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コインランドリーのルール

天気予報によると、これからしばらく雨が続くらしい。なるほどそれならばと、コインランドリーに洗濯に出かけることにした。
乾燥も機械で一緒に済ませてしまうので、本当は晴れていようが、雨であろうが、外に干すわけではないので関係ないのだが。まぁ、気分的なものだ。とにかく、コインランドリーに洗濯にでかけた。

ぼくが通うコインランドリーには、乾燥機はたくさん用意してあるのだけれど、洗濯機の数が少ない。さらに、その数少ない洗濯機の中でも、家庭にあるような普通サイズの洗濯機はひとつしかない。あとは、布団が丸ごと洗えるような威圧感のある洗濯機だけだ。

コインランドリーの利用者は家庭で洗えないような、布団、あるいは大量にまとめた洗濯物を洗いにくることが多々あるので、このような偏りのある、種類の設置になっているのだろう。それに対して文句があるわけではない。(もうひとつくらい小さめの洗濯機を置いてくれてもいいのでは……げふん)

ところで、ぼくは、洗濯物が少ない。冬ならまだしも、今の季節なら、なおさら少ない。どれくらい少ないかというと、真夏になれば履くのは下着一枚だけという具合だ。それは嘘だ。
ということで、小さい洗濯機で十分なのだ。値段も数百円違ってくる。一番大きな洗濯機の値段は、小さい洗濯機の値段の倍以上である。

なので、本日も一番小さい洗濯機を求めて、コインランドリーに汚れた下着とetc.を抱え出かけたのだ。

さて、すると先客がいたようだ。

例の一番小さな洗濯機の中には、洗い終わった洗濯物が入っていた。洗濯機は止まっている。つまり洗濯は終了しているということだ。

もしかしたら、知らない人もいるかもしれないので、一応明記しておくと、コインランドリーのシステムとして、洗い上がった洗濯物、あるいは乾燥し終わった洗濯物は、すみやかに機械から取り出すのがルールである。そうすることで次の利用者が洗濯することができる。びったりと機械に張り付いている必要はないが、自分が機械を利用し終えたら、すみやかに次の人が使えるように自分の所有物を除くのがルールであり、マナーである。

さて、例の一番小さな洗濯機は洗濯を終えていたが、なかには洗濯物が入っていた。つまり、利用者が洗濯物をほったらかしにして、どこかにいってしまっているのだ。その洗濯がいつ終わっていたのかは知らない、どのくらいの時間が経っているのかはわからないが、少なくともその時点で周りに利用者と思しき人は見当たらなかった。

ぼくは、その洗濯機が使いたいので、気長に待つことにした。
なーに、ちょっと時間を忘れているだけだろう。そのうち、すぐに戻ってくるさ。「遅れてゴメンなさいね」なんて言って。ぼくは「いえいえ、なんのなんの」と紳士に対応するのさ。ふふふ。

さて、近くの椅子に座って3分が経った。まだこない。まぁもうすぐ来るさ。

それから2分が経った。まだこない。ふむ、どうしたのだろう、遅いなぁ。

さらに、3分が経った。まだこないよ、おいおい。(cv/中尾彬)

それから2分、つまり合わせて10分が経った。どうなってんだ! このやろう!

気長に待つ、なんて言っておいて、ぼくは10分たつとソワソワ、イライラしてきた。普通は洗い上がったら、すぐに取り出すのがルールなんだ。それを10分も。全く、どういう神経をしてるんだ。あぁもう。

こういうときの10分はどうも長く感じてしまうものだ。ぼくは、少しイライラしつつ、まぁ仕方がないと、隣の少し値段は上がる、ひとまわり大きい洗濯機に洗濯物を投げ入れた。
このときの、なんともいえないモヤモヤ。確かに数百円は残念、というか確実にもったいないけれど、それ以上になんだかとても損した気分になってしまった。やれやれ。

洗濯を待つ間、コーヒーを飲もうと、近くのコンビニに行き、そしてすぐにコインランドリーに帰ってきた。計ったわけではないので、わからないが、たぶん3分も経ってないのではないかと思う。

すると、どうだろう! 一番小さな洗濯機の中が空っぽになっているではないか! ガッデム!

