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『ジョジョ・ラビット』に対する違和感

 先日、映画『ジョジョ・ラビット』を観てきた。トロント国際映画祭の観客賞を受賞していたり、アカデミー賞の作品賞にノミネートされていたりと、何かと話題の映画である。僕のtwitterのTLには基本的に絶賛評が並び、「Yahoo!映画」や「Filmarks」等の映画レビューサイトでも星4以上の高評価レビューが軒並み並んでいる。米国の映画評論サイト「Rotten Tomatoes」でも概ね高評価が多いようだ。しかし僕はこの映画を観て笑うこともなければ泣くこともなく(レビューサイトのレビューによれば、笑ったり泣けたりする人が多かった模様)、戦争に対する悲惨さや残酷さを感じることもなく、むしろ強烈な違和感を抱えてしまった。絶賛評が多いだけに否定的な感想を書くことが憚られる気もするが、ここでは僕の正直な感想を書きたい。
 ここから『ジョジョ・ラビット』に対して否定的な感想・意見を書いていくので、本作を愛してやまず、否定的な意見など目にしたくない人は今すぐこのページを閉じて欲しい。因みにネタバレ全開で書き綴っていくので、まだ観てない人やネタバレを気にする人も今すぐページを閉じて頂きたい。

 本作のあらすじを簡単に説明する。第二次大戦下のドイツに住む(恐らくベルリン)主人公の10歳の少年ジョジョは、空想上の友人(イマジナリーフレンド)のアドルフ・ヒトラーの助けを借りながら、立派なヒトラーユーゲントの一員になろうとする。しかしジョジョは非常に優しい性格のようで、訓練でウサギを殺すことが出来ず、”ジョジョ・ラビット”というあだ名をつけられしまう。そんな中自らが勇敢であるという証拠を見せようと、イマジナリーフレンドであるヒトラーに勇気づけられたジョジョは、教官が手にしていた手榴弾を奪い投擲するものの、失敗し足元に落下。手榴弾は爆発しジョジョは負傷。ヒトラーユーゲントから退くことになる。ヒトラーユーゲントから退いたジョジョは、自分の家に戻り、母親のロージーと暮らすことになる。しかし家の屋根裏にはユダヤ人の少女であるエルサがナチスからの迫害を免れる為に潜んでおり、ナチスやヒトラーに忠誠を誓うジョジョは当初困惑するものの、エルサとの交流を通して徐々に彼女に心を許していくようになる。その後は史実通り、ソ連赤軍の猛攻を受けたベルリンは陥落しドイツは敗戦。そしてジョジョはイマジナリーフレンドであるヒトラーを自分の部屋から外へと蹴り飛ばしてナチズムと決別。そして色々とあって終劇。

 『ジョジョ・ラビット』では以上のようなことを戦時下の物語とは思えない程コミカルに、そして終始10歳の子供の目線から見たナチスと戦争を描いている。この部分が他の戦争映画にはあまり見られない本作の最大の特徴であり、絶賛されている理由の一つであろうと思う。確かに第二次大戦下のドイツでの戦争とナチスをコミカルに、そして子供の目線から描くことは面白い試みではあると思うし、コミカルに演出することでより戦争の悲惨さや残酷さを際立たすことも可能であると思う。しかしコミカルに描き、終始観客を笑わせたいあまりに、逆に笑えないようなことをやってしまっているように思えてしまう部分が僕にはあった。
 これまで述べたように本作の舞台はドイツであり、登場人物は主人公含めドイツ人が主である。しかし非英語圏であるにも関わらず制作国はアメリカで役者はイギリス人やニュージーランド人、アメリカ人であり、主人公のジョジョもヒトラーも皆英語を話す。ドイツという非英語圏が舞台なのにも関わらず、劇中で話されている言語は英語であることが、本作に対する少ない批判の中でも最も主流のようだ。しかし僕はその部分は正直どうでも良い。例えば同じ時代を舞台にしたスピルバーグの『シンドラーのリスト』や、タランティーノの『イングロリアス・バスターズ』も非英語圏であるドイツやフランスが舞台だが、役者は英語圏の役者が主であり、全編英語である。僕はこの二つの映画は非常に好きだし、特に『シンドラーのリスト』はホロコーストの恐ろしさが画面越しに伝わってくる傑作だと思っている。
 では僕がなぜ笑えなかったのかといえば、それはドイツ語訛りの英語を英語圏の役者を使って話させていたからである。この点だけで僕はとても笑える気にはなれなかった。言語とは個人のアインデンティティーを構成する要素の一つである。その言語をジョークだからと言って、ドイツ語訛りの英語を、ドイツ人ではない役者が話しているのを見て怒るドイツ人はいるのではないだろうか。
 仮にである。仮に同時代の日本が舞台で、昭和天皇や東條英機をイマジナリーフレンドとし、少年飛行兵に憧れる10歳の日本人の少年をコミカルに描く映画があったとして、同じようなことをやられたらと想像すると、それが例えジョークの一つであったとしても僕は怒ると思う(ナチスドイツと当時の大日本帝国が同じような国家であったなどと言うつもりは毛頭ない)。

