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「水の男」 第三話



「カズキ」と、低音の響きの良い声と共に揺り動かされ、見ていた夢の世界から引き上げられた和樹は、不満そうにゆっくりと瞼を上げた。和樹の寝起きの悪さに慣れてきていた秋一は、その顔をじっと覗いて、相手が現実世界に意識を戻すのを気長に待った。
 「あんだよ。」壁や天井の白い空間に浮かぶ秋一の姿に安堵を覚えながら、和樹はゆっくりの睫毛のブラインドを上げたり下げたりした。
 「ちょっと出掛けてくる。夕方帰って来なかったら、一人で何か食べててくれよな。」
 未だ神経の目覚めが悪く、ろくに反応も返せないうちに、秋一は笑顔を向けて部屋を出て行った。ベッドの脇の時計を見ると、午前十一時だった。身体を起こして窓の外に目を遣ると、いつもの晴天が在った。.

 そう言えば、サードマウンテンの定休日だ・・・と、気付いた和樹は、続いて思い付いたある事実を確かめるために、ベッドを出て壁面のクローゼットの扉を開けた。中の引き出しの一つを引っ張り出すと、思った通り、例の小さな包みが消えていた。横浜美術館のミュージアムショップで、秋一がわざわざ選び出し、プレゼント用の特別な包装を施した、例の、葉子という女への贈答品。
 「ふん。」と鼻で息を漏らすと、寝室を出てリビングに移った。先刻まで秋一が居たという存在感が、エアコンの暖気の名残りで感じられた。突然に、2DKのその部屋がやけに広く、空虚で、不毛な空間の様に思えた。

 冷蔵庫と電子レンジ、コーヒーメーカーなどの世話になりながら、殆どの時間を、テレビの前で過ごした。秋一の映画のビデオのコレクションを漁って、自分にとっては退屈なヨーロッパの映画を何本か観た。が、夕方になっても戻らなかったため、空腹に堪えかねてコンビニに出掛け、食料を調達した。秋一の帰宅を待つ間、和樹は数え切れない程、テレビの隣の時計に目を遣っていた。

 「お帰り。」
 終電で帰った秋一が、ソファで眠り込んでいた和樹に声を掛けずにシャワーを浴びていると、和樹がユニットバスに顔を出した。頭からシャワーを被っていた秋一は、
 「起こしちゃったか。」とお湯と蒸気の中で応えた。
 和樹は何秒間か、シャワーの中の秋一の背中を見ていたが、水音が急に止まり、秋一が振り返ったので、慌てて視線を相手の顔に移した。
 「お前、何か食ったのか?」
 洗面台の脇のタオルハンガーに手を伸ばした秋一がきいた。和樹は咄嗟にそこに掛かっているバスタオルを手に取り秋一に渡した。秋一は「サンキュ」と言ってから、水の滴る長い髪を、摩擦する様に拭いてから、同じタオルで身体の水分を拭き取った。
 「コンビニ弁当、食った。」
 「そうか。」
 秋一がバスタオルを腰に巻いて浴槽から足を出したので、和樹は体重を掛けていたユニットバスのドアから離れ、リビングに戻った。.

 冷蔵庫から缶ビールを取り出した秋一は、一口飲んでからキッチンのテーブルに缶を置くと、寝室のクローゼットに向かい、長袖のテイーシャツとパジャマのズボンを身に付けて戻った。和樹は相手の動作全てに、神経を向けていた。ダイニングテーブルに残したビールを持って漸く自分の前のソファに座る迄には、随分待たされた様な気になっていた。
 「どこ行ってたの?」
 「今日は恵比須。映画観て、食事して。」
 「プレゼント渡したの?」
 「プレゼント? ああ、あれは大したもんじゃないんだ。あれはほんの・・気持ち。」
 「気持ち? 気持ちって何の気持ち?」
 「難しいこと聞くなあ。」
 「映画と食事と・・それから?」
 「葉子の家は川崎だから、家まで送った。」
 「それで、セックスしたの?」
 「お前、何だよ、さっきから。奥さんに尋問されてるみたいだな。」
 「葉子って人とセックスしたの?」
 「したよ、そりゃあ。問題有るのか?」
 「・・・ない。けど、ある。」.

 和樹が小声になって、身体まで小さく萎縮していくのを見て秋一は笑い、ビールを飲み干すと、キッチンから二本目を補充した。リビングの窓から外を覗き見てから、ソファに戻った。
 「あんまり冷えるから雪でも降ってるかと思ったけど、さすがにそれは無いな。」
 缶を開けながらそう言うと、勢い良く何口か飲んだ。和樹はその姿をじっと目で追っていたが、秋一の喉仏がビールに反応して動くのを見ているうち、自分の全身が震えているのが分った。それを自覚した時には、既に両目から涙がこぼれ落ちていた。身体の震えが嗚咽となって、静かな部屋に響いたので、秋一は気付いて驚き、ビールをテーブルに置いた。.

