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新宿駅東口改札前に7時

金曜日の十九時、新宿駅東口改札前は、多くの人でごった返している。
仕事帰り、誰かに追われるように、足早に改札を通り抜けるパンツスーツの女性、これから飲みに繰り出すため、どう考えても通行の邪魔になるような場所でいびつな円を作り、スマホ片手に話しこんでいる大学生の集団、それから何の仕事をしているのか検討もつかない、布生地のキャップを被ったおじさんたち。
一週間を乗り切った開放感を、あるいはその疲労を表情に滲ませた、大勢の人たちが改札を抜けていく。

やっぱり新宿駅、特に東口は嫌いだ。山岸舞は小さなコンビニの脇の壁に、少しもたれるように立ち、人の多さを確認すると、改めてそう思った。

三月も終わり、日が長くなってきたとはいえ、外はもう薄暗くなっているだろう。地下に位置する新宿駅東口の改札前は白い蛍光灯でこうこうと照らされ、時間の感覚を狂わせる。
すでに顔を赤くしたサラリーマンも多く、それではお疲れ様でした、と頭をさげるスーツ姿の男性をこの五分の間に、すでに三人はみた。

十九時。一日を終えた人と、これから一日が始まる人とが、ごちゃ混ぜになる時間帯。それでも人々は器用に、するすると人混みを抜けていく。

舞はスマホの画面を触り、時間を確認した。19:07。当然、智弘からの連絡はまだない。短いため息をつき、スマホの画面を暗くして、先ほどわざわざルミネのトイレに行き、丁寧にほどこしたメイクを軽く確認する。

うん。大丈夫。舞はスマホにうつった自分の目元に言い聞かせた。




前川智弘とは、およそ一年前に出会った。
春に浮き足立った若者は、夜な夜な出会いを求め、食事会という名の合コンを繰り返し開催するものだ。
二十三歳の舞も例にもれず、刺激が欲しいという、なんとも薄っぺらい理由で、友人に誘われるたび、粧し込んで参加していた。
舞は特定の彼氏をつくるつもりはなかった。むしろ、そんな関係性は煩わしいとさえ考えていた。
大した男はいないね、なんて自分たちのことは棚に上げて、仲のいい女友達と二次会で腹の中をさらけ出すことの方がよっぽど大切なことだと、そう考えていた。

しかし、そんなある日、智弘と出会った。
智弘は二十八歳で、小さな広告会社に勤めているといった。
彼は照れ臭そうに、少し寝癖のついた頭の後ろを、合コンの間中、何度もかいていた。

ふたりは話が合った、というより噛み合った、という表現の方が正しいかもしれない。
ふたりの間に流れる空気感は、あまりにも自然で、心地のいいものだった。ふたりは出会うべくして出会ったのだと、本能的に感じ、舞の脳は痺れた。

舞にとって、それは衝撃だった。そしてそれは舞の友人たちにとってもそうであったようで、舞が「ごめん、このあと二人で抜けてもいい?」と手を合わせたとき、彼女たちは心底驚いた顔をしたのだった。
「舞、めずらしいね、そんなに気に入ったの?」と驚く友人に、舞は「気に入った、というより、やっとみつけたの」と意味深に笑ってみせた。

ふたりは、コンビニで買った缶チューハイを片手に、夜の明るい新宿の街をだらだらと歩いた。自然に手をつなぎ、そして指を絡めた。

風がほてった頬を通り過ぎ、舞が「きもちいいね」と呟くと、智弘は「ああ、きもちがいい」と目をつぶり、微笑んだ。

始発までの時間は駅前のカラオケボックスですごした。
お互いが数曲ずつ歌い、しばしの静寂のあと、ちかちかとモニターの画面だけが浮かんでいる薄暗い部屋の中で、ふたりは周りの騒々しさとは対照的に、静かにくちびるを重ねた。



