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【読書記録】朝井リョウ『スター』

初めて2回読んだ小説

2020年10月7日に発売された朝井リョウさんの「スター」という小説を読みました。

ここ最近、小説はあまり読めていなかったのですが、毎週聴いているラジオ「高橋みなみと朝井リョウ ヨブンのこと」で発売を知り、そのままの勢いで購入、読むに至りました。もともと朝井リョウさんの作品は好きでしたが、その中でも自分にとっては興味深い問いが多く投げかけられた作品で、人生で初めて2回読んだ小説となりました。

作中に出てくる登場人物の台詞は、本人たちが悩みながら発せられたものである一方、読者に対しても問いを投げかけるものでした。一部の台詞を引用しながら、作品を紹介します。

別々の道を歩む2人の主人公

物語は、2人の大学生映画監督を中心に進んでいきます。大学の映画サークルで出会い、共同監督で映画を作った尚吾と紘。その共同作品「身体」が「ぴあフィルムフェスティバル」のグランプリを受賞するのですが、卒業後はそれぞれ別の道を歩むことになります。

祖父から「質のいいものに触れろ」と言われて育ってきた尚吾は、作品の細部にまでこだわることを信条としています。その信念に基づき撮った「身体」が賞を獲得し、昔から通っていた映画館で記念上映されたことにも誇りを感じていました。卒業後は鐘ヶ江監督という、憧れの映画監督のもとで働き始めます。

もうひとりの主人公、紘は美しいものやかっこいいものをそのまま映像におさめることに強い魅力を感じています。感性的な撮影を得意とする紘だからこそ、尚吾と相性が良かったのかもしれません。そんな紘は自らが生まれ育った地方の島で、島のPR動画を撮影した際、島の人たちがたくさん押し寄せ、動画を観て瞳を輝かせて喜んでくれたという原体験を持っています。自分の作品が「人に届く」ことに喜びを感じるのです。

そんな紘は、尚吾と作り上げた「身体」が特別に上映されたことに対して嬉しい気持ちも持ちつつ、空席ばかりだったことが印象に残っていました。人に届くことを大事にする紘は、「映画」という作品形態がしっくり来ず、進路を決めていなかったところ、「身体」の撮影を通して出会ったプロボクサー長谷部要から誘われ、YouTube動画制作を手伝うことになります。

以下は後に紘が語った内容ですが、彼の価値観をよく表現している場面でした。

「どれだけすごいもの作っても、人に観てもらえる場所に置かないと意味ない気がしていて。俺は美しいと思ったものを撮るのが好きなんですけど、その出どころとして人があんまりいない場所を選ぶのってどうなんだろうとか思っちゃって」
「賞の名前とかその生姜持ってる歴史とか、そういう、俺自身とは関係ないところにある文脈に金が払われてる気がして」
「俺、そういう文脈とか関係性みたいなものからできるだけ外れたくて、こうやってフラフラしてるのかもしれません」

紘は自分が作った作品そのものを観て、人の心を動かすことに憧れとこだわりをもっていました。「身体」がグランプリを獲得した後、作品を観ていないのに大学から動画制作依頼の声がかかった際も、紘は「自分に関係ない文脈」で声がかかったことに怖ささえ感じていたのです。

「一部地域」に届くスターと届かないスター

YouTube動画制作を手伝うことになる少し前、紘は地元の島に帰っていました。その島は、テレビ放送でいうところの「一部地域」に当てはまる、『国民的スター、国民的名画座、そんな言葉が届かない』場所です。昔撮影した島のPR動画を知ってる人がたくさんいても、ぴあフィルムフェスティバルを知っている人はいません。

そんな中、昔からの同級生がYouTubeで料理動画を観ていることを知ります。その動画は100万回以上の再生を記録していて、「一部地域」である島にさえ届いていることに衝撃を受けます。国民的映画スターは知られていない島で、YouTubeのスターが人気を得ているのです。

紘は、知ってはいたもののどこか遠い存在だった、あるいは遠くに追いやっていたYouTubeのことを意識するようになりました。そんな時、映画サークルの後輩である泉から、サークルメンバーが映画製作ではなくYouTube動画の撮影や編集に流れていってしまったことを知ることになります。

