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アスファルトにできた黒い染みが蒸発して見えなくなるまでの、その間

 暑い日が続く。
 容赦無く降り注ぐ強い日差しとバカみたいに巨大な雲は、今が、まさに夏なのだ、と否応なしに意識させる。
 気づけば季節というのは過ぎ去っているもので(去年の夏は、こんなにしっかりと夏を意識していたかしら?)と思ったりもする。そういう意味では『今の瞬間を意識できている!』つまり『今この瞬間を生きてる!』みたいな耳障りのいい、人生論を実践できている、ということなのか、とも思うけど、でもやっぱり来年も同じことをバカみたいに考えているのだろう。そして、そうであるならば、ただ僕は去年を忘れて、それを繰り返しているだけなのだ、と思い直すのである。

 さて、暑い日が続く。
 僕は友人との待ち合わせの場所に向かっていた。 
 外は立っているだけでも、じわりと汗がにじむほどだ。少し歩こうものなら、頭皮を汗のすじが流れ、ぽたぽたと顎をつたう。脇周りなんて、とんでもなくて、黒いTシャツでさえ、大きな染みができているのが分かるのだから、これがグレーのTシャツだったら大惨事である。手をあげて袖の部分でこめかみの汗を拭くついでに、さりげなく脇の匂いを確認する。酸っぱくはないかな。自分ではそう思っている。
 あまりの暑さに耐えかねてコンビニに一時避難。ガンガンに効いた冷房が一気に僕の汗を体内に押し戻す。しかし、気持ちが良いのは少しの間で、すでに体の外に排出された汗は、冷房によって冷やされ脇の汗染みは不快感をさらに高めた。
 百円のアイスコーヒーを買い、そそくさと店内を後にして、再び待ち合わせ場所へと足を進める。

 待ち合わせ場所に先に到着したのは、僕だった。これは自分で声を大にして言うことではないが、非常に珍しいことである。僕はだいたい待ち合わせ時間に十分程度遅れてしまう。(ごめんなさい)
 近くにはベンチがあったが、かんかん照りの日向の中にあった。周りにいる人たちは皆、建物の影に寄り掛かるように立っている。僕は少し迷ったが、ベンチに座ってみることにした。

 暑い。わかっていたことだが。
 じりじり、という擬音がピッタリな日差し。日焼けというのは、マイルドな火傷なのだと、聞いたことがある。つまり、僕の半袖から伸びた貧相なこの腕は、じりじりと、まさにいま火傷を負っているのである。「暑い」と「熱い」を間違えたとしても、それはもはや間違いではないよ、と声を大にして叫びたくなった。
 アイスコーヒーのカップを持つ左手は、もはや、びしょびしょに濡れている。コーヒーは氷が溶けて、とても薄いコーヒーになり、カップを伝う水滴は重力に耐えきれず、次々とアスファルトの地面に黒い染みを作る。
 もともと黒いアスファルトでも、濡れたら、もっと黒くなるんだよな。
 そんな、当たり前のことを改めて思い、それから雨の匂いを思い出そうとした。

「おまたせ」
 友人が涼しい顔をして、向かいからやってきた。それからこう続けた。
「なんで、わざわざこんな暑いところで待ってんの?」
 友人は僕の隣に腰掛けると、ふぅ、と息をついた。
「『暑い』と『熱い』を間違えても、それはもはや間違いじゃないよな」
 僕が返事の代わりに、指で漢字の説明をしながらそう言うと、友人は、ふふふ、と笑って「そうだな」といった。
 僕はこいつのこういうところが好きだ。
 二人同時に立ち上がり、歩き出す。ちらっと振り返ると、さっきアイスコーヒーのカップからこぼれた水滴が作った黒い染みは、蒸発して、すっかりなくなっていた。それはもう見事に消えていて、その染みが、先ほど本当にあったのかさえ疑わしいほどだった。

 友人と会うのは久しぶりで、前回会った時からおよそ一年が経過していた。
 とりあえず涼しい場所を求め、ファミレスに入り、お互いの近況を報告しあった。特別な変化はないが、確実に月日は経ち、僕たちはひとつ歳をとった。
「そういえば」
 話に区切りがつき、僕がドリンクバーのコーラをずるずると、母親がいれば、たしなめられるような飲み方をしていると、友人が話し出した。
「北海道にこの前行ってきたよ」
「へぇ、そうなんだ」
 友人には申し訳ないが、その話題には興味をそそられなかった。それよりもコップの中のコーラのエキスを限りなくギリギリまで吸い尽くすことに集中していた。
「反応薄いな。前に北海道行ってみたいって言ってたじゃん」
 友人は苦笑した。
 はて?
 僕には、そんなことを言った記憶は一切なかった。そんなことを言った覚えはない、とはっきり言うと、確かに前回会った時に、そう言っていたのだという。しかも、軽く「行ってみたいなぁ〜」という感じではなく、割と熱量をもって話していた、というのだから驚いた。
「そうか、一年前の僕は北海道に行ってみたいと思っていたのか」
 口に出して、そう言うと、その事実は思ったよりもズシンと僕の中に残った。一年前の僕は、北海道に行きたい、と思っていたのに、今の僕は、北海道に行きたいと思っていない。いや、正確には、北海道に行きたいと思っていない、わけではなく、そんなことを思っていたという事実すら忘れて失くなっているのだ。これは怖い事だと、僕は思った。
 だから、ぽろっと「怖いな」と呟いた。