 「何だよ、急に。」
 声を掛けられると、ますます和樹の嗚咽に拍車が掛かり、小さな子供の様に全身でしゃくっている。秋一は戸惑い、伸ばしかけた腕さえ引っ込めた。
 「どうしたら、お前の気が済むんだ?」
 無意識に顎の辺に手を当てながら秋一がきいた。静かではあるが、力の有る言葉だった。
和樹はしゃくるのを堪えて、頬の涙を手で拭いながら、声を絞り出そうとしていた。なかなか上手く行かないうち、秋一は煙草に火を付けていた。
 「・・・れて。」和樹が呟いた。
 「何だ?」秋一は煙を脇に向けて吐きながら、和樹を見た。和樹も秋一を見つめ返した。
 「その女と別れて。」
 幾らかはっきりした口調で言い放った和樹の言葉が意外だった様で、秋一は驚き、固まった顔を和樹に向けた。
 「お前、なに言い出すんだ?」
 「僕にはキスしかしてくれない。」
 「言っただろう、葉子とは簡単に切れる仲じゃない。そうじゃなくても、別れろとか別れるなとか、人にとやかく言われるのは好きじゃない。」.

 秋一は憤慨している様にさえ見えた。日頃、怒りを発することが無い男だけに、和樹にはそれが悲しく思えた。
 「あんたって、優しいのか冷たいのか分かんないや。」
 「・・・よく言われるよ。」
 「残酷だとも、言われない?」
 「さあ、記憶には無いけど。」
 和樹は秋一の手元のビールを奪う様に取ると、苦いのを無理して二三口飲んだ。.

 「葉子とかいうその女とだって、片手間にしか付き合って無いじゃないか。安物の贈り物で誤魔化してさ。」
 そう言ってから、口元に付いたビールを手で拭っている和樹に、怒りを浮かべた視線を送ると、秋一はビールを奪い返して、言った。
 「その通りだよ。俺はそういう男だよ。だけどな、お前にとやかく言われる筋合いは無い。分ったか。」
 「偉そうに言うなよ。」和樹は再び目に涙を浮かべて、力無い声で返した。それからすっと立ち上がり、リビングを去ろうとした。
 「おっと、例の社長のとこに行くなんて言うなよ。それに、あの兄貴の嫁さんも、やめといた方がいいぞ。」
 秋一の、らしくない嫌味な口調を背中で聞いた和樹は、泣き出したいのを精一杯に堪え、何とか言い返した。
 「残念でした。僕は出ていったりなんかしない。あんたのこの部屋に居続けて、あんたと葉子を別れさせてやるからな。」
 寝室に向けて歩くうち、秋一からの反論は聞こえてこなかった。せめてドアを勢い良く閉めて、鬱屈した思いを表明しようかとも思ったが、そんな腕力さえ、和樹の細い身体の中には残っていなかった。

 翌朝、和樹は秋一に揺り起こされた。秋一は怒っていた。目には涙さえ浮かべていた。
あれから和樹は、秋一が眠りに就いたのを確認してリビングに行き、彼のジャケットに残っていた煙草に次々と火を付けて、自分の裸の身体中に、それを押し当てていた。
 昼近くに目覚めて、煙草を吸おうとジャケットのポケットに手を伸ばした秋一が気付いた時には、ベッドで眠る和樹の身体には既に、無数の斑点が浮かび上がっていた。.

 普段と違い、起きるなり意識がはっきりしている風の和樹を、秋一は左右両側から殴って、ついに涙を一粒こぼしてから、去って行った。和樹は笑った。秋一の涙を見て、仕返し出来た、と喜んだ。また同時に、秋一に殴られた後の傷みの余韻さえ、愛おしいものに感じた。ベッドから這い出し窓の外を見ると、「みなとみらい」の観覧車が、真っ白い空の中で不安そうに立っているのが見えた。
 「雪が降りそうな空・・」
 心の中でそう呟いてから、再びベッドに戻って、眠りの波が押し寄せて来るのを静かに待った。


 「秋一くん、海賊が一人足りないんだけど。」中澤が、和樹の不在に気付いて声を掛けて来た。
 秋一はステージの準備中で、手にギターを抱えていたが、仏頂面を向けられた中澤と、それを脇から見ていた江崎は驚いた。
 「ああ、あいつなら、今日は来ない。間違い無くさぼります。あ、というよりは、病欠かな。俺が殴って来たから。」
 そう言ってすぐにギターに視線を戻した秋一の態度を不審に思い、中澤と江崎は顔を見合わせていた。そこに、酷い顔をした和樹が登場し、ステージ周辺の空気が張り詰めた。 秋一は和樹を一瞥し、「来たのか」と呟くと再びギターをチューニングし始めた。寝起きにくらった平手で大きく腫れ上がり、特に左側は紫がかっていた。口の中が切れたようで、口角には渇いた血の固まりが残っていた。
 「着替えて来ます。」中澤に軽く会釈しながら言った和樹に、中澤と江崎が両側から声を掛けた。
 「今日は仕事はいいよ、休んでな。」
 中澤が更に付け足した。
 「うちで休んでなさい。うちのに、手当てさせるから。」
 和樹が俯いたまま無言でいるうちに、中澤に呼ばれて夫人が厨房から出て来た。和樹は秋一を一瞥したが、秋一はギターしか見ていなかった。中澤婦人に付き添われ、和樹は店を出て行った。


 和樹の傷と火傷の手当てをして、約一日半、自宅で面倒を見た中澤夫人から秋一に電話が入ったのは、ちょうど正午頃だった。
 「迎えに行きます。」秋一が言うと、
 「大丈夫か?」と電話を代わった中澤が案じた。心配ない、と告げて電話を切った秋一は、重たい足取りで・・しかしその中に幾らかの微笑みの様な感情を含めて、桜木町の駅から電車に乗った。

