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「水の男」 第一話

あらすじ
壊れかけた美しい19歳、魚座生まれの「水の男」和樹。冬の横浜で或る夜、26歳のギタリスト、秋一と出会う。そんなつもりは無いものの、男ふたりの不器用なラブストーリーが刻まれていく。そんなつもりは無いけれど、何故か(必要に迫られ)書いてしまった、今で言うと「ブロマンス」? 執筆したのは2002年だからまだそんな言葉はなく。ただ淡雪のような、桜吹雪のような男同士の情愛を、女性の登場人物たちよりもシンパシーを注ぎながら書いていた楽しい思い出。執筆から22年、今回何故か、引き出しから出してあげたくなりました。20代だった私も50代に。良きおもいでと共に。1990年代香る横浜の風景も、楽しんで頂ければ幸いです。


範子の部屋---渋谷区某所の、比較的恵まれた場所に建つ、女性専用マンション。
 女の話声を聞きながら、閉じていた瞼をゆっくりと持ち上げると、ベッドの脇のテーブルに、ペデイキュアの瓶が、蓋を開けたままの状態で置かれている。まずい、と和樹は思った。慌てて身体を起こすと、案の定、彼の両足の爪は、透明なピンク色の光沢を放っていた。舌打ちしながら立ち上がり、床に放られていたテイーシャツを拾いながらキッチンに向かった。四畳しかない狭いキッチンでは、折り畳み式のパイプ椅子に股がった範子が、電話の子機を耳に当てている。

 「秋一さんの都合に合わせるわ。忙しいならサードマウンテンで会っても。明日はお仕事?」
 いつもの女同志の、どうでもいい様な内容を数時間も話し続けている電話とは、明らかに範子の声が違っている。相手に見えている訳でもないのに、髪をかき上げたり整えたりして、見かけまでも気にしている風だった。キッチンの戸口に現れた和樹の姿を目にしても、まるで気にも留めずに、相変わらず笑みの差した表情で話し続けていた。
 「じゃあ、明日七時に行きますから。ライブの後、お相手して下さいね。絶対ですよ。」
 甘える様な女の声に業を煮やした和樹は、ペデイキュアの塗られた足の片方を、女が逆座りしている椅子の背に、ドンと置いた。目の前に男の巨大な足を食らって、範子は不機嫌そうに立ち上がった。お陰で和樹は倒れそうになったが、両手で戸口を掴んでいたので何とか持ち堪えた。

 「お休みなさい。」冷蔵庫の側に移動した範子は、その挨拶で電話を終えた。子機を冷蔵庫の脇に置かれた電話本体に戻すと、怒りを浮かべた目で和樹を見た。
 「何よ。」眼前に足を置かれたのが、よほど腹立たしかったらしい。線の深いはっきりした二重の瞳を見開いて、じっとその年下の男を見つめている。
 「範子こそ、この足、どうしてくれるんだ。」和樹は、やや畏縮しながら、五つ年上の範子に楯突いて見た。
 「そんなにペデイキュア嫌い? そう、じゃあ、もう止めるわ。勿体ないし。」範子は未だ怒りを残しながらも、喧嘩をする気は無いらしく適当に話を終わらせ、冷蔵庫から缶ビールを取り出すと、キッチンで立ったまま飲み始めた。それを見ていた和樹と目が合うと、「飲む?」ときいてから、また自分で口を付けた。
 「そう言えば、あんたまだ未成年だったわね。」と、横を通り過ぎながら和樹の肩を軽く叩いて、僅か六畳の寝室兼リビングに入り、ラグマットを敷いた床の上に腰を降ろした。和樹も後を追い、範子の側に座った。

 自分が微睡んでいる間に、シャワーを浴びていたらしい範子の、高くまとめ上げた生乾きの髪や両肩を露にしたタンクトップ姿を眺めると、和樹は自らの若さが素直に反応し始めるのを自覚した。横からタンクトップの肩紐に手を伸ばし、ブラジャーと一緒に肩からずり落とそうと試みたが、ビールを飲んでいた範子に簡単に拒絶された。
 「ほら、飲みなさいよ。」好きでもないビールを勧められ、仕方なく口を付けると、女は後ろに仰け反って、ベッドに頭をもたせた。その姿勢で、ベッド脇の背の低いチェストの引き出しを物色すると、銀色のアルミ袋に入った避妊具を三つ手に取った。
 「はい、いいわよ。今夜、これ使って。でも明日はダメ。」そう言いながら一つを和樹に手渡すと、後の二つをバッグに入れた。
 「なんだよ、明日なんかあるの?」自分に手渡されたアルミ袋を開けながら、範子を見つめて和樹がきいた。
 「明日・・明日は仕事なの。」
 「土曜日なのに?」
 「そう。」
 「コンドームは?」
 「これ?念のため、よ。仕事の帰りに、ジャズクラブに行くの。そこのギタリストの人に、今アプローチしてるから。」
 「さっきの電話の? シュウイチとか、何とか。」
 「あんた、記憶力いいわね。そう、秋一さん。和樹も暇だったらクラブに来てもいいわよ。桜木町まで一人で行ける?」
 「桜木町って、横浜の?」
 「そうそう、その桜木町。七時よ。そのかわり、帰りはどうなるか分らないわよ。あんた一人でここに帰ることになるかも。」

