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『長い一日』を読む長い一月 〜20日目〜

滝口悠生さんの連載小説『長い一日』(講談社刊)を一日一章ずつ読み、考えたことや想起されたこと、心が動いたことを書いていく試みです。

昨日は下北沢のB&Bで開催された、『長い一日』の著者である滝口さんと漫画家のオカヤイズミさんのトークイベントを配信で見ました。小説と漫画、それぞれに固有の創作過程や人物の描写の仕方などが話題にあがっていましたが、お二人ともがあらかじめ話すことを考えてきたというよりは、相手の言葉に対して、ポツポツとそのときに浮かんできた言葉を継いでいっていたことがとても印象的でした。「小説と漫画の違い」みたいなものを中心に話は進んでいったわけですが、「主人公(タイプの登場人物)に気後れする」「定規で線を引くのが苦手」という通点も興味深かったです。これらは瑣末なことのようですが、お二人の創作活動でけっこう重要なことのような気がしてます。
余談というかトークイベントでもふれられていましたが、オカヤさんは以前に、作家の長嶋有さんの小説を漫画化するという企画に参加しています。この小説が一人称で語られることを表現するための手段として、オカヤさんがとったのは語り手の視点をそのまま描くということでした。つまり、語り手の目を通して見えるものが描かれるということですが、吹き出しのない手書きの文字(これ、なんか言い方あるんでしょうか)で表現された中学校で聞こえる準備体操のかけ声や、お坊さんの念仏などと相まって、自分もこういうふうに周囲を捉えているかもしれない、と思わされます。トークイベント後にあらためて読み返してみると、小説と漫画の関係性について気づくことがあり面白いなあと感じています。
トークイベントについて書いていたら、前置きがかなり長くなりました。第20回は「スーパーの夫(二)」です。失って初めて気づくスーパーオオゼキの大切さ。

あらすじ
(新しい家に引っ越した)夫は、スーパーオオゼキが自分たちの生活にとっていかに重要だったのかを話し続ける。代わりになるものはいくらでもあるはずなのに、長年使っていたもの、スポンジやごま油、かつおぶしなどが、近所のスーパーで手に入らないことが、台所の夫の挙動を不審なものにした。台所で違和感を感じるたびに、夫は前の家の台所を思い出してため息をつく。それが妻を疲れさせる。
夫は新しい台所と関係を結ぼうとする。調理をする合間合間に、夫は前の台所でやっていたように洗い物をする。が、また水を飛び散らせ、夫は台所にくずおれる。
ある休日、妻は夫を誘い自転車で20分ほどの最寄りのオオゼキに行く。それから、夫は週に1、2度はオオゼキに行くようになり、不調はみるみる快復していった。深刻なオオゼキ不足が解消されると、オオゼキへの執着も解消されるようになり、夫は近くの商店街での買い物も楽しむようになった。

愛着が語られることについて
オオゼキを失ったあとの落胆ぶりもさることながら、再びオオゼキに行くようになった夫の快復ぶりがすさまじく、「水を得た魚」ならぬ「オオゼキを得た夫」なんていうしょうもない諺まで浮かんでくるほどでした。ひとりの人間の生活をここまで変えてしまうオオゼキ、恐るべし。
この回では「愛着」という言葉がよく出てきます。たとえば夫が言った次の言葉。

愛着を語ることの本質的な愛おしさは、その愛着を失ってからしか語りえない本質的な愚かさかもしれない (P.202)

妻はこれに対して、夫の語り方がおかしいのではないか、さらに「現在進行形の愛着は語れないということなのだろうか(p.207)」と考えます。
これは文章の終盤、「なにかについて語るということ自体が事後的なものでしかない(p.212)」ということと関わってきます。この点については滝口さんが昨日のトークイベントで言及していた「小説の語りは、誰かが経験したことを事後的に思い出して再構成したもの」ということと重なるように思います。
「愛着」という言葉を辞書で引けば、「慣れ親しんだ物事に深く心を引かれ、離れがたく感じる事」だと書いてあります。字義通りであるならば、現在進行形で愛着を感じるということはもちろんあり得る、というかそちらの方が自然な気がします。実際に「わたしは今住んでいる家に愛着を感じている」と淀みなく言うことができます。
他方で、以前に住んでいた家や街に対する愛着が自分のなかに確かにあって、それが「現在進行形の愛着」を上回っているような感覚もあります。
事後的に語られることで、そのときに感じていた「現在進行形の愛着」がよりつよく思い出される、と書くとなんだか収まりがよいようにも思えますが、単純化しすぎているような気もします。
何かを言っているようで、何も言っていないような記事になってしまいましたが、今日はこの辺で終わります。

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