「映画って年に何作かしか撮れないじゃないですか。でもYouTubeって下手したら毎日アップできるし、もしかしたら今TVより沢山の視聴者が集まってる場所だし、達成感もリアクションも映画撮るのに比べてすぐ感じられるし…時間と労力かけて誰に観てもらえるかもわからないもの作る気力、なくなっちゃったみたいなんですよね、みんな。まあ、映像撮るなら色んな人に観てもらえるところにアウトプットしたいっていうのは当たり前の気持ちですよね」

「人々に届くこと」を大事にしていた紘にとって、YouTubeという世界はその実感を得やすいという点で相性が良かったのかもしれません。島で暮らしている母が、自分が撮った動画を観ているという直接的な感触も得ることができていました。それでも、紘にとって譲れない一定の「質」が、YouTubeというプラットフォームが動く速さに圧倒され、保つことが難しくなっていきます。

作品が世に出せないことへの葛藤

鐘ヶ江監督のもとで勉強を続ける尚吾は、自分の時間を返上して脚本を書き、鐘ヶ江監督に提出するものの「まだ世に出せない」と言われてしまいます。尚吾なりに現代の社会問題なども盛り込みながら、それでもありふれたものにならないよう気をつけて書いた脚本で、決して出来は悪くないと思っていました。YouTubeで観られる動画や書店に並んでいる書籍など、決して「質が高い」とは思えない作品が多く世に出ていることも目の当たりにする中、自分の作品が世に出せないことに悩み、葛藤します。

そんな時、YouTubeで紘が作った動画が「世に出ている」ことを知ります。決してクオリティが高いわけではないように見えるのに、多くの人に観られていて、評価を得ている様子に、ますますストレスを感じるのです。そのことを同じく鐘ヶ江監督に師事している先輩、占部に話すと、次のようにその葛藤を描写されます。

「どっちがいいんだろうなってことだろ。俺たちが選んだ道と、その、大土井君?が選んだ道と」(中略)「俺たちは、世に出られるハードルが高くて、だからこそ高品質である可能性も高くて、そのためには有料で提供するしかなくて、ゆえに拡散もされにくい。大土井君は、世に出られるハードルが低くて、つまり低品質の可能性も高くて、だけど無料で提供できるから、ガンガン世の中に拡散されていく」

そして、占部は次のように続けます。

「作品自体がどうってことなくなって、時代は新しいってだけで取り囲んでくれる」
「周りが取り囲むと、そこに何もなくったって、取り囲んだ人垣が輪郭になる」
「そこになかったものが、そこにあるように見えるようになる」
「ないものを、あるように見せることがうまい奴らが、どんどん先へ行く」

世に出られるハードルが低くなった現代では、取り囲んだ人垣によって形作られた何かが評価になっていく。本当にそこに何かがあるのかは分からないのに。そんな状態に占部は違和感を覚えていました。果たしてそれは本当に正しい評価と言えるのだろうか、と。

以前、占部はウェブCMのコンペに参加し、いいところまでいったが敗れてしまった経験をしています。しかし、最終的に選ばれた作品そのものは、鐘ヶ江監督のもとで働くスタッフ陣からすると、大したことがないものに見えました。占部に勝って選ばれたのが人気YouTuberであったことから、「人気YouTuber初の監督作品」という外部から形作られた状態が評価に繋がってしまったかもしれない現実を経験していたのです。

それはつまり、作品の質ではなく、選考者(取り囲んだ人垣)が「人気YouTuberが初の監督」という輪郭を作ったといえる出来事だったのかもしれません。

「状態」を切り離して評価できるのか

そんな悩みに直面していた尚吾に、紘が作ったYouTube動画がが「日刊キネマ映画評」に番外編として取り上げられたという現実が襲います。ボクサー長谷部要がネットTVに出演した舞台裏を描いた、ドキュメンタリー動画でした。日刊キネマ映画評という伝統ある場所には、当然映画づくりのど真ん中でもがいている自分のほうが近くにいると尚吾は思っていました。しかし現実には、YouTube動画を手掛けた紘の名前が載っているのです。

