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「水の男」 第二話

「なかなか似合うじゃないか。」
 海賊姿を中澤に褒められた和樹は、照れくさそうな顔をしてホールに立った。週に四日のサードマウンテンでのバイトは、範子に完全な誤解を受けた秋一の誕生日の、次の日から始められた。他のバイト学生と殆ど口をきかないという欠点はあったが、和樹はそれなりに勤まっていた。

 「ねえ、あの遊園地、今度行こうよ。」
 店からの帰り道、「みなとみらい」の観覧車を差して、和樹は言った。
 「勘弁してくれ。男二人で遊園地なんて。」レザージャケットのポケットに両手を入れて歩く秋一が返した。
 「どうしてさ。だったら、どっか連れてってよ、面白いとこ。」
 「この辺だと、そうだな、ハマビならいいけど。」煙草に火を付けながら秋一が答えた。
 「ハマビ?」
 「横浜美術館。大人だろ?」
 煙りを吹かしてから隣を見ると、和樹は不満気な顔をしていた。「やっぱダメか」と秋一が呟くのとほぼ同時に、和樹は返した。
 「いい、それで。ハマビ行こう。明日ね。」
 秋一は呆れる様に笑いを漏らし、それから和樹を見ると、彼は顎を突き出して、星空を仰ぎ見ていた。白い吐息を少しずつ排出している横顔は、健康で平凡な十九歳のものに見えた。実際、和樹は口数が増えていたし、必要以上に他人を警戒する態度も、減ってきた様に秋一には思えていた。
 「あ、ベイブリッジ何色? 黄緑だ。」
 マンションに向かう坂を登りながら、港の方を振り返ったり、また前を向いたりと、身体と口を多忙に動かす和樹の姿に、秋一は安堵していた。


 日曜日。横浜美術館にて。
 「結構、面白かった。」二階の常設展を見終わった所で、和樹は素直に感想を告げた。
 「そうか。そりゃよかった。メシでも食うか。」
 タートルネックの白いセーターの上に、ベージュのマフラーを巻き付けながら、秋一が返した。ちょっと待って、とトイレに向かって行った和樹を待つ間、秋一はミュージアムショップに立ち寄った。
 著名な絵画も、マグカップやハンカチにされては興醒めだな、などと考えながら、店内を一周していたが、和樹はすぐには戻らなかった。そのうち、ある女の顔が浮かび、暫く会って居ない罪滅ぼしに、と何か買うことを考え付いた。美術館とは殆ど関係の無い、掌に乗る様なスノーボールを選び出し、ラッピングして貰った。そんなことをしていると、たかがトイレに二十分以上かかっている和樹のことを暫し忘れていたが、小さな包みをジャケットの深いポケットにストン、と落とした時、「何か有ったのかも知れない」と、初めて遅い帰還について意識し始めた。

 ミュージアムショップから、再び美術館のホールに出るガラスの扉を押した時、透明な扉の向こうで、和樹が誰かと立ち話しているのが見えた。
 秋一と和樹が視線を合わすと、女の後ろ姿が、くるりと振り返り、秋一を見た。目が合うと、長めのショートカットのその女は、遠慮がちに会釈した。
 「それじゃ、またね。」と和樹に言い残し、小さく手を振り、靴音を微かに鳴らして去った。
 大理石のオブジェに背を向けて、天井の高いホールを出口に向かって歩き出した時、秋一がきいた。
 「さっきの誰だ? なかなか色っぽいな。」
 「そう? ああいうの好み?」
 「いや、俺のタイプじゃないけど、中年以上の男って、ああいうの好きだよ、たぶん。ちょっと腫れ気味の一重の目に、頬も唇も丸っこくて、和服が似合いそうなタイプ。」
 「ふうん。」
 「ふうんって、誰?」
 「泉美。」
 「元彼女か。またずいぶん年上だな。」
 「あんたより下だよ。範子と同じ、二十五だから。子供産んでるから、老けたんだよ、きっと。」
 「へえ。人妻?」
 「うん、うちの兄貴のね。」
 「二年前にね、何度かヒメゴトをやった。」
 「兄貴の嫁さんと?」
 「そう。べつに僕は何とも思ってなかったんだけど、矢理無理って感じで。今思うと、脅されてたような気がする。でも、あのころはけっこう、親とか家とか学校とか大人とか、全部にいかってたから、復讐するような気分で、やっちゃったんだ。男にやられた経験は有ったけど、女は初めてだったから、それが結構、はまっちゃってさ。二回目からは僕の方がしつこく頼んだりして。」
 「恐ろしい青春時代だなあ。二年前って、お前が十七の頃だろ?」
 外に出る開店扉を開けながら、背後の和樹を一瞥してきいた秋一に、和樹はコクンと頷いて見せた。

