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 …あまり強い言葉を遣うなよ。強く見えるぞ。

 本屋に必ずといっていいほど、設置されている区画がある。それはビジネス書のコーナーだ。
 しかも、最近は新刊コーナーのすぐ隣にかなりのスペースがあったりする。やはり世間の関心がそれだけ高いということなのだろう。
『成功したければ、〇〇をしろ!』
『失敗しない仕事術!』
『最大化せよ!』
 脳を揺さぶるような大きな見出しが並ぶ。

 これは完全にぼく個人の勝手なイメージでしかないのだけど、こういう強い言葉を聞くと学校の教室を思い浮かべる。
 中学、いや高校かもしれない。前方には黒板があって、教卓がある。ほこりっぽい教室の中、ジャージを着た怖い顔の先生が教卓に手をついて立っている。ぼくはその教室のど真ん中の席に座っていて、周りを見渡しても他に机はない。ぼくの座る席だけが真ん中にポツンと置いてあるのだ。つまり、教室の中はぼくと先生の1対1。ピリピリとした緊張感がある。
 先生が大きな声で「〇〇をしろ!」と張り上げる。ぼくは驚いて、助けを求めるように周りを見渡す。でも、当然誰もいない。
 先生がもう一度、大声をあげる。今度はもっている竹の一メートル定規で黒板をバンと叩きながら。
「成功したければ、〇〇をしろ!!」
「はいっ!!」
 ぼくはびっくりして大きな声で返事をする。
「〇〇をしろ!」
「はい!」
「〇〇をしろ!」
「はい!」
 2人の大声が教室に響き渡るのだ。

 ぼくは慌てて、ビジネス書のコーナーを離れる。雑誌コーナーを横目で見ながら、奥のほうに入っていく。そうして、小説のコーナーにたどりつくと、ほっとするのだ。そのまま哲学や心理学のコーナーにいって、『ヒトはなぜ生きるのか』、なんてタイトルの本をみつけると、ようやく落ち着いて、それで本の世界と現実の世界のはざまにゆっくりと落ちていくのだ。

 さっきのぼくのイメージを聞いたら、ぼくが強い言葉を否定してるというか、嫌っているようにも聞こえるかもしれない。でも、そういうわけでもない。場面によっては有用なこともあるし、ぼくも使うことがある。

 たとえば、大事な受験の直前。
「絶対大丈夫! 成功する! 間違いない!」と自分に言い聞かせたり。
 好きな人に告白すると決意したとき。
「自分の全部をぶつけるんだ! 負けんな!」と鼓舞したり。
 自分の気分を盛り上げて、やる気をだすのには大いに役立つ。

 冒頭に書いたようなタイトルのビジネス書も、実際に手に取って読んでみるとわかるが、とてもいいことが書いてある。ビジネスの世界にかぎらず、生きていく上で参考になることも多い。
 読んでいると、「よっしゃ! やったるぞ!」とやる気が湧き上がってくる。メラメラと炎が燃えさかる。
 強い言葉には強い効果があるのだ。

 だが、問題はそのあとだ。
 強い言葉は自分の気持ちを瞬時に高めてくれる。そしてその勢いのままエンジン全開で走り出す。だけど、それはずっと長続きするものでもないのだ。

 そのまま「うおー!!」と地平線のかなたまで駆け抜けられる人ならいいが、そうではない、ぼくみたいな人間は、途中で「ちょっとまってね。ちょっと休憩」といってペースを落とすと、突然、さっきまで自分の気持ちを高めてくれていた言葉が重荷になっていることに気づくのだ。

「成功したければ、〇〇をしろ! ほら、はやく〇〇しろよ! なにサボってんだこらっ!! ほらっ、はやく! はやく!!」

 後ろから何か恐ろしいものに追い立てられているような気分にさせられる。「ひいぃぃ!」と恐怖で足を回そうとするものの、もうエンジンはカスカスだ。足がもつれ、つまずき、その場にだらしなく倒れ込む。
 横をたくさんの人がエンジン全開で駆け抜けていく。そしてどこかからか聞こえてくるのだ。
「あーあ」
 もうぼくは立ち上がれない。

 強い言葉にはものすごい力がある。
 それこそ誇張なしで、人を変えてしまう力がある。
 しかし、注意が必要だ。言葉は受け取る側の状態によって意味合いが大きく変わってしまうのだ。
 自分を鼓舞してくれていた言葉が、自分を縛る枷になることだってある。
 特に文字情報だとそれが顕著だ。音声や映像だと、表情や声色でなんとなくニュアンスが伝わる部分もあるが、字面だけだとそうはいかない。
 文脈である程度の意味合いはわかるが、その意味をどう捉えるかは、受け取る側に大きく委ねられている。
 まぁ、それが文章の面白いところでもあるのだけど。

 逆に、優しく寄り添うような言葉、というのもあるとぼくは思っている。

 そういう言葉は一見、何を言っているかわからない、というか、はっきりしない、というか。
「〇〇っていいんじゃないかなぁ~。ねぇ、どう思う?」という具合のゆるゆるの言葉だ。

 イメージするなら、川沿いで2人が体育座りで並んで座っている感じ。
 2人とも川の方をみていて、視線は合わない。
「〇〇とかっていいと思うんだよね~」
「ふ~ん」
 なんなら話は半分に聞きながら、地面の芝生とかをいじいじしてたりするかもしれない。
 あ、ここにこの言葉、ちょっと置いておくんで、もし気になったら聞いてみてくださいね、じゃあぼくはこれで、みたいな感じ。

 効果はうすい。
 特にやる気も湧いてこないし、人を劇的に変えてしまうような力もない。
 でも、思い返してみれば、ぼくはこういうなんてことのない言葉に救われることが多かった。
 言葉を聞いたその瞬間には「ふ~ん」くらいにしか思わなくても、ふとしたときに思い出して、ああ、なんかそうかも、となんだか胸があったかくなる感覚がある。

 強い言葉は目立つ。その性質上、アグレッシブで声の大きい人が使う場合が多いからだ。命令口調だったり、断定口調だったりする。ちくちくと胸が痛むことがある。全部が全部そうだとは言わないが、強い言葉には強い効果があるぶん、そういう副作用がある。もちろん、人を傷つけるような強い言葉は論外だ。

 では、そんな強い言葉の反対は弱い言葉、ということだろうか。
 ぼくはそうは思わない。
 強い言葉の反対は、優しくて寄り添ってくれるような、そんな言葉だ。そして、そんな言葉には、強い言葉には負けない、不思議な力がある。ぼくはそういう言葉を使うひとでありたい。そう思っている。

 ……と、まぁそんなような。
 なにを言ってるのか、はたまた何も言っていないのか。そんなような文章をここに置いておくことにするよ。
 じゃあぼくはあの川で水切りしてるから。
 君も気が向いたらおいでよ、一緒にやろう。
 つるつるで平らな最高の石を一緒に探そう。

※文中にでてきた本のタイトルはあくまでもイメージであり、実在の本とは一切関係ありません
 

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