 中澤家の呼び鈴を鳴らすと、和樹本人が無言で出て来て、玄関に座りスニーカーの紐を結び始めた。リビングのドアの影から、中澤夫人が少しだけ顔を出し、和樹に気付かれないように、秋一に軽く手を振った。紐を結び終えた和樹は静かに、何故か優雅な感じさえ漂わせる動作で、ゆっくりと立ち上がった。そして漸く、大きい瞳で秋一を見た。目の前に迫った長い睫毛と陶器の様な滑らかさを見せる色白の顔に、秋一はやや圧倒される思いで、相手を見返した。
 「行こう。」白い顔の上に浮かぶ、若さを象徴する様な濁りの無い色をした唇が動いた。玄関のドアを閉める前に、秋一は再び家の中から伺っている露子夫人に視線を送り、目が合うと会釈した。夫人は笑顔で手を振り返した。

 JR線で二つの駅を過ぎる間、和樹は独りで乗車口の扉の側に立ち、外の景色を眺めていた。数日前から続く、ただ白いだけの不健康な風情の空は、雲の姿さえその白さの中に吸収し、雪になろうとする水分と共に、じっと息を殺しているかの様に見えた。
 『雪が降りそうな空だな。』和樹は数日前と同じことを、その空を見て思った。

 港が見える光景になると、同時に、白いばかりの空の一部に、青みを帯びた灰色の雲が拡がっているのが分った。
 『雪でも降るのかな。』和樹から少し離れた吊り革の下に立っていた秋一は、その憂いの有る、重た気な雲の固まりを見て思った。桜木町に近付き、「みなとみらい」が見えてくると、巨大な観覧車は既に、更に色を深めた、灰色の雲の下に頭上を塞がれていた。

 二人が駅を出て、マンションが立つ高台に続く坂を上り始めた頃、ついに水分を十分に含んだ、重みの有る雪が空からするすると舞い降りて来た。和樹は立ち止まり、空を見上げた。真っ白な空の破片が、こぼれ落ちている様に思えた。それから、今上って来た坂を振り返り、遠ざかった「みなとみらい」の、建設中の高層ビル、その向こうに立つ観覧車を確認する様に見た。そこで光っている時計の数字を見て何故か安心し、自分より少し坂の上に居る、秋一を返り見た。秋一も観覧車の方を見つめていた。
 歩き出すと、すぐにマンションに着いたことが、和樹には幾らか残念だった。しかし、部屋に入って秋一がエアコンを入れ、暖かい風が吹き降りるリビングに、コーヒーの薫りが漂い始めると、その空間に満足し、外の神秘的な世界のことは暫し忘れた。秋一が煎れたコーヒーを二人で向かい合って飲んでいる時間が、自分が知りうる限りの最高のものだと・・・それまでの自分が受けた傷全てを癒しても余り有るものだと、和樹は思った。

 マグカップを片手に、時々窓の外に目を遣りながら、正面に座る和樹にも意識を置き、言葉も無くそこに存在している秋一を見ていると、和樹は胸の底、爪の先や身体の隅々から沸いて来る勢いの有る意志・・・生まれて初めて自覚した、自らの「強い意志」というものが、自分という容器を満たし、今にも溢れ出ようとしているのが分った。そのうちに、秋一も和樹を真直ぐに見た。コーヒーのマグを持ったまま、何か言いたげな、しかし何も言うつもりの無さそうな、多くの意味を含む視線を投げていた。
 和樹は立ち上がった。またしても、何時から身に付けたのか、猫科の動物の様なしなやかな柔軟性を纏った動作で、秋一の座るソファまで歩いて、その隣に座った。秋一は無言のまま前を向いていて、和樹に顔を向けようとはしなかった。和樹はその横顔を、悲劇的な程、切ない光りを宿した瞳で見つめた後、秋一の膝の上に上がり、その頬を両手で包んだ。
 激しくキスすると、秋一はそれに応えた。和樹は夢中になって、秋一の髪を両手で乱しながら、接吻し続けた。気が付くと涙が流れていた。

 二人が夢の様なキスの応酬から現実に戻った頃、外の世界は、完全に白く塗り替えられていた。ベランダに立ってその純白の拡がりに感嘆の声を上げてから、二人はドイツの映画のビデオを観て、それから夕食を作って食べた。
 それでも、雪は降り続いた。和樹の涙も流れ続けた。多くの無駄な雑音を吸収してしまう雪は、夜の静寂を約束してくれた。寄り添って眠るうち、何度も目を覚ました和樹は、外の雪を確認してから、秋一の髮や手の甲や頬や首筋に、小さく接吻した。そして、その男の寝息を酔いしれる様に聞きながら、仰向けの胸に密着して、眠りに落ちる瞬間を待った。幸福の余り再び目が覚めると、同じことを繰り返した。

和樹が忌わしい火傷を全身に作ってから、そして、奇跡の様な雪の日から、一月以上が経っていた。日増しに薄れていく和樹の肌の上の斑点を見て、「やっぱり若いんだな」と秋一は何度か言っていたが、その男と過ごす毎日が、自分の身体の細胞の動きや物質の生成にさえ、奇跡的な変化を起こしているのだと固く信じている和樹は、秋一がそう言う度に、ふふっと笑うばかりだった。