 来る時は晴れていた空には重た気な雲がかかり、お陰で急に寒くなった様に感じた。ランドマークタワーの中のカフェで昼食をとると言って、いつもの早い歩調で歩く秋一に従いながら、和樹はきいてみた。
 「あんたは?」
 秋一は振り返った。内容を明示しない質問に、何故かその意味する所を悟り、少し歩調を緩めながら答えた。
 「俺はいたって平凡だよ。大学時代までは。まあ、少しくらいは深刻な過去もあるけど、お前ほどじゃない。」
 「ふうん。」と返しながら、漸く追い付き秋一と並んだ和樹は、空を見上げて呟いた。
 「また雪、降らないかな。」
 「なんで? 雪、好きなのか?」
 「綺麗だから。」
 「ふうん。俺は北国の出身だからな、嫌ってほど雪は見てきたけど・・・」
 「なんかさあ、冷たいからいいんだよね。僕って、わりとマゾなんだ。雪でも雨でも、傘ささないで、わざわざ濡れて歩くのが好きなんだ。」
 「どうでも良いけど、お前、命は大事にしろよな。生きることに執着してないと、命持ってかれるぞ。」
 「持ってかれる? 誰に?」
 「誰って、」秋一はそこで黙り込んだ。横断歩道で信号を待ちながら、ポケットから取り出した煙草に火をつけていた。和樹は続く言葉を従順に待ってみたが、言葉が無かったので自分から続けた。
 「首締められたことも、包丁で喉をつつかれたことも有るけど、ぜんぜん怖くなかった。早くやればいいのにって思ったよ。」
 横断歩道を渡り始めた秋一は、一歩後ろで話す和樹に、歩きながら一瞬だけ顔を向けたが、鼻で笑いを漏らすと、再び前を向き、持っていた煙草を口に運んだ。和樹は秋一からの反応が無いことを物足り無く思ったが、信号が点滅し始めたので、小走りして秋一の横に並んだ。

 四日経つと、泉美というその女が、サードマウンテンに客として現れた。気付いた秋一が休憩中の和樹に知らせに行くと、和樹は顔色を変えた。
 「彼女にバイトのこと教えたのか?」
 「いや、教えてない。」
 「じゃあ何で知ってるんだ?」
 「知らない・・けどあの女、結構しぶといんだ。二年前だって、兄貴と別れるから一緒になろうなんて迫ったんだ。」
 「十七の若造に?」
 「そう。子供が出来て諦めたけど、今度はそれが僕の子だ、なんて言って脅してきた。」
 「お前の子じゃなかったのか?」
 「ぜったい違う。自信あるさ。」
 「どうする?」
 「この前あそこでばったり会ったりしたから、また思い出したんだろう。はっきり断ってやるよ。」
 「店で揉めるなよ。他の客がびびるから。」
 和樹はその言葉を背中に聞いて、一瞬立ち止まり、顔だけコクンと動かして、店に向かって行った。

 秋一が後を追うように店内に出ると、和樹は泉美を、店の外に誘い出していた。秋一は案じながらも、ステージに上がりライブの準備を始めた。演奏が始まり、間に休憩を挟んで、一時間二十分程度のステージが終わっても、和樹は戻らなかった。勤務時間内だったため、他の海賊や中澤も気にしていた。結局、閉店時刻を過ぎ、秋一は一人でマンションに帰った。部屋に着くと、十二時を回っていた。

 シャワーを終えて、肩に掛けたバスタオルで無造作に髪を拭きながら缶ビールを飲んでいると、玄関のドアが開いた。海賊のままの和樹が、寒さで頬を赤らめ、息を切らしながら入って来た。
 「お前、そんな格好でどこ行ってた?」
 「関内のラブホテル。」
 「馬鹿か。結局、彼女の言いなりじゃないか。断るとか言ってたくせに。」
 「あのね、このくらいの年って、やりたい盛りなの。断る気だったけど、迫られたら反応しちゃったんだ。あんたも若い頃はそうじゃなかった?」
 冷えきった両手を擦り、それから高く上げてエアコンの風に当てる様な仕種で和樹は応えた。秋一はソファに座り直し、和樹を見上げた。

