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ワシは偉い



部長はいつもの少し大きめのスーツを着込み、のそのそと、その体の大きさにふさわしい振る舞いで歩いてきた。手を体の後ろで組み、必要以上に胸を張っているものだから、ワイシャツの胸ではなく、お腹の部分が膨らんで、シワがよっている。

「部長、おつかれさまです」
「うむ」

ぼくが丁寧に頭を下げると、部長は軽くうなずいた。

「では、本日もご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします」
「うむ、ワシは偉い」

いつものように、お決まりのセリフをいうと、はじまりの合図だ。ぼくは今日のリサーチの第一候補を大きなスクリーンに映し出し、部長に示した。

「では、本日の一人目はこの方です。我が社の取引先である、S社の社長さんの、山口社長です。事務の女性と楽しそうに談笑している様子からも伺えるように、山口社長は社員から非常に慕われており、社風としましても、風通しがよく、社員と社長との距離が近いと評判です」

山口社長には、ぼくも一度だけお会いしたことがある。新入社員である、ぼくに対しても、非常に気さくに話しかけてくださり、とても雰囲気の柔らかい方であった。

「部長、いかがでしょうか」

部長の方を振り向くと、部長はにやにやと口元を歪めていた。

「はっ、誰かと思えば、山口社長じゃないか。君も知っているだろう、彼のところは我が社の下請けだ。ワシらが出向けば、ペコペコと頭を下げる、媚びへつらうことしか能がないやつではないか」
「では、部長、でよろしいですか」
「当然だ、ワシの方が偉い」
「かしこまりました」

ぼくは、バインダーに挟まれた資料の、山口社長の横の空白に、赤いバツの印をつけた。

「部長、さすがです。相手が社長という役職であっても、部長の方が偉いのですね」
「当然だ、規模がちがうだろう、会社の規模が。困るよ、こんなのと比べてもらっては」
「失礼いたしました、次はこの方です」

続いてスクリーンに映し出されたのは、若い青年であった。帽子を目深に被り、黙々と仕事をこなしている様子が見てとれる。

「ええっと、二人目はこの方です。先程のS社の新入社員の方のようですね。名前は佐藤充、25歳ですね。非常に真面目な青年で、口数はすくないものの、仕事に取り組む姿勢は同僚からの評価も高いようです。実家の母親に毎月仕送りもしていて、親孝行者でもあるようです。それから…」
「君はバカか!」

部長は唾を飛ばし、いつから吸っていたのか、火のついたタバコを床に叩きつけると、執拗に汚れた革靴で踏みしめた。

「ワシはS社の社長よりも偉いんだ!そこのゴミみたいな社員が、ワシよりも偉いはずがないだろう!」

興奮して、カサカサの唇の端から泡がこぼれている。

「たいへん申し訳ありません、部長にお見せする必要もございませんでした」
「困るよ、新人だからって、限度があるよ、君」
「本当に申し訳ありませんでした」

もう一度、深々と頭を下げると、腹の虫が収まったのか、部長は新しいタバコに火をつけた。

「もう、疲れたよ君、早く終わらせてくれないか」
「はい、次の候補者で本日は最後です」

素早く佐藤充の横に赤いバツをつけると、第三候補である我が社の社長がスクリーンに映しだされた。

「本日最後の方は我が社の社長の松林です」
「…社長じゃないか」
「はい、社長です」

部長は、はー、と長いため息を吐き出すと、諭すように口を開いた。

「あのね、君。社長だぞ。ワシよりも偉いに決まっているだろう」
「はあ、そういうものですか」
「君ね、この仕事向いてないよ」

部長は汚い咳をついた。

「申し訳ありません」
「全く、無駄な仕事を増やして」

部長が背を向けて、のそのそと歩き出したとき、スクリーンにある女性が映し出された。ひどく汗をかき、苦しそうに表情をゆがめている。音声こそ聞こえないが、おおきく開かれた口と、首に走る無数の筋から、その女性が強く叫んでいるのがわかる。

「…これは」
「頭の悪そうな女だ」

いつの間にか部長は、ぼくの横に立ち、スクリーンを覗き込んでいた。

「ほら、みてみろ。出産だよ」

部長のいう通り、女性がいる場所は、どこかの病院の一室のようだった。マスクをして全身に青い布を身につけた医師が、女性の足の間に潜り込んでいる。

「旦那がいないじゃないか」

部長は、どこか嬉しそうに、そういった。スクリーンの青白い光に照らされた部長の顔の毛穴は開き切っている。

「こういう女は、どうせ、どこの誰かもわからない男に孕まされて、それで何を勘違いしたのか、この子は私が守るとかなんだとか言って、無責任に子供を産むのさ」

産まれた。
女性はこれ以上ないくらいに上を向いて、何度も胸を上下させた。こちら側は無音だが、病室内にほんの一瞬の音の隙間が生まれ、それが赤ん坊の第一声で埋められていったのがわかる。それは医師の表情でも、赤ん坊のまだ少し赤く染められた肌の色でも、女性の汗と涙と、それから我が子を見つめるその目で、その全てで、そこに今、奇跡が起きたのだと、それは訴えていた。