 海賊も板に付いて来た。痩せ過ぎていた身体も適度に肉が付いて、その特殊な制服もフィットするようになった。
 「君、身長何センチ? 高いなあ。」
 と、カウンターの椅子から、海賊姿の和樹を見上げて江崎がきくと、和樹は長い睫毛を微かに下ろし江崎を見て、
 「最後に計った時は・・176。」と答えた。江崎の隣に座っていた秋一が、
 「それなら俺と同じだ。そんな筈ない、絶対それから伸びてるな。だいたい計ったの何時なんだ?」と水割りを持ったままきいた。
 「高一の時。だって、高校は一年で辞めちゃったし。」と和樹は答えたが、客が入って来たのを目にとめると、ウエイターらしく飛んで行った。その姿を見つめていた江崎が、
 「ずいぶん元気になったよなあ。」と独り言の様に呟いた。秋一の視線はさり気なく働く和樹に飛んでいたが、すぐに水割りのグラスに戻った。

 「さすがだよ、秋一くん。」と、わざとらしく年寄り染みた口調を作って言うと、江崎は自爆する様に独りで笑い出した。秋一はその男の様子が可笑しくて、思わず吹き出したが、未だ笑いの余韻を残しながら無意識にホールの和樹に目を遣った。
 「あ、」と隣で江崎が同じ方向を見て声を上げていた。秋一も既に気付いていた。店のドアを押し開けて入って来たのは、葉子だった。
 他の客のオーダーを厨房に届けて再びホールに戻る途上に在った和樹は無論、それが誰だと知る筈もなく、最近漸く身に付けた、僅かな微笑みを伴う接客で、その女性客をテーブルに案内した。海賊姿の和樹にも、客として余計な程の丁重さで対していたその客は、注文したカクテルの名前を海賊が書き取っている横で、カウンターに見つけた秋一に向かって手を振った。海賊が気付くと、微笑んで手を振る女の視線の先には、他ならぬ秋一が在った。和樹は慌てる様に再び目の前の客を見た。肩まである、しっとりしてややウェーブのきいた長い髪、卵型の輪郭、細いけれど鋭くは無い瞳、秋一に向けた微笑した顔に浮かぶ、口元に浮かんでいるえくぼ、そして全身を包む、遠慮がちで、無駄な力を押さえ込んだ様な空気。

 それらを認めると、呆然としながらホールを横切り始めた。笑顔で手を振られた秋一は当然、カウンターに水割りを残して葉子の元へと歩いていた。ホールの真ん中で、和樹と秋一は擦れ違った。江崎はカウンターから、はらはらしながらその二人が交差する瞬間を見守っていた。
 「葉子だよ。」擦れ違い様に秋一が言ったが、和樹は前を向いたまま--実際には瞳は何処も見てはいなかったが--無言で歩いていた。厨房に辿り付く直前の何歩かは、足から力が抜けたせいかよろめいていたが、既に背中を向けて葉子のテーブルに着いていた秋一には、和樹のその姿は見えていなかった。江崎は全てを眺めていたが、何も出来ずに水割りを口に運ぶだけだった。

 七時を過ぎて、秋一がステージに上がると、葉子は通りかかった海賊に声を掛け、食事になるものを注文した様だった。海賊仲間が厨房にもたらしたそのオーダーを、和樹は冷たい好奇心から覗き見た。
 「ミートパイにホウレンソウのキッシュ、カクテルはミモザ、か。」和樹は独り、誰にも聞こえない声で呟いていた。暫くして、葉子の元へそれらの皿とグラスが運ばれてからは、暇な限りはホールの隅に立ちながらその女の食事する姿を観察していた。葉子が、食べることに意識を置いて、皿ばかりを見つめている時は、
 「何だよ。秋一の女なら、食べてないで演奏を聞けよ。」などと不満に思い、逆に葉子がフォークを更に寝かせ、じっとステージを見つめている時には、
 「何だよ、嫌味たらしくじっと見つめやがって。」と、苛立っていた。

 葉子がキッシュやミートパイを口に運ぶ仕種は、姿勢が良いせいかやけに品が良く、暗い店の中で目を凝らしている和樹にも、美しく見えた。口は小さく開いている筈なのに、そこに運ばれるフォークは、無駄なく必要な量だけを乗せているらしく、ソースが口の回りにはみ出したり、ぽろりと食べ物が転がったりということは全く無かった。忘れた頃に山吹色のミモザのグラスを手に取り少しだけ口をつけると、その後は決まって暫くステージを集中して見つめていた。
 「あの顔は誰かに似ている・・・」和樹は何とか自分の中に正統な嫌悪感を沸き立たせ、それを膨らませてしまいたかったので、自分の記憶の中に在る、葉子に少しでも似た所のある、嫌な人間のデータを脳内で検索した。
 『そうだ、中学二年の時の担任の女教師にちょっと似てるぞ。確か、隣のクラスの担任と職場結婚した・・・いつもいい加減なことばっかり言っていた、性格ブスの英語教師。』
 似ているのは、せいぜい髪型と年齢くらいだと、腹の底では分ってはいたが、和樹はその妄想を拡大し、自分の中の葉子への苛立ちを膨張させようと努めた。
 「ああいう根暗で退屈な女が、どうして秋一なんかと・・・」
 ステージで演奏が続く間中、和樹は妄想し続けた。いかに葉子が陰険で計算高く、どんな風にして秋一を誑し込んできたか、を。