 「あのなあ、勤務時間中に、客とラブホテルに行くアホが居るか?」
 海賊の制服のボタンを外し始めた和樹は、秋一に顔を向けると、表情を変えずに返した。
 「バイトだって、他の奴らで間に合ってたみたいだし、客も少なかったじゃん。」
 秋一がその言葉に呆れた様に息を吐いてから、
 「お前って、基本が分って無いみたいだな。」
 と、見せたことの無い鋭い視線を向けて言うと、和樹は一瞬怒りを顔に浮かべ、それから幾らか傷付いた様な表情に変わった。ビールを飲んでいる秋一を暫く黙って見つめてから、
 「兄貴と離婚すんだってさ。調停中だって言ってた。」と呟いた。
 「それとは関係ない。バイトの話をしてるんだ。」低い声で秋一が返すと、
 「あんた、ほんと口煩いね。父親みたい。」と、大袈裟な抑揚を付けて言った。秋一は怒りを抑えて、手に持っていたビールの空き缶にだけ、力を加えた。

 「秋一、これ何?」
 クローゼットの中に、ミュージアムショップのギフト用の包装紙にくるまれた、小さな包みが有った。秋一はあの日、帰宅してジャケットを脱いだ時に、ポケットから忘れずにそれを取り出し、下着やパジャマの入った引き出しの中に入れておいた。和樹がそんな所を開けることは、普段は無かったから。
 和樹専用となっているベッドの、シーツを洗濯のために剥がしながら、秋一はクローゼットの前に立つ和樹に顔を向けた。和樹は例の包みを片手に持っていた。
 「プレゼントみたいに見える。」
 「そう。プレゼント。」
 「誰に? 第二の女?」
 秋一は一旦止めていた手を再び動かし、枕カバーを剥がしていた。
 「やっぱり範子は二股掛けられてたんだ。」
 和樹が笑いを含んだ声で言うと、秋一は剥がした洗濯物を掻き集め、屈めていた身体を起こした。
 「二股? いや、そういう女じゃなくて・・・大学の頃からの長い付き合いなんだ。」
 「ふうん。でも、やっぱり女なんだろ?」
 「まあ、そうだけど。追求するなよ。」
 「ふうん。」
 「たまには洗濯機くらい自分で回せよな。」
 擦れ違い様に、秋一は持っていたもの全てを和樹の胸に押し付け、リビングに出て行った。和樹は手の中に有った小さな包みを再びクローゼットに戻し、洗濯物を抱えて洗濯機の前に立った。が、操作が分らず、すぐに秋一を呼んだ。

 全自動洗濯機の使用方法を伝授された和樹は、必要な洗剤の量や残り時間がデジタル数字で表示されることに感動し、面白がっていた。変な奴、と思いながらリビングに移動した秋一は、玄関のチャイムが鳴っていることに気付いた。

 秋一の部屋の戸口に立っていたのは、泉美という女だった。ドアが開いて数秒してから、伏せていた瞼をゆっくりと上げ、秋一を見た。何かを頬ばっている様な、頬から口元に掛けてのふくよかな様子は、それだけで女の性を主張している様で、秋一には毒々しく見えた。
 「何か用ですか。」単調に言うと、相手は気まずそうに、少し床に目を遣ってから、視線を上げた。
 「和樹、居ますか。」
 「どうでもいいけど、いつもどうやってあいつの居場所を調べているんですかね。まさか、高い金払って、専門家でも雇って?」
 図星の様で、相手は黙り込んだ。秋一は呆れる様に、その伏せられた女の顔を見つめてから、部屋に向かって、和樹の名前を呼んだ。客の到来に気付いていない和樹は、呑気な足取りでリビングに出て来た。きょろきょろしてから、漸く玄関の秋一に気付き、歩み寄って来た。擦り寄る様にして、秋一の肩に手を乗せた時点で、ドアの外に立っている女に気付いた。