 二重瞼の下の大きい瞳を更に見開きながら鏡を覗き、束ねていた髪を下ろし手でとかしている範子を、和樹は静かに眺めていた。特に恋しているという訳でも無い。けれど、年上の快活なセミロングの女はそれなりに魅力が有った。それに、地獄の様な、あの太った中年男との同居から足を洗えたのも、範子のお陰でもあったし、まあまあの美人だった。自分を坊やの様にしか扱わないが、別に主張したいという程の自我が自分に有る訳でもなく、何となく居候するには頼れる女だった。
 「あら、もう開けちゃったの?」
 和樹の手に握られたアルミ袋を見て範子は呟き、和樹の首に手を回した。はち切れる程の若さの興奮が、和樹の身体を巡った。女っていいもんだ、と単純に和樹は思う。未だ十九歳で、面倒臭い愛情論などに用は無かった。ただ満たしてくれればそれでいい。普通の十九よりも、幾らか酷で無情な記憶を重ねて来た自分の胸の中の暗闇を、瞬間的に忘れさせてくれれば、それで十分だった。

 身体の興奮が醒めると、和樹は急に腹が立つのを覚えた。根拠も必要性も無かったが、自分に住いを提供しているその女が、翌日には別の男に身を預けるのかと思うと、面白くなかった。男女間の嫉妬というまでにも到らない、単なる子供染みた焼もちだったが、若い和樹にはそれを自己分析する知恵も無かった。腹が立つということは、自分がそれなりに範子に恋しているのかもしれない、などと考えて、眠れない夜を過ごしていた。横で寝息を立てる女の、シーツに垂れる髪や背中、下着のまま寝てしまった下半身などを眺めては、寄せて来る欲情を何とか抑えた。

 モデルの仕事は、彼が心身共に使い物にならなくなったことが理由で休業していた。範子が働く出版社の、男性ファッション誌の専属だったが、モデル事務所の社長の行き過ぎた趣向のせいで、可成り仕事に支障をきたすようになったため、和樹と親しくなりかけていた範子が上司と相談の上、和樹を自宅に連れて帰った。社長も契約先と揉めてまで深追いする気は無いらしく、無関心を決め込んだので、和樹は目下、雑誌の仕事に戻るためにリハビリ中だった。

 京王線で新宿に出て、山手線で渋谷へ、更に渋谷からは東横線で終点の桜木町へ。乗り継ぎが悪く時間がかかった上に、空もどんよりと重たく曇っていたせいも有り、建設中の高層ビルの工事が物々しく行われているその街に降り立った時、和樹の機嫌は可成り低迷していた。何だってこんなに遠くまで、範子に言われてホイホイと出掛けてくるのだろうか、と自分にも腹が立ったが、自らの生活の中での唯一の「潤い」を無償で授けてくれる範子には、逆らうことなど出来る筈も無かった。
 何度か路地を間違えはしたが、十二月の空が暗くなりかけた時分に--五時を少し過ぎた頃に、そのクラブに辿り着いた。仕事を終えた範子が駆け付けるのは七時、それまでに、じっくりとその秋一とかいう男を観察しておこうと考えていた。
 
 地下のクラブに入ると、開店したばかりの店内には、土曜のせいか既に十数人の客が座っていた。中央に置かれた沈没船のミニチュアの前で一瞬足を止めてみたが、海賊姿の店員に声を掛けられると、途端に和樹は硬直し、席に着いてからも、所在ない、落ち着かない気分を抱え込んでいた。右脇には小さなカウンターが有り、正面のステージでは、何人かが機材を設営していた。勢い余ってやって来たはいいが、そう言えばジャズクラブなんて入ったことも無い上に、だいたいジャズという音楽自体、まともに聴いたことも無い。薄暗い店の雰囲気と、年の行った客層に、和樹は萎縮して、来たことを後悔し始めた。

 三十分後、海賊が運んで来たモスコミュールも空になり、早くも酔いが回り始めたところで、ふらふらとカウンターに向かい、空いていた席に座った。カウンターの中央にどっかりと座っていた中年の男が、和樹の目に付いたからだった。
 「あんた、ゲイでしょ。」
 突然に声を掛けられた男は、仰け反るようにして、驚いた表情で和樹を見た。
 「わかるの。雰囲気ですぐわかる。」ろれつが回らない口調で言ってから、相手の顔も見ないで隣の席に座った。
 「君さあ、どう見ても未成年だねえ。」
 カウンターの中に立っていた、オーナーらしい髭の男が困った様に言った。
 「あ、もうすぐ保護者が来るから大丈夫。ノリコってんだ。いい女だよ。」
 決めつけられた男は実際にゲイだったが、気分を害する訳でもなく、酔いどれて顔を臥せる若い男を案じる様に覗き見て、
 「おい、大丈夫か。」と声をかけると、カウンターの中の中年男と見合った。
 「保護者が来るっていうから、放っておくか。」
 「どの位、飲んだんだ?」
 「さあ。江崎、お前責任持って付き添ってろよ。」
 「なんで俺が。」