 バンドの演奏が八時半近くに終わり、メンバーたちは、一旦店から消えて行った。ちょうどその頃、葉子がホットコーヒーをオーダーしているのが分った和樹は、他の海賊に先んじて新しくドリップされたポットに飛びつき、カップに注いだ。すっかり慣れた手付きで、スプーンとミルク、シュガーを決められた位置に置くと、微笑みさえ浮かべてホールを歩き出した。
 『絶好のチャンス。余りに馬鹿げていて、自分でも笑い出しそうだけど、これくらいやったっていいだろう。この女、何度も秋一に抱かれて居るのだから・・』
 葉子のテーブルに向かう間、和樹はそう考えていた。そして、目的地に辿り着くなり、決行した。
 「ああっ、」煎れたての熱いコーヒーを膝の上に転がされた葉子は、悲痛な声を上げた。それでも、普通の人間の悲鳴よりは、ずっと控え目で儚かった。

 和樹は上辺だけ懸命に謝罪しながら、テーブルに在ったお絞りで葉子のスカートをごしごしと拭いた。それから、タイトスカートの下から覗く膝頭と、その下の部分に滴った雫までも、手を伸ばして拭いた。葉子はさり気なく伸ばした手で和樹からお絞りを取り戻すと、自ら静かに立ち上がり、スカートから床に向けて水滴を払い落とす様にして、手を上下させた。別の海賊が新しいお絞りを手に飛んで来て、「大丈夫ですか」を連呼して、ちらりちらりと和樹を見ては、葉子に頭を下げていた。
 「びっくりしましたけど、大丈夫です。」
 と、再び椅子に腰を下ろした葉子が微笑んで返すと、和樹でない、バイト学生の鏡の様な海賊は、「新しいのをお持ちします」と誠意を込めた声を出し、厨房に飛んで行った。
すぐにはその場を去らない和樹を不審に思った葉子がその顔を見上げると、背の高い海賊は、睫毛を勢い良く下ろして、座る葉子を見た。
 「ヨウコさん。」
 「はい?」葉子は驚いて僅かに怯える様に、海賊の白い顔を見上げた。
 「秋一はあんたのことなんて想っちゃいないよ。あの人、あんたを重荷だって言ってた。旦那が死んで、可哀想だから相手してやってるけど、いい加減に解放されたいってさ。」

 店の薄暗いライトを受けて微かにオレンジ色に染まっている和樹の顔は、黒目だけが眼下の葉子に向けられていた。念仏の様に低音で唱えた自分の口調を、上手く行った、と幾らか誇らしく感じていた和樹は、神妙な顔を自分に向けていた筈の葉子が、急にクスクスと笑い出したので、驚いた。
 「あなたは、あの人の何? ああ、そう。秋一のこと好きなのね。彼は昔から男の子にもモテたものね。でも、私をそんな風に脅したってしようがないのよ。だって、あの人がそんな人じゃないって、分りきってるから。」
 葉子は一重瞼の下の、妙に落ち着いた、和樹にとっては「むかつくほど」落ち着いた黒目を、潤ませる訳でも、頼り無げに揺らす訳でも、また鋭く光らせる訳でなく、まったく平然と和樹に固定して、口元を緩めさえして語っていた。和樹は苛立ちや嫌悪、嫉妬や憤慨などを通り越して、パリン、と、自分の中の奥深い所で、人格の一部分が、水の上に張った氷の様に、また薄い鏡の様に一瞬にして割れてしまったのを自覚した。
 それは可成り深刻で、自分はこの場で記憶喪失になるではないか、と思うくらいだった。事実、秋一と出会うことで形成され始めた和樹の第二の人格が、台無しになろうとしていた。もうすぐ訪れる「完成の日」を待っていた、水晶で出来た和樹の映し身の人形は、和樹自身の頭の中で、一気に粉砕し、崩れ落ちた。

 気付くと、和樹はホールをふらふらと歩き、カウンターの前に辿り着いていた。
 「お疲れさま。もう上がる時間だよ。」という中澤の声をカウンター越に聞いたので、中を見たまま、よろめきながら厨房を越えて、海賊達のロッカールームに消えた。入れ違う様に、一階から降りて来た秋一と江崎を、中澤が呼び止めた。
 「なんか、和樹くん変だったよ。夢遊病者みたいだった。」
 髭の有る口元を指でカリカリと掻きながら言った中澤の言葉に、秋一と江崎は顔を見合わせたが、取り敢えず秋一は葉子の待つテーブルへと移動した。
 淡いブルーのスカートの上に拡がるコーヒーの染みを見て驚いている秋一に、葉子は和樹との間に先刻起こっていた事を話した。
 「余計なことを言ったかな。彼、顔色変えちゃったの。私はいいから、様子を見に行ってあげて。」
 という葉子の寛容な言葉に安堵して、秋一は店の奥へと消えて行った。葉子は染みを意識してか、立ち上がるとすぐにコートを着て、カウンターの江崎と中澤に挨拶をしてから、サードマウンテンを出て行った。

 ロッカールームには既に和樹の姿は無く、和樹が脱ぎ捨てた海賊の装束は、無惨に床に上下ばらばらに落ちていた。その様子を目にした秋一は更に不安を募らせ、一階に駆け上がり、ビルの外に出た。
 雪ではなく雨だった。秋一は、二人で何度か共にした雪の降る日の記憶を頭の中に思い起こしながら、夜の裏道を歩き、繁華街を抜け、一旦はマンションに向かった。が、予想した通り、そこに和樹は居なかった。
 『またデブの社長の所に行く気か。いや、それならまだいい。あいつは本気になったら、当然の様な顔して死んじまうかも。』