 「何だよ、お前。」馬鹿にした様に言った。
 相手の女が、切羽詰まった顔を向けた。
 「あのね、兄貴と離婚しようが、僕には関係無いんだって、この前言っただろ。何でこんな所まで来てんだよ。」
 向きになっている和樹を手で制して、秋一は泉美に向けて言った。
 「こいつは、まだ子供なんだよ。あなたは旦那さんの所に帰った方が良い。」
 泉美は顔を上げて秋一を一瞥したが、すっと腕を伸ばして、和樹の手首を掴んだ。
 「離婚はしない。でも、とにかく来て。」
 秋一が振り返って見ると、和樹の顔は既に緊張感を失い、女の柔らかい唇が吐いた言葉に、心動かされている様だった。
 「またラブホテルか。」秋一が呆れて呟くと、女は秋一を斜めに見てから、和樹を掴んでいる手に力を込めた。
 「和樹、はやく。」
 女に引き寄せられる様に、和樹の身体が前方に移動した。秋一の横を過ぎて、玄関の外に出た。
 「靴くらい履いていけよ。」
 秋一が怒りを皮膚の奥に閉じ込めた顔で言うと、和樹は秋一をちらりと見ながら自分のスニーカーに足を入れ、履き終えないうちに外に出て、床に爪先をトントン言わせていた。その間に秋一は部屋から和樹のダウンジャケットを持って来て、玄関の外に向かって放った。それは、背中を丸めてスニーカーの踵を足の外に引っ張り出していた和樹の頭に、被さる様に載った。和樹がそれを頭から引き擦り下ろしてから秋一を見ると、秋一は無表情のまま、しかし口元だけ緩めて、右手を小さく振った。その男の不機嫌さが伝わって来たので、和樹は無言で見つめ返したが、泉美に手を引かれ、秋一の視界から消えて行った。
 塩でも撒こうか、と秋一は思ったが、後で掃除するのも面倒であるし、止めにした。

 和樹は未明になって、ふらふらとよろけながら帰宅した。繰り返される馬鹿げた行為に、自分でもやけになったのか、かなり酒を飲んでいる様だった。
 「こいつをまともにするには、相当な時間と手間がかかるな。」と、秋一は思った。
 その後、和樹が酔いどれながら嘔吐して、汚れた物の片付けと和樹の着替えに苦労し、漸く落ち着いた頃には、腹が減った、と主張するので夜食を作る羽目になり、翌朝は二日酔いで頭が痛いというから鎮痛剤を買いに走った。そんな和樹を夕方からのサードマウンテンのバイトに連れて行く頃には、秋一はすっかり疲労して、その居候を投げ出したい気分になった。が、その後の事を考えると、出来そうになかった。

店の常連客やバイト学生の中に、秋一に好意を抱いていそうな女を見つけると、和樹はわざと、その女の視界の中で、秋一にベタベタして見せた。バイトの女子大生に、正面から秋一との関係を問い詰められた際にも、意味深な笑いを浮かべて相手を見返し、敢えて何も答えなかった。そんな自分の態度に、和樹は自ら驚いていた。
 家庭の愛情など受けた覚えも無く、十六で外に飛び出してからは、乱暴な男に童貞を奪われ、変質な男に軟禁され、また女は誰も、その柔らかい肉体に慰められはしたが、信用出来なかった。自分の若さと少しばかり愛らしい容姿の為に、伸びて来る多くの手に、ただ身を委ね、刹那の戯れに漂うばかりだった。誰かを心から欲したことなど無かったし、人間など皆、信用出来るものでは無いと決めていた。
 対人恐怖、人間不信、鬱・・・時々手を出すクスリ。その不毛で破壊的な輪廻をぐるぐると回っている間、自分は何も変わらなかった。気が付くと、同じ場所で、十九歳になっていた。逃げることを知らないのだから、変わり様が無かった。秋一に会うまでは・・・。.

 海賊になってからの和樹は、最初にサードマウンテンに現れた夜の、背が高いだけで、おどおどした手負いの動物の様に惨めだった和樹とは、格段と違っていた。粘る様な、触れれば弾かれる様な「強さ」さえ宿っている様に見えた。それは「自信」とも言えた。秋一という、心を完全に引き渡しても悔いの無い相手・・・自分から何か--恐らく「若さ」--を吸い上げて行くばかりのそれまでの相手とは違う、それなりの美意識を身に纏った相手・・・出来ればもっと直接的に、その愛情を提供して欲しいと願う相手・・・と出会ったことで、和樹は人として覚醒した。生きていることが、何も忌わしいことの連続という訳では無いのだと、知ったのである。それ故に沸き上がる自信は、彼を悪ふざけの好きな、些か高慢な、プライドの高い美声年に変換しようとしていた。無口で、処世術も無い自虐的な少年だった過去をひっくり返し、仇でも取ろうとするかの様に、和樹の中の、第二の人格形成は進められていた。

 ライブの間に挟まれた、二十分程の休憩時間に、秋一はいつもの様に、一階のスタッフルームのソファに座り、低いテーブルに靴のままの足を乗せて、独り煙草を吹かしていた。地階から上がって来る足音が聞こえた。メンバーの多くは、大抵は店の片隅でアルコール片手に休憩を取る。中澤は不在の筈であるし、誰だろうと考えながら、二本目に火を付けていた。
 ゆっくり開いたドアをさり気なく振り返ると、海賊姿の和樹が覗いていた。

