見出し画像

日本の男尊女卑についての考察㊽(天皇家についての考察⑤第十二代③景行天皇〜ヤマトタケル 考察①)

こんばんは、いつもご愛読
ありがとうございます。
今回もよろしくお願いします。

今回は、第十二代:景行天皇けいこうてんのう
から、倭健ヤマトタケルの生涯までを
考察していきたいと思います。

まず、景行天皇には
80人の皇子皇女が居た。
という部分ですが
それら皇子皇女は
皇位継承権を持つ
大碓オオウス五百城入彦イオキイリヒコ小碓ヲウス
3人の皇子を除いて、全て
統治していた地方に派遣され
要職に付いているとされて
いました。

これは何を意味するかと
申せば、景行天皇の直系の
子孫として古事記・日本書紀
の編纂当時には活躍していた。
事実に基づく描写であることが
分かります。

オオウスは自分の父である
景行天皇を偽ったために
弟ヲウスの手によって
殺害されてしまいましたが

その描写もとても残酷に
描かれる理由としては
やはり、死に至らしめた者の
復活を恐れたためではないかと
推察できます。

そこまでするのか?
と思うほどのことを
する必要があったと
捉えるのが自然では
ないでしょうか?

そのために
首を握りつぶし
手足をちぎり
こもに包んで投げ捨てた
という描写になったと
見受けられます。

その理由としては
至極真っ当な理由でした。

兄オオウスは
父親であり大王である、
景行天皇を偽り謀ったために
誅殺されました。

景行天皇にそのつもりは
無かったとしても
景行天皇の臣下としては
見過ごせるような
内容の話ではないはず

それをわざわざ
弟であるヲウスに
命じたのは他でもない
父・景行天皇ですし

残酷残忍な方法では
ありましたが、
当時のヲウスを
罰することは
おそらく誰にもできなかった
と推察できます。

しかし、この一件で
景行天皇から疎んじられ
ヲウスは九州の反乱分子
熊襲クマソ征伐に派遣されました。

この描写は、古事記・日本書紀
編纂当時にはすでに
九州は平定されている
状態だったと読み解くことが
できます。

この地でのヲウスは名を改めて
倭男具那ヤマトオグナ
なっていました。
オグナとは童男とも表します。
つまり、名前というよりも
倭は大和でもあり日本を表す。
男具那は童男とも表しますから
日本の若者 という意味を指す
言葉に変換できます。

つまり、誰を指した固有名詞と
するには無理があるというのが
見て取れます。

このクマソの地で
少し卑怯な戦略で兄弟を
討ち果たします。

叔母であるヤマトヒメから
授かった櫛と着物で
女装し、クマソ兄弟の
宴に潜入し隙を伺い
殺傷してますね。

兄はその場で刺殺され
弟は尻を刺された上で
喉元に刃を突きつけられ
ていました。

その時に名乗りをし
タケルという名を貰いました。

その後、殺した兄弟の亡骸を
細切れにしてますね。

クマソタケル兄弟と古事記には
書かれていますが
具体的に申せば名前ではなく
熊襲という場所にいる権力の
ある兄弟の総称がクマソタケル

地名+タケルのような公式が
見えてきますね。

美女の姿になって宴に潜入しますが
この部分も、なぜかスサノオが
ヤマタノオロチを退治した頃に
酷似していると思えてならない。

スサノオはクシナダヒメを
櫛の姿に変化させて
自らの髪に付け、自身を
クシナダヒメに変化させ 
ヤマタノオロチと
対峙するという描写がありました。

要は騙し打ちではあるんですが
戦略としては間違いではない。
つまり、古事記・日本書紀
の編纂時にはそういう戦略に
精通している有力者が
実際に編纂に携わった
と考えるのが妥当では
ないかと思います。

次に向かうのは
強国出雲ですね。
ここでは豪族として
イズモタケルが登場します。
ヤマトタケルはイズモタケルと
親睦を深め信頼を得て
次の一手に出ます。

二人は共に
河に泳ぎに行くほどの
仲の良さを見せていました。

ヤマトタケルは
その仲の良さを利用して
イズモタケルの太刀と
ヤマトタケルの太刀の
交換を提案し了承を得て
河から先に上がり
イズモタケルの太刀を
自分の腰に佩き

ヤマトタケルは
前もって一位樫の木で
作った偽物の太刀を
河辺に持ち込み

そう気づかずに
イズモタケルは自分の
腰にヤマトタケルが
持ってきた太刀を佩きました、

そうなることを見越して
二人は手合わせをし
抜けない太刀に戸惑う
イズモタケルを
ヤマトタケルは
一刀両断し殺害しました。

これで出雲も大和国に
平定されたと記されています。

この物語も、やはり
正攻法とは言いがたく
騙し打ちに近い雰囲気が
出ています。

なぜ、このような平定の
仕方をしたと書かれるのか?

ヤマトタケルの戦略性の高さ
を伝えたかったというよりも
九州に向かった時の年齢を考えると
それほど大きい軍勢を率いて
居なかったからでは
ないでしょうか?

要は、少数vs多数の状況で
少数が勝とうとする時、
戦略的に動くことで成しえると
いう教訓も含まれていると
推察できます。

そして、熊襲にしても
出雲にしても 古代においては
とても強大な権力を有して国で
あったということは
今までの考察にも
記載があります。

だからこそヤマトタケルに
平定してもらう必要が
強くあったと
言わざるを得ません。

さらに、ここでも出てきました。
地名+タケルの公式
クマソタケルにせよ
イズモタケルにせよ

この公式に則って
名付けられているようです。

この名付けの謎は
次回の考察で明らかに
したいと思います。

次回は
第十二代③
景行天皇〜ヤマトタケル 考察②から 
お話をさせていただきます。

ここまで読んでいただけて
とても感謝しております。

次回をお楽しみに!!




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?