインでの開催となりましたので、この場をお借りして申し上げます。

卒業まで残り1ヶ月と少し、3年生は就活の情報解禁をもう少しで迎えようかというところ。
3年生のみんなはきっとこれからもっと忙しくなると思います。就活って本当にメンタルやられる(当社比)から、たまには気分転換とかして心を休めてね。
1,2年のみんなはそんな3年生たちを支えてあげてください。
またお菓子作って日吉に行きます。


大会があるかどうかも分からないけど、あったら応援するからね。観客ありなら応援に駆けつけます。

最後に4年生のみんな。
結局、卒業旅行も行けんかったし、あんまり飲みにも行ってないから不仲説はまだまだ拭えなさそうやなぁ。
卒業式があるかどうかは微妙やけど、あったとしたら最後に10人で集まって写真でも撮りましょう。

4月からは新天地でお互い頑張っていこな。

16年間、ありがとう、ソフトテニス。

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