 「お前、まだ休憩時間じゃないだろ?」
 静かな口調で言う秋一に、和樹が歩み寄った。秋一が座る足元に来て、床に膝をついた。
 「何だ? 抱いてくれ、はよせよ。」
 笑いを漏らしながら秋一が言うと、瞳を潤ませた和樹が顔を上げた。
 「マジか。そういう話なら、家に帰ってから聞いてやるよ。もっとも、お前の望みには応えられないけどな。」
 そう言うと秋一は、煙草を揉み消しながら、空いている方の手で和樹の頭を軽く撫でた。
 「どうして?」秋一の膝に顔を埋めた和樹が、泣きそうな声を出した。
 「どうして・・だろうな。お前のことは嫌いじゃないけど、」と、壁の時計を一瞥しながら答えていた秋一の目の前に、和樹の顔が迫った。いつの間にか、秋一の膝に乗り上がっていた。.

 「またキスしてよ。この前みたいに。」
 そう言って和樹は、秋一の顔を両手で掴み、唇に吸い付いた。秋一は反射的に目を瞑った。どんな女とも共有したことの無い、激烈な接吻だった。思わず頭がくらくらしたが、仕事を思い出し、何とか和樹を腕の力で制した。眼前には、夢の中に居る様な、とろけかかった和樹の目が有った。
 「俺は、仕事は真面目にやるようにしてるんだ。お前も見習ってくれよな。」
 笑いを交えたその言葉に、和樹は呆然と秋一を見ていたが、床の上に押し戻された。立ち上がった秋一が、置いてあったジャケットを手に取り、袖を通すのを見ているうち、堪え切れなくなって部屋を飛び出し、階段を駆け降りて行った。

 秋一がドアのノブに手を掛けた時、反対側に引かれたドアから、江崎が現れた。互いに驚いた顔をして相手を見つめた。
 「お前が時間になっても来ないから迎えに来たんだけど、何か有ったのか。そこで和樹と擦れ違ったら、泣いてたみたいだった。」
 江崎がハンカチで生え際の辺りの汗を拭きながら言うと、秋一は溜息を小さく漏らした。江崎はハンカチをストライブのシャツの胸ポケットに仕舞うと、両手を腰に当てて、話を聞く体勢を作った。
 「キス、してた。」秋一が宙を見て言うと、江崎は肩を上げて見せた。それから、
 「かなり愛されてんなあ、秋一君。」と返して、秋一の肩を何度か叩いた。秋一は仕種で階下に降りるべきだと告げて、二人で地階に向かった。.

 「あの手のタイプは結構思いつめるぞ。」
 階段の途中で江崎が言ったが、秋一はすぐには応えずに、階段を降りきって、店のホールに和樹の海賊姿を確認してから、前を歩く江崎の背中に、
 「どうすればいんだろ。」と呟いた。振り返った江崎は、
 「毒を食らわば皿まで・・って言うしな。」と、からかう様に笑ったが、秋一は深刻な顔のまま、「困ったな。」と返した。

 仕事を終えてから、秋一は故意にギターの手入れや、「打ち合わせ」と称したメンバーとの雑談を長引かせ、職場を去る素振りを見せなかった。和樹がバイトを終える時間から二時間近く経った頃、スタッフルームから店に戻って見回してみると、和樹の姿が無かったので秋一は安堵した。ホールのスタッフたちが店を閉めるのを手伝ってから、江崎と共に外に出た。
 「可哀想になあ。待ち切れなくて、独りで帰っちゃったのか。」江崎が白い息を吐きながら言うと、秋一は視線を逸らし、夜空を見上げた。.

 「江崎さん、俺の恋愛観てどんなか知ってます?」微かに星の所在が確認出来る、薄く雲のかかった夜空を見たまま秋一が言った。
 「さあなあ。お前は、適当に楽しんでる様に見えるけど。」横から秋一を見つめて江崎が返すと、
 「そう。その通り。」と、相手を指差し、勢い良く秋一が応えた。それから、桜木町の駅に向かう道を歩き出し、何歩か進んでからまた続けた。
 「あのね、広く浅くなんですよ、基本的に。最初に葉子の一件みたいに重たいものを背負ってしまったから拒否反応が働いてるのか、元々の俺の性格のせいなのか分らないけど、とにかくダメなんです。重たかったり、湿っぽかったり、変に相手に愛され過ぎちゃったりすると。」.