 そんなやり取りを、和樹はカウンターに顔を伏せたままぼんやりした意識で聞いていたが、もう一つの幾らか若い男の声が耳に入り、何となく顔を上げた。江崎、という中年男の奥に座っている、長髪の二十五、六の男が、江崎の巨体の向こうから、自分を見ていた。視線が合った。
 「あ、あんた。」酒で赤らんだ顔で指を差して叫ぶと、相手は驚いて身構えた。
 「あんた、シュウイチだろう? わかるなあ。範子が好きそうなタイプだ。」
 三人の男は顔を見合わせた。江崎が、カウンターの中の中澤というオーナーと声を揃える様に、
 「範子って、あの出版社の子?」ときくと、秋一は無表情のまま何度か頷き、
 「ああ、どうやらそうらしい。」と答えながら、和樹を見遣った。白地に黒のボーダーの長袖シャツに、下半身にフィットしたストレートのジーンズ姿、それに未だ骨格が男らしく骨張ってきてもいない、柔らかい印象の顔のライン、余りに若い肌・・それらをじっくりと眺めてから、
 「君は? 弟じゃなさそうだな。全然似ていないし。」ときくと、和樹は隣の江崎の肩にもたれながら、ふふっと笑った。やけになってカクテルをがぶ飲みしたせいで、普段の対人恐怖症が解消されていることが、自分ながらに楽しかった。
 「ま、いっか。」相手がそう言ってあっさりと終わらせたことで、和樹の中で、微かに怒りが沸いた。秋一は何事も無かった様に、手元の水割りのグラスを口に運んでいる。頭に来て、カウンターの中の男に向かって叫んだ。
 「俺にも、水割り。」
 中澤と江崎は顔を見合わせ、それから遠慮がちに笑いを漏らした。
 「君、年は幾つ?」
 「十九だけど」
 「正直だねえ。じゃあジュースかウーロン茶ね。ちょっと待っててね。」
 中澤がそう言って席を外すと、唇を噛み締める様な表情でじっと和樹を見ていた江崎に向かって、
 「おじさん、今夜付き合ってもいいよ。」
 と言って身体を寄せた。奥から秋一が、落ち着いてはいるが苛立ちを含ませた声で「おい、」と言った。
 「この人はバンドのピアニストで、これから演奏するんだ。範子が来るまで、一人で大人しく待ってな。」
 と、言い終えたところで立ち上がり、江崎にもたれた和樹の身体を引き剥がした。挑戦的な視線を向けるには酔っ払い過ぎていて、そもそもそれ程の戦意も無かった和樹は、恨めしい様な目をして秋一を見上げた。長い睫毛に縁取られた瞳が、酒のせいで潤んで、可成り大きい二つの黒目は、微かにゆらゆらと揺れていた。秋一は一瞬、たじろいだ風に動きを止めたが、和樹から目を逸らすと、江崎の手を引いて去って行った。ふん、と小さく息を漏らして、和樹は中澤が運んで来たウーロン茶をすすった。

 七時前になって、範子が現れた。彼女は店内を見回したが、カウンターで丸くなっている和樹には気付かずに、ステージでチューニング中の秋一の元に直行した。和樹はそれを、カウンターに伏せながら、薄目を開けて見ていた。普段から明るい範子の笑顔が一層輝いている。くりくりした二重の瞳が、大袈裟なほど大きく開かれて、ギターを持つ男に向けられている。
 男がカウンターの方を指差して何か言うと、範子は男に軽く挨拶をしてから、和樹の側に歩いて来た。
 「ねえね、あんた、一体何やってるの? 何を飲んだの? お酒弱いのに。」
 顔をしかめて言うと、中澤が代わって応えた。
 「カクテル一杯、知らずに飲ませちゃったよ。ごめんね。」
 顔見知りの髭の男に人の良さそうな笑顔で言われ、範子は溜息を漏らしながらも笑顔を返した。
 「なんかね、江崎を誘惑して、秋一君に噛み付きそうだったよ。可愛い顔して、怖いね。」
 目が無くなった笑顔で言う中澤に、和樹が
「おじさんも、僕と遊びたいの?」ときくと、範子は慌てて叱責して、和樹をカウンターから連れ去り、目立たない暗がりの席に座らせた。バンドの演奏が始まると、範子は和樹を残して最前列の椅子に移り、ステージ上の秋一に熱い視線を投げ続けた。聞き慣れない音楽に退屈し、和樹はそのうち寝入ってしまった。

 中澤に肩を叩かれて目覚めると、既に演奏は終わり、店内にはまばらな客しか残っていなかった。中央のテーブルの、楽し気に笑い声を立てている数人の中に、範子の姿が有った。仕事柄も有り、範子の容姿は日頃から念入りに手入れされている。完全に配慮の行き届いた服装と化粧、形の整った両手の爪にサロンで施されたマニキュア、その手で、茶系のセミロングを掻き上げる仕種などは、印象の強い二重瞼や、幼い感じのする低い鼻、小さいがふっくらした唇と共に、可成り彼女を、その薄暗い店の中でも目立たせていた。
 歩み寄るに連れて見えてきたのは、隣に座る秋一に向って瞳を輝かせている範子の嬉々とした表情だった。和樹は一瞬立ち止まった。何となく、反射的に。次の瞬間、範子は酒のせいだとでも言うのか(人一倍強いというのに)カクテルのグラスを両手で持ったまま、だるそうに秋一の腕に頭を乗せた。秋一もまんざらでは無さそうに、口元を緩ませている。取り敢えず立ち止まっては見たが、次に取るべき行動の判断が付かず、和樹は硬直した。怒って乗り込んで行く程の自分の感情でもない。が、このまま黙って一人で帰路に付くのも、何だか心残りがする。

