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『天気の子』を絶賛した僕が”敢えて”『天気の子』を批判する。

 『君の名は。』を確かに面白いとは思ったものの、あまり乗ることが出来なかった僕は、昨年7月に公開された新海誠監督によるアニメ映画『天気の子』を公開初日に鑑賞し絶賛した。その後映画館では8回も鑑賞したし、Blu-rayもコレクターズ・エディション初回生産限定盤をしっかりと購入する予定である。しかし絶賛はしたものの、不満な部分も多々ある。なのでここでは”敢えて”批判してみようと思う。”敢えて”批判するのは『天気の子』と新海誠が今でも好きだからだ。この僕の感情の掃き溜めのような文章を読んでくれている『天気の子』絶賛クラスタ諸氏には、どうか寛大な気持ちで読んで欲しい。なぜ絶賛したかについては別の機会に書くこととする。

 新海監督は「『君の名は。』に怒った人をもっと怒らせたい」と、あるインタビュー記事で発言していた。しかし僕は「だったらもっと本気で怒らせるべきだった」と思う。評論家の宇野常寛氏が自身のPLANETSチャンネルの番組内で「新海監督は『君の名は。』に怒った人を本気で怒らせにいっていないし、その覚悟もない」と語っていたが(当方は宇野氏のファンでありPLANETS会員である。ここで展開していく文章はそのエピゴーネンだと思ってもらって構わない)、僕はその意見に大いに納得した。あの水没した東京では不幸になった人が多数出現したに違いない。水害によって亡くなった人も当然いるだろう。本気で怒らせたかったのであれば、水害で水没していく本当は汚い東京という大都会と東京都民が不幸になっていく過程こそ描くべきだったと思うが、その過程を全て吹っ飛ばしている。拳銃から銃弾を発砲しても人に当たらない。セカイ系といえど、誰も死なないし傷つかない生温いセカイ系だ。『天気の子』に新海誠の作家性が全く存在しないとは言わないが、『君の名は。』以前の彼であればその過程こそを強調して描いたのではないだろうか。さらにRADWINPSの楽曲をあまりにも乱用し過ぎていて、そこには新海誠自身の主張はほぼほぼ無い。そう考えると本当は「俺たちの新海誠」は帰ってきてなどいない。『天気の子』は『君の名は。』での記号を全てひっくり返しただけに過ぎず、『君の名は。』を経たからこそ誕生した。未だに某Kプロデューサーに騙されたままなのである。

 「俺たちの新海誠」は帰ってきていないし、もう多分帰って来ることもないだろう。しかしそれでも僕は未だに彼のことが好きで、昔の彼を忘れられないのだ。是非今一度『秒速5センチメートル』や『言の葉の庭』を見返して欲しい。そこに詰まっているのは彼のフェティシズムだ。金太郎飴のようにどの面を切断しても出てくるものは新海誠で、あの非モテ童貞ナルシスト男子のポエムを爽やかに見せる映画は新海誠にしか作れないし、巷で言われているようなただバッドエンドを好む浅い監督ではない。新海誠が今やるべきことは本当であれば、彼自身のフェティッシュとどう向き合うかなのではないか。申し訳ないが生温い商業目的のセカイ系なんて彼意外でも描くことが出来るのである。『天気の子』を絶賛はするが、そう言った意味では僕は『天気の子』に対して批判的だ。何度もいうがもう昔の「俺たちの新海誠」は帰ってこない。その現実を直視することは怖いが、このままでは何も変わらない。そのことに僕らはもっと早く気付くべきだ。

 

 

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