 ふんふん、と頷きながら聞いていた江崎が、途中の自動販売機の前で足を止め、小銭をちゃらちゃらとポケットから拾い集めながら、
 「そりゃ、お前さんの性格だろう。葉子ちゃんは関係ないよ。と言うより、お前がそういう性格だから、葉子ちゃんのことも、受け止められないんだ。あの和樹にしたって同じさ。いや、葉子ちゃんは過去が有るだけで、大人だし自立してるからまだいいさ。和樹は可成り重たい。引き摺ってるもの全てを受け止めなきゃなんないし、増して本人は、自立の「ジ」も知らない小僧だし。」
 と、いつもの響き渡るほどボリュームの有る声で話し、ドン、と言って出て来たスポーツ飲料を取ろうと身を屈めた。秋一が言葉を返そうとした瞬間、背後から声が聞こえた。

 「小僧で悪かったな。」
 男二人が振り返ると、寒気に鼻を赤くして、白い息を吐いている和樹が立っていた。巨体の割りには動揺し易い江崎は、うわあ、と叫んで、買ったばかりのジュースの缶を地面に落とした。秋一は無表情で、寒そうに手を擦る和樹を見ていた。視線を合わせると、和樹が言った。
 「葉子って誰?」
 江崎は缶を拾ってから、巨体を小さく縮めて、えらいことになった、という顔で秋一に視線を送っていた。その江崎を一瞥してから、
 「この前言ったろ、大学時代からの・・」
 という秋一の言葉を遮る様に、義務感からか正義感からか、狼狽気味の江崎が口を挟んだ。
 「ああ、葉子ちゃんとこいつは、恋人なんだけど友達みたいな、不思議な関係でな。あっと、そもそも葉子ちゃんの旦那だった男が不慮の事故で死んじまって、で、彼女は北海道から、秋一を頼って横浜に来たというわけだ。」

 秋一は感謝と迷惑が入り交じった様な気分で、話す江崎を見ていたが、取り敢えず言い終えた様子の江崎と、黙って聞いている和樹に背を向けて、自販機に小銭を入れ始めた。
 「死んだの? 葉子って人の旦那。」
 和樹の声を背中で聞いた秋一は、ホットコーヒーの缶を手に持って振り返ると、
 「そう。死にやがった。ほら、これで温めろよ。指が紫になってるぞ。どうせ寒空の下で、俺たちが店から出て来るのを待ち伏せしてたんだろ?」
 と、コーヒーを和樹の手の上に軽く放った。和樹は何秒か静止して、手の上の深緑の缶を見つめていたが、そのうちそれを両手できゅっと抱き締めた。自分の分を、もう一本買って缶を開けた秋一に、隣で江崎が囁く様に言った。
 「喋り過ぎたかな。すまん。」
 秋一は無表情のまま一口飲んでから、
 「助かりました。」と、江崎に微笑んだ。.

 江崎は安心した様に歯を見せて笑うと、再び大きい声を出し、「じゃあな、二人で仲良く帰れよ。」と言うと、手を振って路地を曲って行った。急に消えなくてもよかろうに・・と秋一は思ったが、慌てたり、心配したり、途端に安心して笑顔で去って行ったりという、江崎特有のエネルギッシュな展開の速さに、いつもながら好感を抱き、思わず笑いを漏らした。
 「なんか、忙しい人だよな。」
 と、独り言の様に呟いてからコーヒーに口を付けると、横で和樹が
 「声、でかいんだよ。お陰で話がぜんぶ聞こえた。」と、ぶっきらぼうに言った。
 「全部?」秋一が最後の一口を飲み干してからきいた。
 「そう、全部。愛され過ぎるとダメだとか、何だとか。」和樹は、にやけて返した。秋一は言葉に詰まり、和樹の手元のコーヒーの缶を見て、話を逸らした。
 「それ早く飲めよ。冷たくなるぞ。」
 和樹は秋一を見てから、自分の手の中の缶を見て応えた。
 「いい。持ってるとあったかいから。」

 それから先は、どうでも良い話をして、夜道を歩き、坂を上り、時々振り返って観覧車やベイブリッジを照らす七色の光線を眺め、マンションに帰った。秋一には、その後の展開が幾らか怖い気がしていたが。

 秋一はシャワーを浴びながら逡巡していた。 奴を突き放せば、きっと例の社長の所に行くだろう。自分への腹いせと、持ち前の自虐的な性格のために。そして、奴はまたクスリをやって、身体中に煙草を当てられ、何かの道具で、数え切れない青痣を施されるのだろう。