 気付いて声をかけたのは、秋一だった。範子は二人の時間を邪魔されて、寧ろ不満そうに和樹を見た。
 「帰る・・」小さく呟いて、回れ右をして歩き出すと、背後で会話が聞こえた。
 「帰るって、大丈夫なのか、一人で。」
 「平気、平気。もう酔いも醒めたでしょ。あの子、見かけよりもしっかりしてるのよ。」
 店の扉を抜けて地上に出る階段に足を掛けようとした所で、江崎が追って来た。
 「帰れるか。」
 善良に見えるその男は、恐らくは親切で声をかけたのだろうが、同じ様な世代の社長により執着された経験を持つ和樹は、警戒心から無言でその男に背中を向け、階段を上り始めた。地上に出ると、雪が散ら付いていた。雪なんて見るのは久し振りだった。

 そう言えばこの冬は寒波が多いとかテレビで言ってたっけ、と思いながら、ダウンジャケットの襟元を引き寄せてファスナーを完全に上げ、両手をポケットに入れて歩き出した。白い息が流れた。自分から漏れ出しては、寒気の中に溶けて行く白い気体を眺めるうちに、和樹は悲しくなって、歩きながら涙がこぼれた。その哀しみの情動は、好きな女がどうのというのではなく、自分にとっての緊急避難場所であった範子が、あくまでも仮の保護者であったことを思い出したために起こった。要するに、孤独を自覚したのだ。
 十九年生きて来て、未だに安心出来る居場所を見つけられない。親切に食事と住居を与えたくれた年上の女には、別の世界が展開しているのだ。虚しく淋しい、若さの裏面が、冷たい風と十二月の淡雪に晒され、気を失いそうな寒さが、和樹を襲った。

 中途半端な浅い眠りの中で朝を迎えたのは覚えているが、きっとそれから本格的に眠っていたのだろう。和樹は、昼過ぎに戻った範子の声で、漸く目を覚ました。
 「なんだ、まだ寝てたの? ほら、お昼買って来たわよ。中華街の肉饅と桃饅。どっちがいい? あんた甘いのが好きだから桃饅にする?」
 ぼんやりしたまま目を開くと、夕べと同じ、エリートOL風の範子が楽しそうに話している。朝帰りとは思えない程、化粧も完璧だった。
 「中華街? 行ったの?」ベッドに身体を横たえたまま、眠そうな目をして和樹はきいた。
 「そう。桜木町から近いのよ。秋一さんも桜木町に住んでるから、二人でブランチしに行ったの。」
 「ふうん。」和樹は身体を起こすと、ぼさぼさの髪に手櫛を通してから、テーブルの上の桃の形の饅頭に手を伸ばした。

 「雪は?」思い出した様に窓の方を見て言うと、範子は急須からカップにお茶を注ぎながら、「雪なんて降ってないわよ、快晴よ。」と答えた。
 「昨日降ってたんだよ、知らないの?」と和樹がきくと、
 「ええ? あんた夢でも見たんじゃない?」と返しながら、カップの一つを和樹の前に置いた。
 「中華街のジャスミン茶。これもお土産。」と、幸せそうに微笑んで自らすすった。
 「本当に降ったんだよ。昨日、」と和樹が呟いたが、どうでもよさそうに「そう」と答えて、もう一度ジャスミン茶を口に運ぶと、着替えのために立ち上がった。和樹はジャスミン茶から立ち上る、芳香の強い湯気を思いきり吸い込んだ。瞬間的に、あの男の顔が頭に浮かんだ。

 背後で着替えている範子を振り返り、じっと眺めた。あの男が付けたキスマークの一つや二つ、有りやしないかと。それらしいものが見つからないうちに、範子はジャージにトレーナーという、締まりの無い服装に変わっていた。

 日がな一日、やることも無い和樹がベッドの上でごろごろ過ごす間、範子は洗濯、掃除、買い物と食事の支度に忙しく動き回っている。和樹は子供の頃に母を見て思った様に、女の小回りの効く働き具合に、感心しながらそれを眺めることも有るが、殆どの時間は、ベッドや部屋のあちこちに無造作に放られた範子の雑誌をパラパラと捲ったり、リモコンを握ってテレビを見つめていたりする。
 「ねえ、」
 夕刻、食事の支度の最中で、たまたまリビングに戻った範子に和樹は声をかけた。立ち止まった範子に、質問してみた。
 「あのさ、テレビをずっと見てると、テレビが急にでかくなったり小さくなったりしない?」
 範子は忙しいさ中に呼び止められた必要性を解せずに、大きい瞳をぱちくりしながら無言で和樹を見ていた。
 「くるくる回り出しちゃったりもしない?」和樹が続けた。
 「つまり、錯覚ってこと?」範子は苛立ち始めた様だった。
 「あ、そうそう。すごく激しい錯覚。吸い込まれそうで、怖いんだ。」
 和樹が平然と答えるのが、余計に気に触ったらしく、
 「それだけ? くだらないわね。」
 と、明らかに怒りを浮かべた顔で言った。和樹は驚いた様に表情を変え、黙り込んだ。溜息を漏らした範子は、キッチンに戻って仕事を続けた。一人残された和樹は、持っていたリモコンでテレビを消した。それから真っ赤なベッドカバーをはぐり、中に入った。