 笑えなかった点はまだある。それはベルリン市街戦と思わしき戦闘シーンだ。この映画は戦闘シーンでも笑いを取りにきている。ジョジョの友人であるヨーキーがうっかりとパァンツアーシュレックのようなバズーカ砲を落としてしまい、近くの建物に砲弾が命中してしまう件などがそうだ。これでは笑いを取りにいくことばかりに力を注いでいるような気がしてしまい、戦争そのものの悲惨さが僕に全く伝わってこなかった。腕も足も頭も飛ばない。そう言う意味では『プライベートライアン』の上陸シーンの方が圧倒的に生々しく、悲惨であり残酷である。この戦闘シーンでさらに戦争の悲惨さが薄れていってしまった。せめて腕や足や頭くらいは飛ばすべきだったように思う(僕が見逃していただけなのであれば申し訳ない)。

 ナチズムに対しても「虚構の中で馬鹿なイデオロギーをただ笑っているだけ」のようにしか見えなかった。子供は純粋で無知な存在だからナチズムというイデオロギーに洗脳されたのだろうか。確かに子供は純粋で無知かもしれない。しかしナチズムに魅了されたのは何もジョジョのような子供たちだけではない。20世紀最大の哲学者とされる知性を持ったハイデガーですら擁護してしまった程の、非常に強い力を持ったイデオロギーだった。当時それを信じていたドイツ人達は、幼稚でただ不幸な人達だったのだろうか。そして監督自身が演じていた小腹が出たどこか間抜けなヒトラー像もまたナチズムを笑うことに一助になってるように思う(実際のところナチスは健康は義務であるとし世界初の国策による禁煙運動や食生活改善運動を強力に推進した)。そんなナチズムを敢えてだとしても、笑って窓の外に蹴り飛ばして終わらせることが出来るイデオロギーのようにはとても思えない。

 このように僕は終始笑いを取りにきていることばかりが気になってしまい、戦争の悲惨を感じることもナチズムの恐ろしさを感じることもなければ、笑うことも泣くことも一切無く、絶賛評ばかりの本作に違和感を抱いた訳である。所詮は戦勝国が敗戦国とその国を支配していたイデオロギーを笑う、ただそれだけの映画にしか思えない。敗戦国のイデオロギーを笑う前に、戦勝国の犯した戦争犯罪を笑ってはどうか。連合国はドレスデンに対し無差別に空爆を敢行したではないか。アメリカは日本に対し、性質の違う二種類の原子爆弾を無辜の市民の上に落とし、熱線と衝撃波で大量に殺戮したではないか。この映画を作った人達はその辺りをどう思っているのだろう。

 最後になるが、戦争の悲惨や残酷さを描くには、結局はスタンリー・キューブリックの『フルメタル・ジャケット』のクライマックスのような虚無と静寂こそが何よりも効果的であると改めて思った次第である。

 

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