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市民参加型演劇「早良探訪記」 まとめ


創作・発表を終えて

9月末~11月頭にかけて創作していた、市民参加型演劇「早良探訪記」が無事終了。

早良南地域交流センター〈ともてらす早良〉の開館と同時に発表する市民参加型の演劇作品ということで。短い期間ではありましたが、市民の方と出会い、語り合い、リサーチを重ね、改めて演劇の面白さや特殊性を確認するような創作・発表となりました。

作品の内容としては、
開館記念のイベントで賑わう館内で、50年後の開館50周年記念バスツアー(仮想)に乗って早良南を旅して回る。というシンプルなモノで。

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未来人の視点で現在の早良南の町と出会ったり、開館する新しい施設の50年後の姿を想像したり、

少しだけ、未来や過去への目線を育むきっかけになったり、地域に新しい施設ができる、新たな風景が加わることについて、立ち止まって考える時間になればと思いながら創作しました。

ただ、早良南のスポットや歴史を紹介するだけなら、自分より詳しい方はいくらでもいるんだと思うし。演劇でしかできないこと、演劇が社会の中で有効に働ける隙間はきっとまだまだあるので。その役割を微力ではありますが、担っていけたらと。あらためて思う。

作品について

仕掛けとしては、
お客さんが乗客としてバスに乗って体験したり、
バスガイドが喋っていたり、レクリエーションがあったり、
時を超えた登場人物が同じバスに乗っていたり、
練習室の窓をバスのフロントガラスに見立てて開館イベントの風景が演劇的にみえたり、
目を瞑るたびに深く、想像してみたり、

美術としては張りぼてのバスとして、工事現場の建設中の建物、、もしくは解体作業中の建物のイメージで作ったり、
映像は現代の素材だけど違ってみえたり、バスの車窓の風景のようにみえたり、
俳優は人間である前に自然そのものであり、時間や歴史を持った肉体であるということについて考え、眺めてみたり、

などなど。

現代の日本社会ではどうしても作り物(人工的)からは逃げられない。


演劇もまた作為的に作られた現象かもしれないけど、みんなに同じ現象が起こっているとは限らない。演劇の成果や影響は目に見えないことの方が多いし、それがいつ現れるかもわからない。気長に待ってほしい。これは時間との付き合い方だ。


印象的だったシーン

客入れの時、
メンバーと地域の方のやりとりが印象的で、

「これは何してるの?」
「演劇です」
「演劇ってなに?」

その後、そめごころのメンバーが
「バスツアーです」って言い切っていたのに少し笑ってしまったりした。

演劇ってなに?に答えられる共通の言語はまだ持ててないけど、
演劇の複雑さ、幅広さをもっと知ってもらえるようにしたいとは改めて思う。


そしてなにより、出演してくれたお二人。
千秋楽が終わり、ロビーの机でふりかえりをしてる風景が、1か月前に初めて出会ってロビーでお喋りした時の風景にかさなる。出会えたことを幸福におもう。二人との出会いが私の未来への視線を確実に変えてくれた。習い事の発表から表現者の発表へと自分たちの手で育ててくれていた。



当日配布のフリーペーパーの内容

近頃は、観劇前にお客さんには作品の前提をできる範囲で共有してから観てもらえたらと思って文章を書いたりしてる。もちろん、観終わってからでも良いのだけれど。そんな文章を記録としてここにも載せておく。


〈虔十公園林〉

 宮沢賢治の短編小説に、『虔十公園林』という作品があります。とある村に住む虔十という男が、ある日、家のうしろの野原に七百本もの杉の苗を植えた。すると、村人たちは「あんなところに杉など育つものでもない」と嘲笑うのでした。それから何年か経ち、植えられた杉が育つと、学校帰りの子供らが集まって一列となり、杉の木の間を行進して大喜びするのでした。それを見て虔十も喜んで笑いました。しかし、育った杉によって日陰ができ、隣の畑のお日様の光を遮っているから杉を切れと言う村人もおりました。結局、杉は切られずに済みましたが、虔十は病気にかかり死んでしまいました。それから二十年近くが経ったある日、その村を出てアメリカのある大学の教授になっている若い博士が、十五年ぶりに故郷に帰ってきました。しかし、そこには昔の畑や森の面影はなく、町の人たちも大抵新しく外から来た人たちでした。ところが、博士は虔十の林の方へ行くと、驚いて半分独り言のように言いました。

「あゝこゝはすっかりもとの通りだ。木まですっかりもとの通りだ。木は却《かへ》って小さくなったやうだ。みんなも遊んでゐる。あゝ、あの中に私や私の昔の友達が居ないだらうか。」

 故郷の他の風景が変わっても、この杉の林だけはそこにあり、そこにかつての自分たちの姿を見た。そうして、ここを虔十公園林と名付けるのでした。

 私がこの話を知ったのは、この作品の創作が始まってからでした。出演者の小﨑隆子さんが好きな小説で、家で一人で声に出して読んだりしているときいて、同じく出演者の堀江典子さんがお弁当を作ってきてくれた日のお昼、四箇田中央公園のベンチに座って、みんなで食べたりお喋りして、この小説の朗読をしてもらいました。公園でぼーっと過ごす時間の中で、風景と共に耳にするこの物語は、本作「早良探訪記」そのものだと感じる。



〈みえないものをみるちから〉
〜演劇とは私とあなたの間に起こる現象のようなモノ〜

 私のやっている演劇は、今すぐ、目の前の問題に役立つとは限らないし、その結果が目に見える形で、わかりやすく目の前に現れてくれるとも限らない。演劇において、大事なモノは大抵目には見えない。それはあなたと私との間に起こる「現象」のようなものだから。

 今植えた杉の苗が、未来にどんな意味を持ってくるのか、苗を植えた現在ではわからないことも多い。時にはこの杉の木を切れと言われてしまうこともあるかもしれない。けれど、今日植えた苗が未来にどんな姿で人々と共にあるか、期待して、願うことはできる。

 このクリエーションの起点となった、この早良南地域交流センター〈ともてらす早良〉もまた、今はまだ植えたばかりの苗のようなモノ。建物だけではまだ空っぽの箱、容れ物なのだ。そして、中身はこれから私たちの手で入れていくこととなる。50年後、もっと先の未来、この植えられた苗が私たちの手によって育ち、意味のあるモノとなっていることを期待し、願うこととする。


石田聖也(演劇ユニットそめごころ) 劇作家/演出家


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