 声をかけても和樹が反応しないので、範子は出来上がった食事を一人で食べた。テレビを見て笑ったり、食後に再び電話で秋一らしき相手と話したりするのを、和樹は布団の中で、じっと動かずに聞いていた。身体が大きくて、油断すると下から足が覗いてしまうが、何とか二時間くらいは堪え抜き、その後は本当に眠ってしまった。シャワーを浴びた範子がベッドに上がり、和樹の腕や足を邪魔そうに追いやったのに気付いて目が覚めた。見ると範子は既に背中を向けていて、間もなく寝息を立て始めた。和樹は範子のそんな態度が不愉快だったし、いっそ一人で床で寝ようかとも考えたが、女の体温と柔らかなクッションから離れる決心はつかなかった。

忙しい筈の仕事の合間を縫って、範子は横浜に出掛けていく。その度に朝帰りを決め込む。家での会話も、秋一がなんだ、とやたらとあの男の話ばかりをする。和樹は、母親を取られた子供の様に、納得の行かない小さな怒りを胸に溜めてはいるが、週に一回くらいは範子が自分に授けてくれる「潤い」の有り難さに、文句など言えない気持ちにさせられる。しかし、十二月も終わりに差し掛かる頃、その平衡は崩れてしまった。

 「悪いんだけど、そろそろ出て行ってもらえないかしら。」
 風呂上がりの髪を乾かし終えた範子が、唐突に言った。冬だというのに上半身裸でベッドに潜り込み、顔だけテレビに向けていた和樹は、驚いて身体を起こした。
 「恋人が出来ちゃったし、このままじゃ、ちょっと、ね。」
 範子は罪悪感からか、下着姿でベッドに腰掛け、和樹の頬を撫でながら言った。
 「ふうん。」と言って、ベッドの中に戻った和樹の手に、範子はロウチェストから取り出した銀色の包みを握らせた。
 「はい、これが最後の分。」
 そう言われた和樹は、予想していたよりは空虚な、締まりの無い気分に落ちていた。またか、という諦めの思い。救世主だった範子に見放された場合、行く所はあの、太った社長の元しかない。範子もそれを分っている筈だろうが・・でも、もうそんなことはどうでもいい。取り敢えず、目の前で自分に差し出されている女の身体に、集中することにした。

 日曜の朝、ベッドに腰掛けてジーンズに足を通している秋一の素肌に、範子は後ろから抱き付いた。
 「なんでそんなに急ぐの?」
 手を止めた秋一は一旦振り返り、未だベッドの中に居る範子と視線を合わせたが、再び元の仕種に戻った。
 「あいつが一人で待ってるんだろう? 腹空かしてたら可哀想じゃないか。」
 立ち上がり、ウエストのボタンを締めながら答えると、背後で範子が笑った。
 「和樹? あの子ならもう居ないのよ。追い出しちゃった。働く訳でもないし、完全に居候なんだもの。手間がかかって大変なの。」
 「追い出した? なんかワケ有りだったんだろう?」
 テイーシャツを着ながら秋一がきくと、範子は両手を顔の上にかざして、自らの爪の、抜かり無いマニキュアを確認する様に眺め、それから答えた。.

 「ワケ有り? そうね。彼はちょっとした性的虐待の被害者ってところ。スポンサーの社長が酷くてね。目の下にクマ作って、身体中に痣を拵えて撮影に来るもんだから、モデルを管理する立場の私や上司が対策を練ったのよ。」
 煙草に火を付けながら何気なく聞いていた範子の言葉に、秋一は思わず手を止めた。
 「身体中に痣?」
 「そう。その社長ね、業界じゃちょっと有名なのよ。でも私がこの仕事に就いてから、痣なんて作って来たのは和樹だけよ。よほど、気に入られてるのね。」
 「そんな奴を放り出していいのか?」
 ベッドに座って煙草を吸っていた秋一が、深刻な顔をして振り返った。範子は一瞬、戸惑いの色を浮かべてから、開き直って笑いながら答えた。
 「だって、私が面倒を見る義理なんて無いのよ。他のモデルで十分間に合ってるし、あの社長がダメなら、きっと別のパトロンを見つけるわよ。可愛い顔してるし。」.

 範子の言葉を聞きながら、秋一は煙草を灰皿で揉み消した。透かさず、後ろから女の手が伸びた。
 「そういうわけで、早く帰る必要は無いの。ねえ、なんで服を着ちゃったの?」
 そう言いながら、女は男が袖を通したばかりのテイーシャツを毟り取り、ジーンズのボタンにまで手をかけた。秋一は、薄幸な十九歳の顔が頭にちらつき、胸の奥に冷たい水を注がれた様な気分がしていたが、ふざける女の遊びに抵抗するほど深刻では無く、再びベッドの中へと滑り込んだ。