 マンションから再び坂を下ろうとしていた秋一の視界の中には、観覧車の色とりどりの光が、冷たい雨のカーテンの向こうで点滅を繰り返していた。時を刻むように、ピンクや黄緑、黄色、オレンジと交互に光を放っている。それらの光が、灯台の様に秋一を導き、誘い込んでいた。どうせ当ても無いのだ。和樹がいつも喜んで眺めていたあの観覧車まで一走りするか・・・と安易に決定した。レザージャケットは雨を含んで、全身に重たくのしかかったが、秋一は構わず走り続けた。
 『なんだか、「走れメロス」みたいだな』と心の中で呟いていた。
 高架線路の壁面の落書きアートに見送られてから、東横線の、続いてJRの、蛍光灯に照らされた二つの桜木町駅を走り越えて、みなとみらい地区へと続く階段を上った。エスカレーターや動く歩道のレーンの横を、秋一はひたすら、白い息を激しく吐きながら走った。

 遊園地の乗り物のすぐ脇を通った時、突然に立ち止まった。白い吐息だけが、追い風に押されて前方に流れて行った。取り憑かれた様に走っている自分が滑稽に思えた。
 他人に弱味を見せたくは無いし、その様に上手く振る舞って来たと思っている。それに大概の事は、仕事のことも、女のことも、多少の問題を抱えても、動揺せずに対処出来るという自信も備わっている。しかしただ一つ、頭の中を不安という二文字で掻き回されてしまうのは、誰かが死に走ろうとしている、という想像が引き起こす、脳が起こす障害だった。それは一種のトラウマであり、五年も前に自刃した親友・・つまり葉子の夫であった男--雅春という名だった--によって埋め込まれた恐怖心によるものだった。
 葉子は夫が自宅で自刃した姿を見ていた。逃げ出して来るのは当然だ、と秋一は思う。札幌を逃げ出し、既に横浜に出ていた秋一の元へと。そして未だに、雅春という傲慢なタナトスは葉子を解放しては居ない。葉子は必死に逃れようとしている。だから、秋一に縋り付く。繋がっていようとすることを、決して止めない。しかしまた秋一も、親友の自殺に囚われ続けていた。「それ」によって・・懐に飛び込んで来た葉子によって変えられた自分の運命を、嘆いてもいた。葉子を心の何処かで厭うことも事実だが、葉子との仲を切れないのは、葉子だけが原因ではなく、自分が未だ、親友の自殺を赦していないからだった。

 秋一は立ち止まった場所で、何秒間か動かずにいた。和樹の顔を思い浮かべようとしても、それは死んだ友の顔に変わってしまう。間近に迫った観覧車の巨大な姿を見上げてみたが、冷たい空気と雨に揉まれた自分にとって、感情に訴えるものではなかった。

 凍り付きそうな手のひらの片方だけが、不意に温かく柔らかいものに包まれた。呆然としたまま無意識に振り返ると、背後に和樹が立っていた。自分の片手を、ぎゅっと両手で握っていた。しかし、秋一は驚いた。和樹は坊主頭になっていた。
 「どうしたの?こんなところで」
 和樹はそう言ってから、握った秋一の手を持ち上げて、指先に軽くキスをした。
 「お前こそ、その頭、」秋一が返すと、
 「似合うでしょう。これ、借りたよ。」
 と、ダウンジャケットのポケットから、秋一のT字型の髭剃りを取り出して見せた。
 「そんなんで剃ったのか?」
 秋一が髭剃りを見ながら呆れたように言うと、和樹はクッと笑い、刃物をポケットに戻しながら言った。
 「本当はね、これで手首を切ろうと思ったんだ。でも止めた。あんたが可哀想だから。」
 秋一は和樹のその言葉に、感動さえ覚えた。健全で有能な男を演じ切っている自分をしばしば窮地に陥れる、処理されないままの毒性の結晶体が、和樹の、まさに純真な愛情表現とも言える一言に癒され、溶解していく様だった。
 咄嗟に和樹を抱き締めた。和樹は最初は驚いたが、それから秋一の背中に両腕を回した。時間が遅いお陰で遊園地の中に人影は無く、二人が好奇な視線を注がれる心配は無かった。それから秋一は和樹の、その寒々しい頭と瞳を交互に見て、深刻な顔で言った。
 「お前と会えて、幸運だったと思う。大事にも思ってる。でも、これ以上、一緒に住んでは居られない。」
 踵の高いブーツのせいで、自分より少しばかり高いところに在る秋一の瞳を、和樹は無言で見つめ返していた。秋一の言葉を聞き終える頃、両方の瞳から、涙が静かに流れた。それでも、和樹は表情を変えなかった。
 「悪いな。」秋一はその涙を見つめて言った。優美な響きのある一言だった。
 「僕は、あんたのこと愛してるんだ。」
 そう言うと和樹は、長い睫毛と共に瞼を下ろした。秋一は坊主になった和樹の頭を撫でた。そして、吹き出すように笑った。
 「お前、傷だらけだぞ。」
 和樹は大きな瞳を慌てて秋一に向けて、
 「あの剃刀、切れが悪かったんだ。」
 と、照れ臭そうに応えた。その直後に、和樹が二連発のくしゃみを発したのを機に、二人は歩き出した。雨はほとんど霧雨になっていたが、暫く立ち止まっていた二人の身体はすっかり冷えきっていた。坂の上のマンションに急いだ。

