見出し画像

周山街道をゆくchapter2-5 清滝(2)

→chapter2-4 清滝(1)

清滝には多くの文化人が訪れ,歌を残している。その中で著名な2俳人を取り上げる。

与謝野晶子の碑文

この与謝野晶子は教科書にも出てくる明治を代表する歌人である。
碑文に書かれている字が読みにくいので記す。

ほととぎす
 嵯峨へは一里
   京へは三里
    水の清滝 
     夜の明けやすさ
                  晶子

与謝野晶子の処女作集みだれ髪には京情緒を詠んだものが少なくない。特に清滝をうたった秀歌数種がある。その中でもこの歌は平明で流麗、初夏の朝の清滝の風情をよく表現している。この歌は“明星“の明治34年7月号発表されたので同年5月頃の作と推定される。おそらく里の秋ここに夢ある清滝や母に具されし17の秋とよんでいる如く、少女の頃、母と共にここを訪れ一夜を過ごした折々の情景を『ほととぎす自由自在になく、里は酒屋へ三里、豆腐屋へ二里』という顕光の狂歌にヒントを得てつくったものあろう。誠に晶子の才気と歌の世界の素晴らしさは絶賛に値すると言わなければなるまい。

この碑は最初、昭和33年4月に作られ39年に一度、修復されたものであるが、長年の風雨と心なき人々のために欠落して判読もできなかったので晶子生誕100年を記念してみだれ髪の会によって作り直され、渡猿橋直下右岸の自然の岸壁に歌碑を打ち込み清滝保勝会に寄贈された。しかしこの歌も読めなくなり、やむなく渡猿橋下流の左岸に石碑で清滝保勝会が建てた。文字を書いたのは祇園の歌人といわれる故吉井勇先生である。
                    平成16年12月24日 清滝保勝会

これが立札に記載されている全文である。文体はやや古いが、前半はすばらしい批評(賛美)、後半はこの碑のこれまでの経緯の記載である。

note(blog)作成に当たりこの碑文についても下調べをした。その中であるblogerが興味深い記事を書いていた。この太字で表記した狂歌の作者は顕光ではなく、頭光(つむじのひかる)だという指摘であった。僕もその指摘が正しいのか調べてみた。顕光という人物は狂歌界には存在せず、この狂歌の作者は頭光で間違いないようある。この“つむじのひかる“はハゲ頭というユーモアたっぷりの狂歌名である。また彼は浮世絵師でもあり、浮世絵師名は岸文笑というそうである。顕光の表記になった経緯はわからないが、何回か修復している間に写し間違いをしたのではないだろうか?

余談ですが、
『泰平の眠りを覚ます上喜撰、たった四杯で夜も眠れず』
日本史の教科書に出てくる有名な狂歌です。僕は最高傑作だと思います。そう、幕末のペリー来航をもじったものです。作者は老中、間部詮勝とも言われている。

松尾芭蕉の俳句

    清滝や
          波に散りこむ
               青松葉
                 松尾芭蕉

松尾芭蕉は”奥の細道”を始めとする世界的にも著名な俳諧師である(日本人での世界的知名度No1)。もし彼が存命中にノーベル賞なるものがあったら文学賞が取れたのではないかと個人的には思う。

  The sound of an old pond and the water where frogs jump into it.
           古池や 蛙飛び込む 水の音

英訳された芭蕉風(芭風)の代表的な作品である。
あの”奥の細道”紀行する以前に”野ざらし紀行”で中部・関西を訪れ記述している。特に京都へは度々滞在している。芭蕉の清滝での俳句を下調べしている時に“芭蕉 最後の一句 魚住孝至著“の本と出会った。

芭蕉最後の一句の本
図書館で借りて読ませていただいた。

この句にも興味深いepisodeがあることがわかった。
この本の冒頭に書かれていることを引用させていただく。

はじめに
松尾芭蕉の最後の句といえば“旅に病で夢は枯野をかけ廻る“ の句を誰でも思い浮かべるだろう。亡くなる四日前の深夜に看病していた門人に書き取らした句である。病床にあってなお夢は枯野を彷彿しているという句は芭蕉の、孤高でわびの世界に生きた「旅の詩人」というイメージをもたらすこととなっていた。ところが現実には、この句を詠んだ翌朝、芭蕉は弟子の二人を呼び寄せて、六月に詠んだ

“清滝や 波に塵なき 夏の月”の句を直前に詠んだ句と紛らわしいので作り換えたいと言い、
"清滝や 波に散りこむ 青松葉”の句を書き取らせ、忘れぬように念を押している。

実質上、これが芭蕉が最後に詠んだ句であるにもかかわらず、これまであまり注目されてこなかった。芭蕉自身が改作だと言っているので、制作順に並べた句集でも6月に置かれてきた。内容としても、清滝川に松葉が散って流れていくだけの、さほどのことはない句だと思われたからである。
 けれども俳諧に生涯を懸けた芭蕉が忘れぬように念を押し、「なき跡の妄執」とまで言いながら詠んだ句が、そのようなものであるはずがない。

本書は、芭蕉の思想、そして句が決定的に深まった、奥州の旅の最後から最期に至るまでの五年半を詳しく見ていく。そして「清滝や波に散りこむ青松葉」の句が、芭蕉の最後の一句という相応しい内容のものであることを明らかにし、この句が我々に伝えているものを確かに受け止めたいと思う。

以上が冒頭文である。病床の芭蕉にとって清滝の地は何か特別の思い入れがあったのではないだろうか。

渡猿橋を望む

渡猿橋から勾配のきつい坂を登った。清滝バス停に行くためである。バス停には誰一人いなかった。今まででもせいぜい15分くらい待てばバスに乗れたので時刻表など気にも止めてなかった。バスは行ったばかりで次は約1時間後であった。ひとまずベンチに座りお茶を飲んだ。そういえば御経坂峠からずっと歩き放しであったなあ。Break time !!

清滝バス停(旧愛宕山鉄道清滝駅)

ふりつみし高ねのみ雪とけにけり 清滝川の水の白波
                         西行 
新古今和歌集

ふと西行法師が清滝の地で詠んだ句を思い出した・・・・・。


渡猿橋

→chapter 2-6 愛宕詣








この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?