 サードマウンテンでのクリスマスイベントを終えたばかりの、十二月二十五日の早朝。
 ライブを終えたまま、仲間と飲みながら語り明かした秋一は、煙草の煙りと酒の匂いに満ちた店から這い出し、新鮮な空気を求めて地上に出た。前夜から降っていた雨が、淡い雪に変わっていた。しかし、地面に落ちた瞬間に消えてしまうような儚い雪で、ドラマの様に都合良く「ホワイトクリスマス」にはなりそうになかった。
 黒のジーンズに、上半身も黒いシャツ一枚で、突然に雪の中に出るには軽装すぎた。両手を擦り合わせてから、すぐ脇の自販機で缶コーヒーを買い、暖を取った。蓋を開けて飲み始めた時、ふらふらと倒れそうな足取りで近寄ってくる人影に気付き、飲むのを止めた。

 和樹だった。酔っているのか千鳥足で、どうやらサードマウンテンに向かっている様子だった。自分に気付かず階段を降りようとする和樹に、秋一は慌てて声をかけた。
 「おい、それじゃあ階段、踏み外すぞ。」
 和樹は空虚な視線を秋一に向けた。酔っているというより、意識が完全に飛んでいる様だった。秋一はコーヒーの缶をアスファルトに置いて、駆け寄るようにして和樹の身体を支えた。地下ではなく、一階の中澤の事務所に通じる入口に入った。
 和樹はうつろな目をして、ぶつぶつと何かを呟き続けていた。秋一が内線で呼ぶと、中澤と江崎が地下から駆け上がって来た。.

 「完全にラリってるな。何を飲んだんだ?」
 薄汚れた事務所のソファに座っている和樹を見て、中澤が呟いた。
 「やばいのか?」江崎が和樹の顔を覗き込んでから、中澤にきいた。
 「いや、大したことはない。中毒って程じゃあないと思うが。」
 中澤が口髭を触りながら答えた。秋一は溜息をついて、両手を拡げた。
 「どうやら俺のせいだ。範子に追い出されて、猛獣の餌になっちまったらしい。」
 秋一のその言葉に、四十代の男二人は顔を見合わせた。
 「どうする?」中澤が効きの悪い暖房の調節をしながら言った。
 「どうするって、もう一度、範子ちゃんのところに引き取って貰うわけには?」
 江崎が両腕を組み、秋一を見て言った。
 「無理だな。そんなくらいなら、最初から追い出さないだろう。」秋一が返した。

 ひとまず、中澤は店を閉めるために階下に降りて行った。江崎は一旦地下に降り、コーヒーを持ち帰った。
 毛布を掛けられ、ソファに横たえられた和樹は、静かに眠っていた。閉じられた瞼はうっすらとピンク色を帯び、味気ない蛍光灯の青白い光の中で、仄かな光沢を放っていた。
 「睫毛長いなあ。」
 コーヒー片手に江崎が呟くと、秋一が
 「江崎さんが言うと、洒落にならなくて怖く聞こえるなあ。」と笑い、江崎は慌てて
 「別に深い意味なんて無いぞ。誰が見たって、可愛い顔してるじゃないか。」と返した。
 「十九歳とか言ってたな。」幾らか落ち着いてから江崎が呟くと、既にコーヒーを飲み干した秋一は、二杯目を注ぎながら、
 「もっと若く見える。」と続いた。

 中澤が戻ってから、和樹の処遇について相談する筈だったが、それより先に、和樹が目を覚ました。二人の男は慌てたが、感情を浮かべていない様な和樹の瞳に、憐憫に近い情を引き出され、暫し言葉を失って和樹を見つめていた。
 「コーヒーちょうだい。」小さな声が聞こえて、我に返る様に江崎が動いた。新しいマグカップに注ぐと、ミルクは、シュガーは、とサービスの行き届いた店員の様に陽気な顔と口調で尋ねた。
 「いらない。ブラックでいい。」
 「そうか。」
 江崎の慌て振り、というより思い遣りの余りに大袈裟になっている動作に、秋一は思わず口元を緩めた。この人は優し過ぎて、却ってこの和樹とは噛み合わないかもしれない、などと考えていると、まるで心の中を読んだ様に、和樹はコーヒーを一口飲んでから、きいてきた。
 「それで? 僕を連れて帰ってくれるのはどっち?」
 消え入りそうな声だったが、微かに揺れている瞳は、交互に二人の男を眺めていた。
 「どっちがいい?」秋一が笑いながらきき返すと、江崎が「おい、秋一」と慌てて叫んだ。
 「本気かよ。」
 「他に方法が無いでしょう。」
 「お前、範子ちゃんはどうするんだ?」
 「健全なOLより、手負いの十九歳の方が優先です。」
 深刻に問いている江崎と、笑いながら茶化す様に答える秋一を、ソファでコーヒーをすすりながら眺めていた和樹は、突然に大声を上げた。
 「決まり、あんた。」長く白い指が秋一を差していた。二人の男は静まり、顔を見合わせた。
 「ご指名だ、秋一君。」気が抜けた様に江崎が言った。
 「それがいいでしょう。江崎さんだと、いかにも、だから。」
 秋一の言葉に、「どういう意味だ」と江崎が食ってかかったが、二人の男のやりとりはやけに楽し気で、和樹は思わず笑いを漏らした。
 「ああ、おじさん、やっぱりホモだったんだ。」
 和樹が呟くと、江崎は顔を赤らめて、
 「悪いか。」と返した。
 秋一は益々笑い、漸く姿を見せた中澤は、深刻な問題を抱え込んだ筈の事務所から漏れて来る笑いを不審に思ったか、固まった表情で部屋に入って来た。片手の皿には、手作りのサンドイッチが満載で、暫く何も食べていない風の和樹が、その殆どを平らげた。


 クリスマスだからと言って、恋人と甘い時間を過ごせる程、範子の仕事は悠長ではなく、年末にかけて手厳しい締め切りとの闘いが有った。その上、秋一は札幌の実家に一月半ばまで帰省すると偽っていたので、連れ帰った和樹の存在は、当分の間、範子に知られることはなかった。.