 狭いユニットバスのドアを開けると、既に裸になって、腰にバスタオルを巻き付けている和樹が立っていた。
 「待たせた。」秋一は擦れ違い、和樹に場所を譲った。
 秋一は、微かに漏れ来るシャワーの水音を聞きながら、リビングのソファの横に敷いたマットレスに座って缶ビールを飲んだ。前日寝不足だったせいか、抱えている悩みが深刻な割りには、ビールを飲み終えてごろっと横になるなり、眠りに就いていた。けれど、僅かな時間の微睡みだったのだろう。気付くと、未だ濡れた髪をした和樹が、テイーシャツ姿で毛布の中に侵入しようとしていた。

 『やっぱり来たか。』と思ったが、秋一は逃げもせずに、静かに腕を拡げた。秋一に縋り付くように身を寄せた和樹の、髪を無言のまま暫く撫でていた。和樹も口をきかなかった。
 こいつを突き放せば・・とまた、シャワーを浴びている時と同じ堂々回りを、頭の中で始めたが、答えが出ないうちに、和樹が軽く身体を起こし、秋一の顔を見下ろした。無表情のまま固まっている秋一は、相変わらず頭の中でぐるぐると思考を巡らせていたが、和樹は相手の意志の確認もせずに接吻してきた。三度目のキスだった。

 途中で秋一が目を開けると、閉じられた瞼の淡いピンク色と、それを縁取る長い睫毛が、目の前で上下左右に動いていた。秋一は次第に落ち着いた気分になって、再び目を閉じた。唇に神経を集中させると、その柔らかさも瑞々しさも、魅了されるものだと感じた。些か安定した意識を確保して、自分の上で必死になって顔と唇と動かしている和樹の、頭の後ろに手を伸ばして、その柔らかい髪に触れた。和樹は一瞬、驚いたのか動きを止めたが、再び始めると、勢いを増して両手さえ秋一の肩や首の辺りで上下させた。
 そのうち、秋一は余りに懸命な和樹の姿を愛おしく思い、勢いを付けて和樹を脇に倒して、自分が上から見つめ直した。和樹は歓喜の色を瞳に浮かべながらも、神妙な顔をして瞼を閉じた。再び、例の睫毛に魅せられながら、秋一は顔を近付けた。和樹が微かに、艶を含んだ声を上げた。

 

 ピンクがかった、薄暗いライトの頼り無い明るさの中で、寝息を立てて眠っている女の顔を、和樹はまじまじと眺めた。そう言えば、その女をじっくりと観察したことなどそれまでは無かった。
 『何だって、眉をこんなに細長く引いているんだろう。わざとらしい顔だなって前から思ってたのは、このせいか。口紅だって、実際の唇より大きく塗りたくってるじゃないか。頬紅が--さっきの激しい運動で殆ど落ちてはいるけれど--寝顔にぽっかり浮かんでると、可成りまぬけだな。』.

 輪郭を拡げて描いた唇の、そのベージュがかったピンク色のルージュは、ほとんど無傷のまま残っていた。何故なら、和樹は泉美と寝る時、唇にはキスをしない。娼婦や花魁は、特別に愛し合ってでも居ない限り、客に唇を許さない。肉体は開け渡すことが出来ても、唇だけは、聖域ということらしい。それが、和樹にはよく理解出来た。泉美の欲望と、自らの若さを合体させることは出来るが、それ以上は無理な相談だった。.

 醒めた思いで眺めているうち、女が小さく寝返りを打ち、和樹に背中を向けた。和樹は女の身体を覆うベッドカバーを持ち上げて、裸体を見た。背中にある小さな黒子や、腕に見える注射の後など、まるで罪の無い部品までもが、嫌悪感の対象となった。ショートカットの後ろ髪がかかる襟足から背中にかけて、可成り濃く生えている体毛に至っては、思わず目を背けたくなった。
 『同じ女の身体でも、範子ならばどこを取っても魅力的に見えた。唇にだってキス出来たのに・・。』
 そんなことを考えながら泉美の裸体を眺めるうち、二年前のあの夜のことを思い出していた。家を出た和樹が一人で暮らしていたワンルームのアパートに、突然現れた泉美は、和樹に拒絶されると、兄から聞いて知っている限りの和樹の弱味を並べ、精神的疾患の傷を棒で突く様に、巧みに芝居染みた迫力で迫った。その口を封じてしまいたい一心で、和樹は女に襲いかかった。押し倒された女は、ふくよかな唇を緩め、笑いを浮かべて居た。和樹は初めて、征服欲という男の本能を知った。怒りにも似たその欲情に身を任せて、好きでも無い女の上に股がってみると、それなりに怒りは消え、良い心地がした。それ故に、下で女がほくそ笑んでいることに、気付かなかった。というより、女の企みに自分が堕ちていることを、都合良く忘れてしまったのだ。