舞ははじめての感覚に夢中になった。
新宿駅の東口で待ち合わせて、何度も食事にでかけた。ふたりのどの瞬間を切り取っても、それが正しいあるべき姿であると思えた。

智弘の家は新宿駅から電車を乗り継ぎ、十五分の場所に位置していた。都心の部屋らしく、恐ろしく狭く、全てがコンパクトに収まっていたが、舞はそんなこと一切気にならなかった。むしろ、その狭さゆえに智弘のことをより近くに感じることができる、とさえ思った。
ソファに並んで座り、舞が、ことんと頭を智弘の肩にもたれると、智弘の手は舞の頭を撫で、髪を梳いた。
「ねぇ、トモ?」と甘えた声を出せば、「うん?」と優しい、掠れた声で答え、それから柔らかい微笑みをくれた。舞はそんな答えが欲しくて、なんども名前を呼んだ。

「ねぇ、トモ?」
「うん? どうした?」

そうして、やはり智弘は舞の髪を耳元から丁寧に梳いた。

全てが、正しいと感じた。これまで遊んできた男たちは一体なんだったのか。智弘は舞に、安らぎと、喜びと、それからとろけるような愛をくれた。

少し濃いめの眉毛に、締まった太もも、指でつまめるお腹に、形のいい唇、全体的にがっしりしてるくせに、細く長い指。
髪に触れる指先、私の腰を支える手のひら、はにかむ笑顔に、寝癖のついた髪、優しく繊細な息遣いに、私を愛するときの真剣で熱をもった瞳。

それから声。あの智弘の低く優しい、少し掠れた、あの声——

「すみません」

いつのまにか、過去をたどっていた舞を、男性の声が現実に呼び戻した。同時に改札前の騒がしい雑踏が動き出す。新宿駅には人が多すぎる。

「はい、なんでしょう」

声の主は当然、智弘ではなかった。少しうつむいていた舞を覗き込むように、ひとりの男性が目の前に立っていた。

「お姉さん、ひとり?」
「はあ」

にやにやと口元を曲げた男性の少し後ろには、これまた口元をにやけさせた男性が物色するような視線を舞に向けている。
舞はすぐに状況を理解した。どうして、男というのは、こうなのだろう。

「待ち合わせなんで」

目をあわせず、できるだけ冷たく答える。

「え、誰? 友達? じつは俺ら二人なんだけどさ、これから飲みに行かない?」
「結構です」
「いいじゃん、行こうよ。友達って女の子? そうだったら丁度いいんだけど、一緒に待ってあげるよ」

なかなかしつこい男だ。礼儀をわきまえた男なら、はじめに待ち合わせと答えた声のトーンで引き下がるものだ。絶対にモテない。いったい何が丁度いい、というのか。

「いい加減にしてください、迷惑です」
「え、いいじゃん、いいじゃん。友達もう着くの? 何分着?」

いつも思うのだが、待ち合わせをしている女をナンパして、どうしようというのか。これから誰かが来るのだから、その相手とどこかに行くに決まっているというのに。
待ち合わせ相手も合流して、みんなで突然、意気投合して、そのまま飲みに行く、とでも思っているのだろうか。おめでたい人だ、全く。
ああ、でもきっとこんなつまらない男にでも、ほいほい付いていってしまう馬鹿な女どもがいるのだろう。そういう女がこういう、くだらない男を生み出すのだ。本当に勘弁してほしい。本当に。

「しつこいですよ」
「え、なんでよ。もしかして待ち合わせしてるのって彼氏?」

後ろの男性が、「おい、もう行こうぜ」と諭しているのもよそに、目の前の男はしつこく、舞の顔を覗き込んでくる。

「ねぇ、どうなの?」

しつこい。舞が黙っていても、男は執拗に問いかける。

「ねぇってば、彼氏まってんの?」
「……」
「ねぇ」
「彼氏です」

舞の感情のない声に、男は面食らったように少し体を引いた。

「彼氏?」
「はい、待ち合わせしてるのは——彼氏です」

男は、小さく息を吐くと舌打ちをした。「だったら初めからそう言えよな」と唾を吐くようにいうと、ようやく背を向けた。

目元に熱を感じ、感情を抑えるために、あわてて鼻から息を吸った。こんなことで泣いてどうする。舞は息を細く吐きながら、自分に言い聞かせた。

智弘は私の彼氏ではない。

手を繋いで、キスをして、セックスもする。温泉にも行ったし、千葉のテーマパークにも出かけた。一泊だったけど旅行もしたし、智弘の家に連泊もする。いろんなことを、ふたりでした。ふたりで長い時間を共に過ごした。