 十二月に二度降った雪の記憶も薄れる程、年末から一月半ばまでの首都圏は、大抵の年がそうである様に、澄んだ冬の晴天が続いていた。
 秋一は和樹に、モデルの仕事を辞めるよう説得した。「説得」と言っても、モデルを辞めることに関しては、それ程手間のかかるものではなかった。和樹は元来、その仕事を誇っていた訳でも、続けることを望んでいた訳でもなかったからだ。しかし難航したのは、代わりの仕事を見つけろという説得だった。高校生活を投げ出して街に出てから、ウエイターとしてバイトをした経験は何度か有ったが、短期間でクビになるか逃げ出すかの繰り返しだった。初対面の人間と目を合わすのさえ上手く行かないのだから無理もなかった。
 「ずっと居候で生きていく気か。」
 「可能な限りは・・」
 「なら、俺の家には住わせない。他をあたってくれ。」
 「・・・」
 「根性の良い奴がお前を拾ったとしても、どうせまた追い出されるさ。」
 「・・・」
 「働くか。」
 「わかったよ。」
 結局は、そんな会話の後に、手始めにサードマウンテンでバイトすることを秋一は提案した。あの海賊の制服を着ることに和樹は難色を示したが、そんな我が儘は秋一には通用しなかった。一月も二十日を過ぎると言う頃、秋一は範子への言い訳を考え始めた。


 和樹はシャワーを浴びる前後も、着替えの時も、素肌を見せることが無かった。わざとらしい程にその瞬間を避けていることを不審に思った秋一は、真相を求めて、風呂上がりの和樹が鼻歌交じりに鏡に向かっている、ユニットバスのドアを徐に開いてみた。
 驚いて身を竦める和樹の腕を掴み、明るい部屋に引き出した。リビングの白熱灯の暖色の光の下に、水分を多く含んだ、陶器の様な裸体が有った。そして、両腕と背中、足の付け根に到るまで、青痣と煙草の火傷痕が散りばめられていた。
 『範子は、ここまで酷いとは言ってなかった・・』
 黙り込んだ秋一は、嫌がる和樹を遣り無理引き出して、その斑模様の身体を見たことを後悔した。
 「もういいだろ、寒いよ。」
 和樹の言葉に、秋一は掴んでいた相手の腕を放した。和樹は秋一から何歩か離れると、床に落ちていた白いバスタオルを拾い上げ、上半身を覆った。
 「すぐに消えるさ。」気休めに後ろから声をかけると、和樹は背中を向けたまま、
 「だといいけど。」と呟いて、寝室に入って行った。

 夕食を作り終えると、秋一は寝室を覗いた。和樹は服を着ないまま、ベッドの中に居た。
大柄な男二人では、さすがに添い寝は難しく、和樹が来て以来秋一は、リビングにマットレスを敷いて寝るようになっていた。そのため、本来の寝室は、秋一が着替えを取りに入る時以外は、和樹の隠れ家の様になっていた。.

 寝室の窓からは、「みなとみらい」地区が見える。桜木町駅の裏手の高台に建つそのマンションは、家賃はやや高めではあるが、仕事上の便利さと共に、その地域の夜景が臨めるのが魅力でもあった。頭まですっぽりと毛布を被っている和樹の横を通り過ぎると、秋一は何気なく窓の前に立ち、外の夜景に目を遣った。イルミネーションで光る巨大な観覧車は、夜空に置かれた時計の様だった
 「あんたさあ」ベッドから聞こえた声に振り返ると、和樹が鼻から下を毛布に潛したまま、秋一に視線を向けていた。
 「誕生日、もうすぐじゃない?」
 という和樹の言葉に、秋一はふっと笑いを漏らしてから、
 「なんで知ってる?」と、夜景を見ながら返した。
 「範子がそう言ってた。あんたの誕生日にはああしよう、こうしよう、ってね。一ヵ月前から騒いでたよ。」と、顔を全部出した和樹が答えた。
 「騒いでた?」窓を離れて、和樹に歩み寄りながら秋一がきいた。
 「そう。突然部屋を訪ねて、驚かすんだとか言ってたよ。」
 「そりゃまずいな。」
 「いつなの?」
 「今日。」溜息交じりに答えながら、秋一はクローゼットを開け、ジーンズとテーシャツを取り出し、ベッドに放った。
 「早く着ろよ。お前のは洗濯中だ。」
 そう言い終えないうちに、呼び鈴が鳴った。対処法を考え出す前に範子がやって来たことに、秋一は困った顔を作り和樹に向けたが、覚悟を決めて玄関に向かった。