 秋一が目覚めると、同じブランケットの中で、和樹が眠っていた。テレビの脇の時計を見ると昼近くだったので、和樹を目覚めさせるべく顔を指で何度か弾いた。瞼が開くと、寝起きの和樹にしては珍しく、すっきりした眼差しを秋一に向けた。
 「おはよ。」目をこすりながら言った和樹に、秋一は呆れる様に言った。
 「お前、なんでいつも潜り込むわけ?わざわざベッドを明け渡してやってるのに。」
 「だって、あったかいし。」和樹は平然と答えた。
 剃髪した直後に、容赦なく三月の雨をその寒い頭部に受けた夜から、和樹は四日ばかり発熱し寝込んでいた。時々飲み物を飲む以外は殆ど何も食べずに、死んだ様に眠り続けていた。その後も一週間近く、何だかんだと理由を付けて、半病人の顔をしてバイトを休み続けていた。和樹を部屋に残してサードマウンテンに仕事に出ていた秋一は、前の夜、眠っている和樹の脇に体温計を差し挟み、平熱に戻っていることを確認し、安心していたところだった。

 「今日はバイトに行けそうだな。」
 「え? いかないよ。やめたから。」
 「何だって? 聞いてないぞ。いつ連絡したんだ?」
 「今日の午前中。秋一がバク睡してる横で、中澤おやじに電話した。」
 「なんでだよ。」
 「だって、またあの女に会うのやだから。」
 「・・・葉子は、時々しか来ないよ。」
 「それでも、やだ。」
 「・・・代わりのバイトは?」
 「まだ。でも、どうせここに居られないんだろ?」
 「・・・」
 「ねえ、秋一。俺さあ、」
 そこで漸く毛布の中から這い出し、身体を起こした和樹が、「俺」という聞き慣れない言葉を使ったため、秋一は不思議な気分になり、続く言葉に耳を傾けていた。

 「俺、あんたがいつか本当に女を愛したら、その女、殺すかもよ。」
 丸坊主の美形の男に真顔で見つめられたままぶつけられると、余計にその言葉は無気味に感じられ、秋一はたじろいだ。
 「本当に愛したら・・・っていう意味が、よく分らんけど。」
 活力を吸い取られた気分の中で、呟く様に秋一が言うと、和樹は長い睫毛を伴う瞬きを何度か意識する様に繰り返して、それから微かに笑って言った。
 「だから、範子とか、葉子とか、っていうんじゃなくて、もっと真剣になったら、っていう意味。」
 「別に、俺はいつも真面目に女と付き合ってるつもりだけど。」
 「ふふん、笑わせるね。適当におちゃらけてるだけじゃないか。ぜんぜん身が入ってないよ、僕みたいに。演歌でもあるじゃん、『誰かに盗られるくらいなら、あなたを殺していいですかあ』って。」
 「あのなあ、みんな違うんだよ。誰も彼もが恋愛に命掛ける、なんてことは無いんだ。もっとも、お前はまだ若いから、無理もないけどな。こればっかりは人生経験。」
 「なんか、言い逃れしてるだけじゃない?」
 「それは違う。・・・つまり、十人居れば、愛情の形も十通り有るってこと。」
 「なんか、納得いかないな。」
 「納得行かなくとも、現に俺みたいな男も居るんだ。俺は俺なりに、葉子のことも、範子のことも、それ以外に付き合った女もことも・・それからお前も、それぞれ愛情を抱いているわけだ。」
 「ますます納得いかない。」
 「お前はまだ若い。若造だ。」
 「でも、とにかく殺すかも。あんたを、じゃなくて、女を、ね。それだけは言っておく。」
 と、上目遣いで言う坊主頭の和樹の醒めた様な表情を見て、秋一は議論を諦め、軽く溜息をついた。どうであっても、和樹を家から出そうとしている自分なのだから、少しくらいの悪言は甘受するべきだろうとも思った。

 キッチンから二つのマグカップを持って戻ると、和樹は未だにマットレスの上で、足を抱えた姿勢で座り、その上に毛布を掛けてじっとしていた。熱いカップを差し出すと、受け取った和樹が中味を見て言った。
 「どうして今朝は紅茶なの? いつもコーヒーなのに。」
 秋一は、和樹の膝を覆う毛布が万が一お茶で汚れることの無いように、横から引き剥がすと、自分は脇のソファに座った。
 「紅茶は喉に良いから。風邪引いた時に、消毒効果が有って良いそうだ。」
 「ふうん。」
 和樹はカップに口を付けると、ズズっと音を立てて飲んだ。煙草に火を付けていた秋一をマットレスの上に座ったまま見上げ、「ねえ」と言った。
 「僕、誕生日過ぎてた。」
 煙草をくわえた秋一は、驚いた顔を和樹に向けて、煙りを吐き出してから、
 「いつ?」ときいた。
 「えっと、坊主になった日。」
 「そりゃまた、よりによって・・。早く言ってくれれば良かったのに。」
 「言おうとしたさ。そしたら、あの葉子が店に現れたんだ。」
 「そうか。間が悪かったな。」
 「僕、二十歳になったんだな。煙草吸ってみようかな。それ、頂戴。」
 「やめとけよ。病み上がりなんだから。」
 「じゃあ、代わりにキスして。」
 「なんでそうなるんだ?」
 「誕生日祝いだよ。」
 仕方ないな、という顔をして、秋一は灰皿を引き寄せて煙草を揉み消した。ソファから身を乗り出すと、床に膝をついた和樹が首を伸ばして来た。軽いフレンチキスで済ませた。和樹は一瞬、泣きたいのを堪えた様な顔をした。けれどすぐに立ち上がって、寝室に行って、荷物を鞄に詰め始めた。
 「お前、ところで行くとこ有るのか。」寝室の入口に立った秋一が背中に向かって言うと、和樹は手を動かしたまま、顔を向けずに答えた。
 「前に一人暮らししたアパート、知り合いの知り合いが大家なんだ。部屋が有るかきいてみる。サードマウンテンの給料も少しは貯まってるし。」
 「そうか。」