そんな尚吾に対して、同じく鐘ヶ江監督のもとで働く先輩の浅沼は、現代の作品づくり、また尚吾の脚本への向き合い方に疑問を投げかけます。

「作品だけじゃなくて自分ごと受け入れられようとしすぎっていうか、むしろ作品より自分を愛してもらおうとしているっていうか(中略)時代を反映してるかとか、多様性やマイノリティに理解があるかとか、そもそもそういう観点でジャッジする気も起きないっていう感じ。ていうか、最新の価値観を反映してるからって映画としてクオリティが高いわけでもないしさ。(中略)マイノリティに配慮がある素晴らしい作品、みたいな評とかあるけどさ、それだって作品の中身じゃなくて”状態”なわけじゃん。製作者が色々と配慮してるっていう状態。そこを作品の評価として第一に挙げるっていうのは、私、モヤモヤするんだよね」

本当は作品の中身を純粋に楽しんだり、評価したりしてほしいと思っているのに、作り手の「状態」が評価の対象になっている様子に違和感を覚えているのです。そのために、特に経験の浅い作り手が作品の中身ではなく「自分」「状態」を気にしすぎていることを疑問視していました。

しかし一方で、もはや「状態」を完全に切り離して作品の中身だけで物ごとを評価することについての難しさも十分理解しています。

「中身より状態を整えたほうが、すぐリターンがあることに気づく奴らが出てくる。で、問題なのが問いより答えを持っている人のほうが、どうしても状態が整って見えるってところですわ。(中略)こうなるともう、作品を作品だけで評価するなんて至難の業だよね。それとこれとは別だよねってものがどんどん、知らないうちに一緒くたにされていく」

グランプリを獲ったという事実のみで、作品を観ることなく仕事のオファーを受けた経験をもつ尚吾と紘。「人気YouTuber初の監督作品」というキャッチーなタイトルによって負けてしまったかもしれな占部。「状態」が評価に影響を及ぼす場面というのは、私たちも多く目にしているのではないでしょうか。

それは本当に正しい評価なのか、本当に切り離して評価することができるのか、評価するとすれば何が確固たる拠り所になるのか…。

悪い遺伝子によって待てなくなる作り手

尚吾が「世に出ること」や、それにつきまとう評価に悩んでいた頃、紘はYouTubeチャンネルの手伝いを離れ、ネットTVの会社で働いていました。自分が携わった作品が次々に世に出ていく一方、間違った情報を発信してしまってもそこに十分に向き合えない環境に疑問を感じていました。

「さっき、作品を発表することは人間関係に似ているって言いましたけど、違ってくるのはそのあとです。人間関係なら、間違った発言をしたり、誤解されたりしたとき、対面で話ができます。今みたいに、思っていることを納得するまで話し合うことができます。だけど、不特定多数に発信されたものは、それができない。後で訂正したとしても、その情報が同じだけ行き渡るとは限らない。だからこそ」
紘は瞬きをする。内側から、潤いが漲ってくる。
「情報を放った先には人の心があるっていうことを、もっと考えなきゃいけないと思うんです。間違えたら修正、削除、非公開、それで動画は形が整うかもしれないけど、心はそうじゃない」

しかしこの発言の直後、自身が携わっていたYouTubeチャンネルで同じことを行っていたことを指摘されます。動画を公開するペースを守ることに必死だった終盤、誤った情報を指摘されても十分に訂正せず、動画を発信し続けていたのです。情報を放った先の人の心を考えない「悪い遺伝子」になりたくないと思っていたのに、知らないうちに侵食されていた自分に気付かされます。

世に出るハードルが低いからこそ、新しい作品を世に出す速度が求められる世界。決して悪意があったわけではなくても、知らず知らずのうちにその速度に巻き込まれ、自分自身と向き合うことができずに作品を世に送り出してしまっていました。

尚吾が師事していた鐘ヶ江監督は、そのような状態を恐れて映画館以外で作品を出していませんでした。鐘ヶ江監督は、映画館以外に作品を出すということは、受け手が作品を欲する頻度が上がることに繋がると考えていました。それにより、作品が世界を循環する速度も上がります。しかし、だからといって本来は作品を作るスピードを上げられるわけではありません。

それなのに、作り手もそのスピードを待てなくなっていき、自分の評価を信じることができなくなり、結果、作品の中身以外のところで認められようとし始めるということを恐れていたのです。

本来は受け手が作品に触れやすくなればなるほど、自分自身の見栄えではなく、自分の感性を把握したり、表現を磨くことに注力すべきなのに、それが許されにくいビジネス構造であることを鐘ヶ江監督は理解していました。