でも、それでも智弘は私の彼氏では、ない。






智弘は口数の少ない人だ。
落ち着いた表情で、私の話をゆっくりと聞いてくれる人。

「ねぇ、好き」

舞が溢れた気持ちを口にすると、智弘はやさしく微笑み、舞の身体を抱きしめた。人と人が抱き合うだけで、こんなにも気持ちが満たされるものなのかと、舞は毎回、そのあまりの相応しさに感動した。
智弘は舞の両肩をやさしく手のひらで包むと、柔らかさと暖かさが込められた瞳で、じっと探るように舞をみつめる。そうして、満足そうに目を細めると頭を撫で、唇を交わすのだ。
あの目。舞の心は、智弘の情熱で、繊細さで、いっぱいに満たされ、ぬくもりをふんだんに含んだ快感は脳を痺れさせ、そして全身を巡る。
たまに、言葉がほしい、と思うこともあったが、その一連の行為を愛をもってされると、やっぱり言葉なんかいらないと、舞は思い直すのであった。

心が繋がっていると思った。
だから、智弘が言葉にしないことを、舞はそこまで気に留めていなかった。




智弘と出会ってから三ヶ月が経った頃だろうか、いつものように食事に出かけ、ほろ酔いで智弘の自宅に手を繋いで帰った。舞が洗面台にむかうと、見慣れない小さなプラスチックのボトルをみつけた。旅行に持っていくような、シャンプーとか化粧水とかを詰めていく、そんなやつ。

「ねーえ、トモ。このボトルなーあに?」

舞は、ソファに腰掛け、テレビを眺める智弘の背中に甘えた声をかけた。

「ん?ああ、メイク落としだな。忘れて帰ったんだろう」

智弘は首だけ振り返ると、明日は雨らしいよ、と天気の話をするように、そういった。

「えっ、メイク落としって誰の?」
「このまえ飲みに行った子の」

智弘は今度は、こっちを振り向かなかった。だが、それは疾しい何かを誤魔化すのではなく、ほんとうに取るに足らない出来事だから、振り向くまでもないという風の口調であった。智弘はテレビの中のタレントが大声を出すのに合わせて、小さく笑った。

「えっ、えっ、どういうこと」

舞の胸はワンテンポ遅れて圧迫感を感じた。体がこわばり、内臓が少し上がった気がした。今起きている出来事と智弘の様子が噛み合っていない。深く息ができない。喉は言葉で詰まる。プラスチックのボトルには、まだたっぷりと液体が入っていた。

「このまえ飲みに行った子が、泊まっていったんだよ」
「どういう……。なんで?」
「なんでって、終電ももうなかったし、お酒も飲んでたし」

智弘は、まったく、いつもと変わらない様子だった。なに一つ動揺していない。それどころか、狼狽える舞をみて、心配そうに声をかける。

「マイ?」

その声は、優しく、そして掠れていた。

「わたしたちって……」

舞はそこで、言葉を切った。怖くなった、返ってくる言葉が。
智弘は立ち上がると、もう一度、舞の名を呼んだ。

「マイ」

智弘の瞳は相変わらず、柔らかく、暖かく、そしてどこまでも優しかった。口元には微笑みを浮かべ、舞を抱きしめようと手を広げた。
智弘に一切の動揺はみられなかった。おびえる仔犬を安心させるように、敵意のない目で智弘は舞をみつめた。