 家を出る真際、和樹はもう一度キスを所望した。秋一は壁と自分の間に和樹を挟んで、壁に手をついた姿勢で和樹に口付けた。今度は和樹が勢い付いたこともあり、濃厚だった。そのせいで、玄関で送り出すのが照れ臭いくらいだったが、和樹は全く平然と、長い睫毛を上下させたり、黒目を微かに揺らしたりしながら、靴を履き終えると秋一を見つめた。
 「じゃね。」無表情のまま和樹が言った。秋一は無理して笑顔を作りながら、なるべく陽気な声を出して言った。
 「面倒見の良い女神が、駅の当たりで拾ってくれるかもな。」
 臭い冗談だと思ったのか、和樹は無言で秋一を見てから、静かに振り返り、手を振ることもなくドアの向こうに消えた。

 秋一は身体の一部がもぎ取られた様な喪失感と同時に、不快な悲しさを伴う罪悪感に襲われていたが、気を取り直してベランダに向かい、去って行く和樹の後ろ姿を密かに見送った。
 和樹を救援するつもりで始めた同居のお陰で、自分自身の底に沈澱していた老廃物の手強い層が、掻き乱されて、結局は浄化され始めている様な気もしている。再び戻り来る日常・・・サードマウンテンでギターを弾き、時々葉子に会う。新しい女と付き合うかもしれない・・そういった有るべき姿の日常の中に戻っても、和樹が自分の中に残して行った痕跡は、それらの日常と溶け合って、新たな時間を刻み始めるのに役立ってくれそうだと、秋一は感じた。和樹の坊主頭が坂道を下り切るのを見届けようと煙草を持つ手をしばしば口に運びながら、ベランダに立っていた。

 すっかり親近感を抱かせるようになっている巨大な観覧車を眺めながら、和樹は坂を降りていた。
 四月になっていた。秋一と出会って、四ヵ月が過ぎていたのだ。坂の両側には、既に散り始めた桜が、青空の下、春の風を受けて微かに枝を揺らしている。
 「眩しい・・・」
 和樹は薄紅色の花びらに透かした太陽を見上げて、心の中で呟いた。

 桜木町駅に着き、券売機に小銭を投入していると、背後で誰かが叫んだ。
 「あんた、その頭どうしたの?」
 振り返ると、赤い七部袖のセーターから白い腕を覗かせ、グレーのタイトなパンツでスタイルの良さを強調している範子が、大きな瞳を丸くして、口を開けたまま和樹を見ていた。
 「あれ?」和樹は続く言葉も出ない程、久し振りに目にした範子の姿に魅了されていた。
 「でも、あんた坊主が似合うわね。なんか色っぽいわ。顔色は良くなったのね。」
 職業柄か、上から下まで和樹のあちこちに視線を配り、コメントし始めた。セーターと同じ、黒を混ぜたようなくすんだ赤色の口紅を施した、少しとんがった感じのする唇が、忙しく動いていた。そんな様子もまた、和樹には魅力的に映った。

 「あのね、要するに秋一さんに頼まれたの。なんだか分らないけど、和樹が家を出るから、可能だったら面倒見てくれって。あの人に失恋してから、あたしずっとフリーだから、まあ、和樹が家に居てもいいかなって思って。というより、あんたみたいな子が家に居たら、恋人の居ない淋しさがまぎれるもの。和樹って、猫みたいだから。」
 二重のくりくりした瞳を更に大きく開いて、常に笑った口元で言うと、範子はバッグから財布を出して、券売機に入れた。
 「いいわよ、私が払うから。」
 そう言うと、渋谷区の自宅の最寄り駅までの切符を二枚買い、一枚を和樹に手渡した。
 和樹は言葉を失ったままだった。範子に魅了されていたせいもあるが、それ以上に、秋一が密かに進めていた裏工作のせいで、益々あの男への愛情を掻き立てられ、胸の奥で滲み出して来たその感情に、全身が支配されていたからだった。そして、顔の皮膚は弛み、口元が自然と微笑んでいた。

 改札に向かって、前を颯爽と歩いていた範子が振り返った。
 「その代わり、私に新しい恋人が出来たら、同居はお終いよ。そしたらあんたは別のいい飼い主を見つけること、いいわね。」
 きびきびと動く唇が言い放ったその言葉に、和樹は黙って、微笑んだまま頷いた。それから小走りで、範子の後を追い改札に入った。

終わり

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