優しい世界にすがる者

それぞれの悩みを抱えていた尚吾と泉は、たまたま久しぶりに訪れた映画館で再会することになります。またそこで、映画サークル時代の後輩である泉とも再会します。泉は、映画にまつわるオンラインサロンを立ち上げていました。「状態」が評価されてしまう世の中に対して、泉はむしろ前向きに状況を捉えていました。

「何か特別なことができるわけじゃない人間が、日々の発信の積み重ねで知名度と影響力を得ていく。ある人にとっては無名の人間が、ある人にとっては唯一無二のスターになる。そういうことが普通の時代になりました。」

つまり、元々の「中身」が評価されていた世界は実力があって、特別な人間にしか立ち入ることが許されない世界でもありました。しかし、「中身」と「状態」がごちゃまぜになるということは、「中身」だけで勝負できなくとも脚光を浴びることが出来うるということなのです。

映画サークル時代は助監督として尚吾と紘をサポートしていた泉は、自分は二人のように才能がある特別な存在でない現実と向き合っていました。そんな彼にとっては「状態」が評価の対象に含まれる現代は「優しい世界」と表現されるのです。

判断できない「価値」

尚吾は、料理という異なるジャンルながらも、同様に「中身の質が高いもの」を追い求めていた、彼女の千紗が向き合おうとしている変化に直面します。千紗は一流レストランで働く一方、脚本を書くことに集中するために完全食で食事を済ませてしまう尚吾に悩み、向き合っていたのです。

高度で確かな技術、高い質が一番素晴らしいと千紗も思っていました。しかし、そもそも欲求には優劣なんてなく、色んな種類があるだけ、だからそれぞれの欲求に応えるために様々な作品が存在するのに、それらを無理やり同じ土俵にあげて比べようとしていたことに気づきました。誰かにとっての質と価値は、その人以外には判断ができない、と話します。

泉や千紗の話を聞くうちに、尚吾も自分なりの向き合い方を見つけ出そうとします。

「世界はどんどん細分化していっって、自分が感知できる範囲もどんどん狭まっていって……騙されたがっている受け手が先にいるのか、騙すつもりの送り手が先にいるのか、外からは判断できないくらい、みんながそれぞれの空間の中でやりとりをするようになる。それのどっちのほうが良いかなんて、もう誰にも判断ができない、判断する資格もない」
「はなから小さな空間に向けて差し出したものだとしても、それがどんな一点から生まれたものだとしても、素晴らしいものは、自然と越境していく。だから」
「どんな相手に差し出すときでも、想定していた相手じゃない人までに届いたときに、胸を張ったままでいられるかどうか」

無理ににいろいろなものを同じ土俵に乗せて比べず、自分が信じる作品を届けること。そしてそ作品が当初想定していたコミュニティを越境して届いた場合にも、胸を張ったままでいられるかどうか。そうやって作品と向き合おうとする様子、そして鐘ヶ江監督のチームが新たな一歩を踏み出そうとする場面で物語は終わります。

登場人物それぞれの悩みと言葉

冒頭にも書いた通り、この作品は作中に出てくる登場人物が発する台詞が魅力の一つです。尚吾、紘、占部、浅沼、泉、千紗…それぞれの立場で「作品づくり」に向き合います。真剣に向き合っているからこそ悩み、その結果発せられる言葉はどれも印象的になります。

そしてこれは決して作中の登場人物だけでなく、この作品を書いた朝井リョウさんにも言える話だと思います。こちらのインタビューでは、作家として向き合った「価値」について触れています。

朝井リョウ デビュー10周年を迎えた今、書きたい「不都合な問い」

また彼は、2013年に「何者」という作品で、最年少で直木賞を受賞しています。23歳という若さでその称号を得た朝井リョウさんは、ずっとついてくる「直木賞最年少受賞」の肩書きに対する悩みについて、ラジオで言及していたことがありました。この作品で描かれている「状態」に対する評価、そして作り手としての作品への向き合い方の一端は、朝井リョウさん自身が悩み、感じてきたものもあるのだと思います。

自分の作品の「質」は何をもって測られるのか。何を信じて作品づくりをするのか。誰もが作品を世に出せるようになった現代では、これは決して「一部」の人の話ではないのだと思います。「作品」なんて言えたもんじゃないこのnoteもそこに内包されるのかもしれません。そんな現代だからこそ、是非この「スター」を一人でも多くの人に手にとっていただきたいなと思っています。

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