息子「夕日は赤いのに朝日が赤くないのはなんで?」
我が家は東向きの部屋である。朝には朝日が差し込む。逆に夕日は差し込まない。
先日、保育園の帰り、保育園の帰りに、綺麗な夕焼けが出ていた。綺麗なオレンジ色だった。息を呑むほどの、素晴らしい夕焼けだった。
4歳の息子が、私に聞いてきた。
「朝と似てるけど、なんか違うよね」
その言葉を聞いて、私は感心した。確かに、朝と夕方は、似ているようで違う。そこで、聞いてみた。
「そう?どこが似てて、どこが違う感じがする?」
ん〜、と少し考えて、息子はこう答えた。
「んーとね〜、明るいけどちょっと暗いところとか〜、ちょっと赤いところとか似てるけど〜、でも〜、夕方の方が赤い感じがする〜」
さて、この答えを聞いてみなさまどう感じただろうか。
私はとても感動した。我が息子ながら、よく観察している。確かに、夕日は赤い。それは太陽の高度が低いからであって、朝日もそれに似ている。したがって、朝日も条件が揃えば赤みがかっている時があるのだが、夕日よりは赤くないことが多い。それは、大気中の塵やほこりの量の違いによるのだが…いずれにしても、息子の指摘は科学的にみても正しい。
さて、あなたなら子どもにどう答えるだろうか。このことを知っていたとしても、「光の波長が〜」、なんて説明したとて、4歳の息子にわかるはずがない。
とりあえず、私はこのように答えてみた。
「ん〜とね、難しいね。赤色はね、青色よりまっすぐ遠くまで行けるから、青色がいなくなってからも赤色がみんなのところまで届くんだってよ」
この説明が物理的に厳密かどうか、逆に子どもにとってわかりやすいかどうかもさておいてほしい。
さて、この疑問。つまり夕日が赤いのに朝日が赤くない理由を、私は知っていたが、もし知らなかったら、今のように共感と感心をしていたか、ということだった。
私はそのことを知っていた。たまたまである。強いていえば、大学で気象学や地球物理などの講義を受けていたおかげはあるかもしれないが、その後、自分で調べたこともあるだろう。確かにその通り、よく見ているなと感心する一方で、そのことを知らない大人だったらどう反応しただろうと思った。私も、知らないことについては、「そう?別に似てないよ。全然違う」、なんて応えたかもしれない。
おそらく親は、自分がこだわる分野だったり、信念を持っている分野にこそ、子供からこのように問われた時、それも、一見素朴だがよく考えると深いような疑問に、強く反応し、「いいところに気がついたね!実はね…」、と褒めたり、喜んで説明したりする傾向があると思う。
その興味の対象に遺伝が関係あるかどうかは、私は専門でないし詳しくないのでわからないが、おそらく、多少は関係あるだろう。だとしたら、親が興味のないことに対して、子供が優れた着眼点で良い疑問を浮かべることも少なくないだろう。
そのとき、親は果たして、良い反応を取れるだろうか。「それはね、実はね、」と説明できなくとも、「本当だ、不思議だね。よく気がついたね。なんでだろうね。」と自分が知らないことを認め、その着眼点を褒め、疑問点に共感し、一緒になって探求できるだろうか。
そうした反応一つ一つに、子どもは敏感に反応すると思う。そして親の反応が、子どもが思ったより希薄だったとき、次からは繰り返さないかもしれない。
別に子どもの顔色を窺って過ごそうというわけではない。子どもの着眼点は素晴らしいではないか、それを素直に学び、認め、共感し、一緒に学ぼうということである。夕日は赤いが朝日は赤くない理由を、さらっと説明できたら、なんかカッコいいじゃないか。
例えば、空はなぜ青いのか。雲はなぜ白いのか。水は透明なのに海はなぜ青いのか。少し深掘って考えるだけで、大人が学校で習ってこなかった、もしくは習ったかもしれないが忘れてしまったことは、山ほどあるのだ。
それを、「そういうもんなんだよ。」と吐き捨てるようなことは避けたい。「本当だ、なんでだろうね。」と寄り添い、疑問を持ち、それを他者と共有し、自分なりに考えることに躊躇いを持って欲しくない。それこそが、調べたりAIに聞けば何でもわかる時代に、むしろ必要な力だと思うのだ。
何かを知ることそのものより、知る過程で色々な刺激に出会い、価値観が更新されていくこと。それが、「自分が成長している」と実感できる経験となり、その積み重ねがのちに別の場所で役に立ったりする。それこそが「知る喜び」であり、「勉強する喜び」であり、ひいては「生きることの喜び」ですらあると思う。
「なんでだろう」。「本当にそうだろうか」。「成立する条件と成立しない条件はなんだろうか」。などと考え出す子どもを、もしかしたら面倒だと思う親もいるかもしれない。でも、それこそが、自分で考える力として大切ではないだろうか。