見出し画像

道なかばの思考も、記録していこうと思う

ノートやSNSの投稿がなかなか滞っていた。

その一番の原因は、仕事が終わるのが夜遅くであり、すると当然、家についてまずすることはビールの缶をあけることで、その後文章を書いたりはできなくなるからである。

二番目の原因としては、自分の実際の強さや生活と、書いたことの差異を見透かされ、指摘されることを恐れたからである。

強いだけでは有名になれない。有名でなくとも本当に強くなれたら満足だが、それでは飯が食えない。プロ試合にも呼んでもらえないし、強さを証明する機会も減る。
ひとりよがりでいてはそれが貨幣に変換されないから、人にわかってもらう必要がある。自分を宣伝しなければならない。

だが、セルフ・ブランディングをしても、それだけの価値を生めなかったらどうしよう、という不安が大きかった。つまり、大口を叩いておきながら負けたら恥ずかしい、と弱気になる。大言壮語を見抜かれたら、と気になってしまう。

趣味で一人でやっているなら黙っていても良いが、ありがたいことに、俺には既に多くのスポンサーがついている。
スポンサーがついている以上、俺は広告宣伝をする義務を負う。

自分が言ったこと以上の結果を出せないのではないかという不安と、広告宣伝の義務との間で、実際に結果が出たとき以外の発信がなかなかできずにいた。

これが二番目の原因である。

だが、最近は自分を誇示する、また、自分の思考を開示してゆくということについてポジティブな考えを持つようになってきた。

思い返せば、多くのことを考えて、そして忘れてきた。
前職の退職時、それなりに大きな会社で良い給料を得ていたから、そこを辞めるには大きな不安が伴った。それまでの安定感を第一にして選んできたルートから、結果次第で大きく変わる人生にシフトしていくわけで、そのためには、そのルート選択を肯定する理論を自分なりに作る必要があった。自分は自分なりに理屈が通ることでないとできない性格だから、自分の人生設計を大きく転換する不安を乗り越えるために、不安とは何か、というところまで掘り下げて、それを解決する理屈を組み立てた。
そして、いま、わりと忘れた。何か、世界とは、人間とは、人生とは、不安とは、などと壮大なストーリーを作っていた気がするが、大まかなものは残して詳細は忘れてしまった。

もったいないことをしたと思う。そのとき考えたことは自分の選択を自分に納得させるのに必要で、それだけ思考のエネルギーを投入したものだったから、今見ても価値があっただろう。でも、いまはもう次のステージに移ってしまった後だから、そのとき考えたストーリーは不要になり、思い出せないものも多い。

最近、大学生のときに書いた柔道ノートを発掘して見ていた。格闘ということに関して、理解も思考も未熟だが、今見ても無価値ではなかった。単に、自分の成長の振り返りになるだけでなく、当時の課題意識を今の理解で再考すると、新たな発見もあるのだ。
課題意識は結構重要な成長の要素で、自分の未熟な点はわかっていればわかっているほど、成長の可能性を与えてくれる。だから、当時課題に思っていたが未解決のまま忘れてしまった点など、いま一度考え直してみると、現在の自分の穴を埋めたりもできるのだ。

忘れていた昔の発見が、今でも全然有用なこともある。学生の時に後輩にかみつきパスを教えている動画があるのだが、それを見返すと、もう忘れていたが今でも使えるコツを話していたりする。記録をしなければ、思い出すこともなかったかもしれない。

記録することだけでなく、それを公開することにも、最近は肯定的でいる。

ついつい不言実行がかっこいいという意識になってしまいがちだが、有言にもポジティブな効果があると思う。

武士道といふは死ぬ事と見付けたり、という言葉で有名な「葉隠」の語り手である山本常朝は、その口述を書き写した田代陣基にそれを焼き捨てるように頼んだが、結局燃やされずに残った。だが、その筆記が残ったおかげで、俺を含む後の人間の精神に影響を与えている。

新渡戸稲造の「武士道」では、口開けて腸(はらわた)見せる柘榴かな(口先で思想をべらべらと語る人はザクロに過ぎない、の意)という川柳が紹介されている。
老子も、知る者は言わず 言う者は知らず("道"を理解するものは多く語らない)、という言葉を残している。
だが、これらは自己言及の矛盾に陥っている。本当に、それらの考え、つまり、語らないことが道であるということを体現しているならば、そういう言葉すら残すことなく消えてゆくからである。

ある道を極め、しかし誰にもそれを残すことなく消えていった仙人のような人もいるのだろう。だが、その人は道を極めて高みに至ったかもしれないが、他の人間に何らかの影響を及ぼすことはもはや不可能になっている。そうしてこの世から永遠に失われた思考や技術もあるだろう。だが俺は(その点が未熟なのかもしれないが)小さくとも誰かに何らかの影響を及ぼしたら、嬉しく思うのだし、自分の考えを少しでも残しておきたい。

キリストや釈迦は自分では何かを書くことはせず、新約聖書や仏典は後に弟子らが書いた。これは良いとこどりな気もするが、俺の考えをいま聞いていて、後に思い出して本にしてくれるような人がいるほど、俺が完成されることもないだろう。

それから、単純に、いまから書いておけば、もっと自分の考えが成長したときに、うまくそれを残すための、訓練にもなるだろう。
柔術を一切したことがない人が、教則動画を百本見て完璧に理解してからスパーリングをしてみます、というのは無理な話だ。理論と実践は両輪になっている。
自分の思考を(もっと成長したときに)残したいのなら、考えるだけでなく、書き、残すことについてもいまから訓練をしなければならないだろう。

かっこいいことを言って、結果が伴わなかったら……、という不安については、結果が出るまで黙っているのもまた弱さである、とも言える。

先ほど取り上げた「葉隠」では、武を志す者、若い者は"大高慢"でなければならないと言っている。大高慢とはつまり、自分が日本一の勇士であると考えて修行に励むことであり、武士たるもの、はじめから自分の可能性を見限って物事にあたっていたのでは、武勇を表すことはできないというわけである。
また、武士はかりそめにも弱気のことを言うまい、またなすまいと平素から心がけるべきである、ともある。

AOJの教則動画の目次を見ていたら、試合についての心構えについての教則に「チャンピオンのようにふるまう」というチャプターがあった。結局買わなかったのだが、そのチャプター名で、それが大高慢だと理解した。
大高慢でやっていれば、日々の生活も、考えも、自然と勝利に向かったものになる。それらが多少自信過剰すぎ、また雄弁すぎることもあるだろうが、強くなりたいなら仕方のないことだと思う。弱気でやっていては現在自分より強い相手を追い越せない。
冷静な現状認識と課題意識を前提に、大高慢の心も持たなければ、求める強さになれない。

これまで書いたことに関連して、俺と同郷のかっこいいラッパーもこういっている。(大麻云々については私の意見ではないので、聞かなかったことにしてほしい。)

さて、最後にまとめると、今回このnoteを書いた理由としては、これまでなかなか自分の思考を表明できなかった「二番目の原因」、つまり自分の実際の強さと自分の言葉がかけ離れてしまう恐れ、についての考えの変化が大きかった。その詳細は上に書いた通りである。

だが、それ以上に大きいのは、冒頭に書いた「一番目の原因」の解決である。
つまり、今日は昼に膝を捻挫したから、夜の練習にも行けず、ビールを飲むこともできなかった。よって、文章を書く意欲が損なわれなかった、というわけである。

(※推敲して、翌日公開)



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?