 『今だって同じだ。』和樹は思った。
 『この女の身体を自由にしている様でいて、いい思いをしているのはこいつだけじゃないか。』
 唇にキス出来ない様な女と、身体だけ重ねていることに、改めて嫌気が差した。
 『それでも、居ないよりはいいんだ。もし自分に、唇を合わせたい人間が他に無いのならば・・・けど、秋一が居る。』

 和樹は眺めるのを止め、何気なく天井を見ながら、自分の唇に--人より薄めの唇に--手を当てた。秋一が時々許してくれる、慎重なキス。最後までは--男同志が愛し合うならば到達するだろう極地--までは決して満たしてはくれないが、それでも、思慮深く与えてくれる、手の温もりや唇の優しさを想い浮かべて、熱くなった。瞳を閉じて、その感触を思い出し、息を漏らした。
 それから横の女の寝姿を再び見てから、静かにベッドを抜け出そうと身体を起こした。

 「和樹、」背後で聞こえた声に、ぎょっとして固まった。
 「どこ行くのよ。あたしを置いて。」
 ベッドの中から呟いた泉美は、ベッドカバーで豊満過ぎる胸を押えながら、起き上がった。肉付きのいい二の腕や胸の谷間が、和樹を余計に息苦しい気分にさせた。
 「どこって、帰るんだよ。」
 「あの秋一って人の家に?」
 「違うよ。秋一と僕の家に。」
 「私はどうするの?」
 「知らないよ。兄貴が待ってる家に帰れよ。だいたい子供はどうしてるんだよ。母親のくせに、こんなところで。」
 と言いかけてから、和樹は口を噤んだ。その、人妻であり母親である女と戯れていたのは自分なのだという事を思い出したからだ。

 不快な沈黙の後、涙で濁った顔と声で、泉美は言った。
 「全部知ってるの。調べたから。」
 「だろうね。」和樹は服を着ながら応えた。
 「事務所の社長の事も。彼が今、あなたを探しているってことも。」
 立ったままジーンズに足を通していた和樹は動きを止めた。女に顔を向ける気にはなれずに、俯いたまま、残りの足を入れてからジーンズを引き上げ、ファスナーを閉めた。
 「ふん、脅迫してんの? 上等だね。こっちは兄貴と親父にぜんぶぶちまければいいんだから、もっと簡単さ。」
 テイーシャツの上に、秋一から借りたグレーのタートルネックのセーターを着終わっても、背後の女の言葉が聞こえて来ないので、和樹は漸く振り返った。ほぼ同時に、泉美が抑揚の無い声で呟いた。
 「あんた、変わったわね。」
 泉美はそう言うと、裸のままベッドから出て、和樹に向かって来た。和樹は醒めた目で近寄って来る女の首筋や胸を見ていた。泉は触れる程の距離で止まると、和樹の手を取り、自分の胸に押し付けた。そこまでは良かったが、続いて和樹の首筋に手を回し引き寄せ、接吻しようと試みたために、突き飛ばされて床に転がった。

 「あんたも、ちょっと生まれ変わった方が良いよ。じゃないと子供が可哀想だ。僕みたいになったら悲劇だからね。」
 倒れたままの姿勢で和樹に恨めしい視線を送る泉美にそう言いながら、和樹は黒いダウンジャケットのファスナーを上げた。
 「洋史さん・・あなたのお兄さんね、観葉植物の葉っぱを一枚一枚拭く様な人なの。」
 落ちていた下着を拾って身に付けながら、涙声で泉美が言った。
 「それで? 嫌いになったって?」和樹は別々の場所に転がっていたスニーカーに順に足を入れ、身を屈めながら返した。泉美は応えなかった。
 「要するに欲求不満なんだろ? 逆に、兄貴に嫌われないように頑張るんだな。」
 スニーカーの踵を引っ張り上げると、和樹は立ち上がり、ドアに手を掛けた。
 「じゃあね。もう探偵なんて雇わない方がいいよ。無駄だから。」
 と、漸くキャミソールとペチコートを身に付けた泉美に言い放ち、微かに笑顔を向けてから、その薄暗い部屋を後にした。



第三話につづく


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