「今日はやっぱり帰るね」

舞は返事を待たずに、荷物を掴むと、逃げるように部屋を出た。

「帰るって、もう電車ないでしょ」
「タクシーで帰るから、ごめんね、ありがと」

玄関先まで出てきた智弘が、舞の背中に声をかけたが、舞は止まらなかった。自分でもわからないが、なぜか謝罪と感謝の言葉を口にすると、前だけを向いて、足早に歩いた。

智弘は追いかけては来なかった。






「他に付き合ってる人がいるかもしれないの」
あまりにも塞ぎ込んでいたのだろう、舞の様子を見かねた友人が心配して、相談に乗ってくれた。
しばらく前までは、「ふたりは出会うべくして出会ったの。こんなに人を好きになったのは初めてなの」と、聞かれてもないのに惚気ていたというのに。友人たちは若干呆れつつも、応援する、と苦笑してくれていた。

「それって、浮気ってこと?」
「うん、ううん。わかんない。そもそも付き合ってたのかどうか……」
「なにそれ」
「付き合って、とは言われてない」

舞は自分で話しながら、自信がなくなってきた。あれだけ、正しく確実だと思っていた関係は、言葉のひとつも交わしていない、空っぽの見せかけだったのではないかと。
付き合って、とは言われてない。そうだ、だが、実際のところ舞は、好き、という言葉すら智弘から一度も言われてはいなかった。
愛をたくさん、もらっていると思っていた。今まで舞の心を暖かく、ゆっくりと痺れさせていた、智弘の愛は、あの日一瞬で揺らいだ。今まではっきりと感じ取れていたものが、急に形をなくし、そもそも本当に最初から存在していたのかどうかさえ、舞にはもうわからなくなっていた。

「なにそれ、そのくせ、ヤルことはやってんでしょ。最低だね」

友人が語気を強くする。
最低という言葉。智弘の顔が浮かぶ。照れ臭そうに笑い、頭の後ろをかくその姿には、最低という言葉があまりにも似合わなかった。

「絶対、別れた方がいいよ、舞。そういう男には他にも女がいるんだから」
「うん、ありがとう」

友人には申し訳ないが、それは違う、と舞は思った。別れるとか、そういう問題ではない、と思った。智弘がくれるあの愛に形があるかどうかは、もう問題ではなかった。舞は知ってしまったのだ。知る前の状態に戻ることはできない。ならば、進むか、あるいは知らないふりをするか、そのいずれかしか選択肢はないように思えた。出会わなければよかった。ありきたりな言葉で、舞はやっとみつけた出会いを呪った。



部屋を飛び出してから、一週間のあいだ、舞は智弘の連絡を無視し続けた。とは言っても、その間に智弘から送られて来たメッセージは、たったの三通だけだった。

『マイ、大丈夫?』

絵文字もスタンプもない、簡素なそのメッセージは、舞が部屋を飛び出した直後と、その二日後、それからさらにその二日後に届いた。それ以外はなにもなかった。言い訳のメッセージもなかったし、電話もなかった。
さらに、二日後にメッセージが届くかと思っていたのだが、智弘からの連絡はなかった。電波の調子でも悪いのかと、スマホを部屋で一人振っていると、友人とのグループラインにスタンプが届いた。
もう一日まてば、もしかしたら智弘から連絡がくるかもしれない。簡素なメッセージかもしれない、それでも。しかし、舞の中では期待よりも不安の方が大きかった。意思とは裏腹に、指はスマホの画面を叩いた。

『ごはん、いこうよ』

いつも文の最後につけていた絵文字は打たなかった。

『いいね、いつがいい?』

心配していた返信は、五分と経たず返ってきた。

『明日』

舞は、どうしていいかわからなくなっていた。

『じゃあ、新宿駅東口改札前に7時で』

智弘からのメッセージは、いつもと変わらなかった。


一週間ぶりのデートは滞りなく進んだ。はじめこそ、前回の動揺を思い出し、どう振舞っていいかわからず、固くなっていた舞だったが、お酒も入り、あまりにも普段通りの智弘の様子に引きづられるように、ほぐれていった。
食事をして、ワインを飲み、散歩をして、手を繋いだ。地下のバーでジントニックを飲んで、チーズをつまみ、こっそりと唇を重ねて、それから電車にゆられ、手を絡め、見つめ合い、セックスをした。
舞は、進むと決めたわけではなかったが、それでも、もう戻れないことだけはわかった。一週間前にみつけた小さなプラスチックのボトルは、戸棚にしまわれるでもなく、無造作に洗面台に置いてあった。中身の液体が少し減ってる、舞は冷静にそう思った。