 「誕生日おめでと。ずっと会えなくて、淋しかったわ。」
 いつも以上に念入りに施した化粧が、嬉々とした表情の助けで余計に際立って見える範子は、無言で口元だけ緩ませている秋一の頬にキスをしてから、当然の様に部屋に入った。
 「あら、食事作ろうと思ってたのに、もう出来上がってる。」
 キッチンに直行した範子は、残念そうに呟きながら、ガスコンロの上の鍋や、テーブルに用意された二組ずつの食器類を見回していた。
 「ねえ、これって二人分? 私が来るの分ってた?」
 「いいや。分ってない。」
 「だったら、これ、誰の分?」
 「ああ、と。それは・・」
 「やっぱりね。あなた、他にも誰か居るって思ってたけど、誕生日にはそっちを招待するってわけね?」
 普通の女よりは冷静な方だと秋一は思ったが、やはり可成りの怒りを込めた口調で問いつめている。しかし範子のその言葉よりも、寝室で未だベッドに裸体を沈めている和樹が気にかかっていた。
 あいつ、ちゃんと服を来ただろうか。まさかあのまま飛び出して来たりしないよな・・・と、深刻な顔をして考えていると、範子は思い立った様に、寝室に走り込んだ。そして、悲鳴を上げた。
 秋一は諦めてリビングのソファに腰を落とし、身体だけ寝室のドアに向けた。範子が叫ぶのが聞こえている。
 「ここで何やってるの?」
 「べつに。寝て、起きただけ。」
 「は、裸で?」
 「うん。」
 和樹との会話の後、範子はリビングに走り出て来た。歩調までもが、怒っている様だった。
 「噂の通りだった。」
 「どんな?」秋一は範子の顔を見る気もせずに、床に視線を落としてきいた。
 「秋一さんが、バイだって。だけどどうして和樹なの?」
 秋一がソファから見上げると、範子は興奮を浮かべた瞳を、最大限に見開いていた。
 「余りに悲惨だったから、拾った。」
 と、立ち上がった秋一が答えると、範子は「さよなら」と呟いて走り去った。

 「ああ、行っちゃったよ。」寝室から出て来た和樹が締まりの無い声で言った。秋一がクローゼットから出した、ジーンズとテイーシャツを身に付けていた。
 「お前なあ、もう少し早く着てくれると、結果が違ったのに。」秋一が呆れた様に言うと、
 「どっちにしろ、範子とは別れただろ?」
 と、真面目な顔をして和樹は言った。
 「お前こそ、好きだったんじゃないのか?」秋一が和樹に返すと、
 「別に。ただ、ちょっといい女だなって、思ってた。」と、小さく答えた。
 「そうだな。ちょっといい女だったな。」
 秋一が笑って返した。
 「とにかく、カレーを食うぞ、カレーを。」
 そう言って、キッチンに向かって行った秋一の背中を、和樹は目で追っていた。
 「誕生日にカレー?」
 「悪いか。シンプルが一番さ。」
 「ところで、あんた、何歳なの?」
 「今日で二十七。お前、誕生日いつ?」
 「三月だよ。魚座。ねえ、あんたは水瓶座でしょ。だから僕、たぶんあんたには逆らえないんだ。」
 「なんで?」
 「魚座は水瓶座の次の星座だから。自分の前の星座の人間には、絶対に負けるんだって、占いの本に載ってたよ。」
 「ふうん。」.

 カレーを食べ終えて口元をテイッシュで拭いている秋一を、未だスプーンを握っている和樹が上目使いにして、声を出した。
 「ねえ、」
 「なんだ」水のグラスを空にしてから、秋一は返した。
 「このカレー、美味しいよ。」最後の一口を口に入れたまま、和樹が言った。
 「そりゃよかった。」
 「さっきの話、本当?」
 「なにが?」
 「あんたがバイだって。」
 「嘘。ただ、お前とこうして住んでると、また噂されるよな、間違い無く。」
 そう言って、秋一はテーブルの隅に追い遣られていたガラスの灰皿を引き寄せて、煙草を吹かし始めた。水を一口飲んでから、正面の秋一をじっと見つめていた和樹が、口元を拭きながら呟いた。
 「抱いて。」
 「聞いてなかったのか、バイだなんて話は嘘だって。」
 「いいよ。でも、とにかくあんたが欲しい。」
 「困ったな。」
 「消去したいんだ。嫌な記憶を。」
 「そういうのは、女がいいんだぞ。」
 「男にやられた記憶だから、男でいい。」
 「なら、江崎さんに頼めよ。」
 「あんたがいい。」
 「・・キスくらいなら、幾らだってくれてやるよ。お前、いい奴だし、可愛いから。」.

 秋一の手が顔に伸びると、和樹はゆっくりと瞼を閉じた。キスを待つ顔が余りに甘美で、その十九歳が、可成りの経験を持つことを秋一は瞬時に悟った。閉じた瞼はピンク色に光って、見た事も無い様な、長い睫毛に縁取られている。自然と吸い寄せられる様に、秋一は顔を近付け、接吻した。和樹は始めは大人しく、次第に抑揚を付けて来た。困った十九歳だ、と秋一は思った。そして、適当なところで唇を離した。自分も少しは反応したが、押し倒そうというには、理性が効き過ぎた。
 「キスだけかよ。」落胆した和樹の呟きを背にして、秋一は煙草を揉み消し、重ねた皿を手にキッチンに移動した。



第二話につづく


第二話
https://note.com/sekaiju_books/n/n8de71ed41f5f

第三話
https://note.com/sekaiju_books/n/n0084bc2e384a

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