「美しい…ですね」

思わず溢れた言葉だった。
すると、部長は怪訝な表情を浮かべ、ぼくのほうを向いた。

「美しいだって?君はこういうのがタイプかい?女を見る目がないなぁ。女は出るとこ出て、締まるとこが締まってる女に限るよ」

部長が口を開くたびに溢れる匂いは、ぼくを不快にさせた。

「では、部長はこの女性を、この光景をみても、美しいとは思われないのですか」
「思わんね、全く、君。この仕事が何か忘れたのかね?ワシは偉いんだ」

部長はだらしなく膨れた体を揺らした。

「では、部長はこの女性よりも偉いとおっしゃるのですか。この赤ん坊よりも偉いとおっしゃるのですか」

部長は鼻をならした。

「何を言っているんだ君は、ワシはこの大企業の部長だぞ。このどこの誰かもわからん女と、そのガキと比べる余地もないだろうに」

部長は愉快そうに笑うと、来たときと同じように、体の後ろで腕を組むと、のそのそと歩いていった。
ぼくは、まるで締まりのないその後ろ姿に対して、咄嗟に口を開いた。

「この女性は、社長の娘さんですよ」

部長は、ぴたりとその場で動きを止め、ゆっくりとこちらを振り向いた。

「それは本当かね?」

部長の目は鋭かった。それはおそらく部長の本能であった。
部長は時間をかけて口を開き、それから一度大きく息を吸うと、もう一度口を開いた。

「つまり、その産まれた赤ん坊は社長の孫であると、そういうことかね?」
「…はい」

部長は目を見開き、下唇を噛み締めると、ぶつぶつと独り言をいい始めた。

「社長には確かに一人娘がいたはずだ、それに年齢もあのぐらいだったはず…。産まれた赤ん坊は男の子か?相手は誰だ?娘の旦那が婿に入るのだとしたら、話は変わってくる。もし、社長を継ぐのが、そいつだったら…。すると娘は社長婦人か?ワシは?ワシはどうなる?ワシの偉さはどこまでだ?今はまだ偉いのか?これから抜かれるのか?人事はどうなってる?散々ゴルフに付き合わされた専務はどうなる?あれは無駄だったのか?ワシは偉いのか?」

大きな体を前屈みにして、爪を噛みながらぶつぶつと呟く部長の姿は哀れなものであった。

「あの、部長」
「なんだ!」

部長は新人のぼくには強くあたる。

「嘘です」
「は?」
「だから、嘘です。この女性は社長の娘さんではありません」

部長の顔が漫画のように赤く染まっていくのがわかった。体をプルプルと振るわせ、鼻から何度も空気を出し入れしている。

「ふざけているのか、お前は!く、首だ!二度と顔を見せるな、このクズが!」
「申し訳ありません」
「ワシは、ワシは偉いんだ!」

最後の部長のセリフは非常によく響いた。ある意味潔い心からの叫びであった。
部長は何度か肩を上下させると、勢いよく向きを変え、肩をいからせながら去っていった。

スクリーンの中では、ちょうど、丁寧に汚れを落とされた赤ん坊を女性が受け取るところであった。女性は、そろりそろりと腕を伸ばし、赤ん坊を抱える医師に救いを求めるように顔を向けた。優しく頷いた医師を確認して、女性は小さく息を吸うと、ぎこちなくも、危なげな、その存在を壊してしまわぬようにゆっくりと受け取った。赤ん坊を胸に抱え、その表情を覗き込んだ瞬間、固く結ばれていた唇は力を失ったように緩み、振るわせ、そうして女性の美しく腫れ上がった目元には涙が滲んだ。
そこに、ひとりの年老いた男性が飛び込んできた。その男性は息を整えると、ゆっくりと女性の元に歩み寄り、お互いに頷き合った。男性は固い表情のまま赤ん坊を覗き込むと、ぐにゃりと表情を崩した。そこにあったのは、いつも社員の前で見せるような厳しい表情ではなく、ひとりのおじいちゃんとしての喜びに満ちた社長の姿であった。
社長は赤ん坊を覗き込み何度か頷くと、女性に向き直り、何か一言いって、それから手を握った。
女性は社長をみて、それから赤ん坊をみて、一言つぶやいた。

「ありがとう」

スクリーン越しであっても、その言葉はぼくの耳にはっきりと届いた。


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