舞はもう一度、スマホの画面を確認した。19:17。いつものことだ。智弘はいつも七時を待ち合わせに指定するくせに、だいたい十五分から二十分は遅れてくる。
だから、舞も遅れて来てもいいようなものだが、どうしても気づけば、五分前には改札前についているのだ。それも、ルミネのトイレでメイクを気合を入れて施したあとで。

新宿駅は人が多い。ここに立ってから十五分ほど経っているが、人の流れが止まる気配はない。みな他人に無関心な表情でそれぞれの役割を果たしているように見える。

智弘と出会ってから約一年、あのボトルをみつけてから、ゆうに半年以上がすぎた。智弘とはかなりのペースで会っている。会えば毎回、智弘の部屋にいった。舞がみつけた、小さなプラスチックのボトルは、日によって、妙に甘い匂いのシャンプーや、明らかに長い髪の毛、トイレに置かれた生理用品に姿を変えた。それらが、ひとりの女のものなのかどうかさえ、舞にはわからなかったし、それを智弘に問いただそうとも思わなかった。マーキングのように残された痕跡を見つけるたび、胸がズキンと痛むのがわかっているのに、どうしても舞は探さずにはいられなかった。


そのくせ智弘は舞を丁寧に愛した。視線が、仕草が、ああ、やっぱりこの愛は本物だったと、舞を安心させた。だから、何度も名前を呼んだ。

「トモ」
「うん?」

智弘の手が好きだった。愛おしそうに髪を梳かれると、髪にも神経は通っているのだと思った。

「ねぇ、トモ」

その先に、溢れそうになる言葉は、決して口にしなかった。
言わない、と決めていたわけではない。むしろ、確認したいと渇望していた。しかし、そうしてしまうと壊れてしまうと、失ってしまうと思うと、絶対に口にしてはいけないと、強く誓うのだった。
舞を包み込んでいた愛は、朝、電車のホームで智弘と別れると、とたんに形を不安定にした。かけだして、智弘の背中に思い切り抱きつきたいと思った。あるいは、「いいかげんにして!」と怒鳴りつけてやりたいとも思った。どうしていいのか、わからなかった。そういえば、この一年、泣いてないな、と舞はふと思った。


一年が経った。今日こそは、確かめよう。舞は心に決める。智弘が現れるまでの、毎回の儀式のようなものだ。19:21。いつもより少し遅れているが、もうすぐ来る時間だ。舞はもう一度、スマホの黒い画面を鏡代わりに前髪を確認した。
すると、スマホが震え、画面には『トモ』の文字が表示される。舞は短く息を吐き、ボタンをスライドさせた。

「もしもし」
「マイ?」

ああ、そうだ。だから新宿駅は嫌いなのだ。人混みの中で、ふたりだけの回線が繋がる。

「うん」
「ごめん、いま電車おりた」

相変わらず、新宿駅東口は人が多い。がやがやと、わいわいと、雑踏は音を含む。その音の中で、舞の耳には智弘の声だけが響く。

「うん、お疲れ」
「ああ、いつものところにいる?」

あまりの人混みは、人を不安にさせ、孤独にさせる。たくさんの人が目の前を通り過ぎる。新宿駅東口改札前の十九時は人が多すぎる。

「うん」
「わかった」

みつけた。
改札の向こう側に、こちらに向かってくる智弘の姿をみつけた。智弘はまだ、私に気づいていない。耳にスマホをあてて、特段急ぐ風もなく、一歩一歩あるいてくる。

「トモ」
「うん?」

目元が熱くなるのがわかった。
ふたりは、これから終わるのか、それとも始まるのか、それさえわかっていない。

「ねぇ、トモ」

智弘が舞を視線で捉えた。柔らかく微笑み、小さく手をあげる。

「マイ」

その声はとても優しく、それからやっぱり少し掠れていた。


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