おもわず、周りをキョロキョロと見渡した。しかし、店内にはさっきも洗濯物を畳んでいた、お兄さんしかいない。なんてこった。コンビニに行って帰ってきただけのわずかな時間で、ぼくは犯人を見逃したというのか!

すると、そのとき店内に、腰の少し曲がったおばあさんが入って来た。
そのおばあさんは、ゆっくりとした足取りで手押し車を洗濯機の前まで押して、なかからゆっくりとした動きで洗濯物を取り出した。そして、洗濯機の中に放り込む。洗濯物を手押し車から取り出すときに、少し体勢をかがめないといけないので大変そうに見える。

そのとき、ぼくはイライラしていたことが恥ずかしくなった。自分の浅はかさを情けなく思った。

もし、例の一番小さい洗濯機を利用していた先客が、いま目の前にいるような、腰の曲がった、おばあさんだったなら、どうだろう。きっと、イライラなんてしないはずだ。むしろ、心配するかもしれない……。

人は、物事を主観的に捉えてしまいがちである。だから、先客がおばあさんかもしれない、なんて想像にはなかなか至れないのである。

少し想像を膨らませてみようか。

そこには、事情があるかもしれない。
もしかしたら、先客は足の不自由な人かもしれない。子供がたくさんいて手が離せないシングルマザーかもしれない。洗濯を待つ間に事故に遭ってしまったかもしれない、緊急の電話があったのかもしれない。
極端かもしれないが、そこにある事情はどうしたって、わからない。

さらに、ぼくには、『洗濯が終わったら、すみやかに中身を取り出すべきだ』という常識があった。

これはルールであり、間違いではないが、人の価値観や考えは様々である。
「10分くらいなら平気」と考える人もいるだろうし、「洗濯が終わってることに気付いたなら、取り出しておいてくれればいいのに」と思う人もいるかもしれない、逆に「人の洗濯物に触るなんてありえない」と考える人も少なくないはずだ。

つまり、ぼくが、こうあるべきだ、と思っていることは、必ずしも全員に当てはまるわけではない。当たり前のことだけれど。さらに、それがたとえ絶対に正しいと思っていることであったとしても、その常識は全員には当てはまらないのだ。
これはもはや、正しい、正しくない、という次元ではない。
それぞれが正しいと思っているのだから、それはどこまでいっても絶対なのである。

だから、他人は変えられない。
どれだけ、イライラしても不快に感じても、そしてそれを表明したとしても、他人は変えられない。世界は変えられない。

だけど、ぼくは、洗濯物を大変そうに、洗濯機に放り込むおばあさんをみて、イライラはすっと無くなったのだ。つまり、世界は変わった。それも一瞬で。しかし、それは“ぼくが”変わったからである。

他人は変えられない、世界は変えられない。
そのかわり、自分が変われば、世界は変わる。これは、すさまじい気づきだ。

それから、気づいただろうか。ぼくはコンビニからコインランドリーに帰ってきたとき、一番小さな洗濯機が空になっているかどうか、確認しに行ったのだ。別に、もう他の機械で洗濯しているのだから、空になっているかどうかは、関係がないのに。それが、どっちの結果だったとしても嫌な気分になるというのに。

そこにあるのは、ぼくはルールを守っているのに、先客が守らないのはズルい、というもっともらしく聞こえる心の声である。しかし、それは、ぼくが〇〇なのだから、きっと相手も〇〇に違いない、というなんの根拠もない、さらには他人を変えようとする、見ようによっては非常に傲慢な考え方なのだ。

さて、ぼくの洗濯は滞りなく終了した。すみやかに機械から取り出し、乾燥機にうつす。乾燥が終われば、これまたすみやかに取り出し、畳んで、それで終わり。コインランドリーをあとにする。

結局、先客がどんな人だったのかはわからない、3分もしない間にサッと、洗い上がりの少し重量の増した衣類を取り出せるのだ、腰の曲がったおばあさんではないだろう。でも、どんな人で、どんな事情があるのか、なんて誰にもわからないのだ。だったら、ぼくが変わればいい。ぼくが変われば世界が変わるのだ。

数百円の差額で、自分の浅はかさを知り、貴重な教えをもらえたと考えれば、安いもんかな。ね、神様。


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