 僕たちは一日に何千、何万、いやもっと膨大な数の事柄を考える。そして、それらのほとんとは特に意識されることもなく、忘れられていく。
 今回の北海道の話だって、たまたま友人に話していたから、北海道に行きたいと考えていた事実があった、という事実を思い出せただけである。もし、友人に話をしていなかったら、北海道に行きたいという確かに存在したはずの考えは、すっかり忘れ去られ、そしてそれはつまり、存在しなかったことと同義になる。これは、とても怖い事である。考えがここまで到達したとき、背筋が凍った。
 あれがやりたい、これがやりたい。こうしたい、これが欲しい。行ってみたい、見てみたい。こうなりたい、こう生きたい。たとえ、どれほどの熱量をもって考え、胸を熱くしたとしても、それらは自分でも気づかない内に存在すら失くなってしまうのか。
 この一年で、僕は一体どれだけのものを失くしてしまったのだろうか。
 失くしたものを覚えているわけでも、失くした事実を覚えているわけでもないので、悲しいわけではない。ただ、気づかない内に大切な何かを失くしてしまっているのかもしれない、という可能性は、僕を言いようのない恐怖に陥れた。

 僕は、昼間のアスファルトの染みを思い出した。
 点々と落ちる水滴は、アスファルトを濡らし、黒い染みを作る。より濃くなった黒で、その染みを確かに、そこに在ると、認識することができる。
 暑い日だ。日差しは容赦無く降り注ぐ。腕は軽く火傷を負うほどだ。
 ふと、前方に目をやって、それから地面に視線を戻すと、黒い染みが失くなっていた。確かに在ったのは、覚えているが、どこにどのような形で、どのくらいの大きさで在ったのかは、もうわからない。その一瞬で。そして、数時間後にはその染みがあったことすら忘れてしまう。雨が降れば地面一面が染みとなり、かつてそこに在った、ちっぽけな染みの存在など、誰も覚えてやしない。

 考えが頭を巡って、巡って、ずんずんと僕の気分を憂鬱にした。
 ひとりで考え込む僕を前に、友人は、ぼりぼり、と氷を音をたてて食べる。
「北海道、よかったよ」
 友人は言う。
「いいところだった?」
「うん、いいところだった」
 僕の視線は、手元にあるコップに向けられている。さっき吸い尽くしたはずのコーラは溶けた氷をわずかに濁らせていた。
「お土産もあるし」
友人は続けた。
「北海道の話もしてやる。そしたらお前も、また改めて北海道に行きたくなるかもしれないだろ?」
 僕は顔をあげて、友人の顔をみた。
 確かに失ったはずの、そしてその失ったことにすら気づけないはずの、北海道に行きたいと思っていたという事実を、こいつは掘り起こしてくれたのだ。僕は不思議な感覚を覚えた。僕の思いを、僕が忘れて、それを他人である友人から、時を経て渡されたのである。
 友人は再び、氷を口に含んだ。
 ぼりぼり。ずるずる。先ほど感じた、言いようのない恐怖は、なんだか少し薄まったような気がした。
「ちょっと、飲み物とってくるよ」
 このコップにコーラを再び入れるのだ。今度こそ、最後の一滴までコーラのエキスを吸い取るのだ。でもきっと、氷が溶ければ、わずかに濁るのだろう。
「うん、わかった」
 一瞬のうちに、巡った、僕の考えを、目の前に座るこいつは、知らないのだ。でも確かに、僕の思いを、掘り起こして、そこに染みは確かに在ったのだと、気づかせてくれた。
 地上に位置するこのファミレスの中からは、外を歩く人が見て取れる。皆、暑そうに顔をしかめたり、汗を拭ったりしている。
 夏。
 何をしようか、どこに行こうか。
 何がしたい、何をしたい。
 今日このあと、そのことを友人に話そうと思った。
 暑い日が続く。
 僕はアスファルトにできた黒い染みを確かに思い出していた。
 

 


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