はみ出した、赤い線
塗り絵がある。
決められた線の中を、あるいは既に描かれた絵の中を、さまざまな色で塗っていく。
広いスペースは大胆に、端っこは線から色がはみ出てしまわぬように、慎重に慎重に。
ここは青で、次はピンク。それから緑に、ここは黄色。最後は赤色、もうすぐ完成。どんな風に仕上がるか楽しみだ。
白い色が、赤い色に変わっていく。
「あっ」
慎重に色を塗っていたつもりだったけれど、勢い余って赤色が黄色の部分に飛び出した。
他の色がきっちりと線の中に収まっているぶん、その赤い線だけがひどくその絵から浮いている。
ぼくは、その塗り絵を大人に見せて回った。
「あら、失敗しちゃったの?」
「あーあ、はみ出ちゃってるじゃないか」
「こりゃ、どうしようもないな」
ぼくが、泣きそうになって、その絵を丸めてしまおうとしたとき、ひとりの大人がこう言った。
「ははっ、おもしろい絵だなぁ」
なんて嫌味なやつだ。ぼくは思わず声を荒げた。
「おもしろい絵だって?わかってるよ、どうみたって失敗さ!」
すると、その大人は不思議そうな顔をしてこう言った。
「失敗だって?どこが失敗なんだい?」
それから、手を大きく広げると、こうも言った。
「こんなに、おもしろいのに!」
納得がいかないぼくは塗り絵をよく見えるように、相手の顔の前に突き出した。
「でも、はみ出てしまったんだよ。ほらこんな風に。赤色が黄色の中に。この赤い線だけが浮いているのさ、こんなにも堂々と」
「そこが、いいのさ!」
大人は身を乗り出すと、こう続けた。
「赤色なんて、強い色さ。その色が、こんなにも堂々と」
大人はクックックと体を揺らした。
「他の色は線の中に、キッチリと収まっているのに、この線ときたら。こんな狭いところに閉じ込めるなと、こんな場所に収まるような色じゃないと。俺はこの線が好きさ。この赤い線が!」
「でも、これは塗り絵だよ。ルールがあるんだ」
「それはそうさ、でもはみ出してはいけないって誰が決めたのさ?」
「誰って、塗り絵だからさ!誰もクソもないよ!」
「なんで君が怒るのさ、俺は君の絵を褒めてるんだぜ」
なんで自分が怒っているのか。他の大人がこの絵を否定したときには、悲しくはなれど、怒りの感情はなかったはずだ。
「そんなの、わかんないよ!」
褒められているのに、そのことが無性に腹がたった。
その大人は、ふっと息を吐くと、ぼくの目の前に滑るように立ち上がった。それから、ぼくの絵の青い部分を指さして、こう聞いた。
「君はここを青い色で塗ってるよな。それはどうしてだい?」
「…どうしてって、ここは海だろ。海は青いじゃないか」
「ふーん、じゃあここは?」
大人は、続けて緑の部分を指さした。
「それは森だよ。森は緑だろ」
「海は青で、森は緑、か」
「そうだよ、そんなの決まってるじゃないか」
「でも俺は、赤い海だって見てみたいし、紫色の森だって見てみたいぜ」
「はぁ?そんなおかしな話があってたまるか」
大人は、ぱちぱちと瞬きを二回すると、顔を歪めて大声で笑った。
「あっはっはっは!そうだよな、そんなおかしな話があるかってな!」
どうやら、頭のおかしな大人のようだ。まったく時間を無駄にしてしまった。この失敗した塗り絵は丸めてゴミ箱に捨てて、それから次こそは線からはみ出してしまわぬように、慎重に慎重に色を塗らなければ。
くるっと大人に背を向けると、ぼくは無言で歩き出した。
「おい、どこへ行くのさ」
「新しくやり直すのさ、これは失敗なんだから」
「その絵はどうするんだ?」
「丸めて捨てるのさ、言っただろう、これは失敗なんだ」
「じゃあさ」
驚いた。大人の声は、ぼくのすぐ耳元から聞こえた。振り向くと、遠い場所にいるはずの大人は、ぼくのすぐ目の前に立っている。「しつこいぞ」と文句のひとつでも言ってやろうと思ったのに、ぼくはただ大人の瞳に吸い付けられた。
「その絵、俺にくれよ」
「え?」
「捨てるんだろ、その絵、俺にくれよ」
「…べ、別にいいけど」
大人は、ぼくから塗り絵を受け取ると、嬉しそうにその絵を眺めた。
「俺はこの赤い線が好きだ」
性懲りも無く、そうつぶやく、その大人に、ぼくはどうしても一言いってやりたくなった。
「言っておくけど、他の大人はみんな、その絵を見て失敗だと言ったのさ。どうしようもないなと、そう言ったのさ」
「そうだろうなぁ」
「その絵は、ルールを守ってないのさ、出来損ないだ」
大人は、顔をあげると、悲しそうな表情を作った。
「塗り絵っていうのはさ、別にそんな、たいそうなルールがあるわけじゃないのさ。まっさらの白い画用紙との違いは、ただ絵を型どった線があるかどうかさ」
大人は、もう一度、ぼくの失敗作に目を落とすと、こう続けた
「誰も、線の中に色を収めてください、なんて頼んじゃいない。海は青く塗ってね、なんて頼んじゃいない。それは、与えられた側が勝手に、そういうものだと、解釈しているだけなんだ」
ぼくは、大人が何を言っているのか理解できなかった。ただぼくが失敗と言ったあの絵を、愛おしそうに見つめるその瞳だけは、嘘偽りのない何かであることは直感でわかった。
「俺は、この赤い線が好きさ」
大人は、もう一度、そうつぶやいた。
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