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日本の男尊女卑についての考察㊼(天皇家についての考察⑤第十二代②ヤマトタケル伝説③)

こんばんは、皆様には
いつも読んでいただき
とても感謝しております。
ありがとうございます。

前回は、倭健ヤマトタケル弟橘比売オトタチバナヒメ
走水の海で失いながらも
東国を次々と平定し
タチバナヒメを偲んで
吾妻あづまはや」と
3回口にした所まででした。

今回は、それでもめげずに
ヤマトタケルの
東国平定の旅は続きます。

まずは甲斐かい国(山梨)にて
酒折宮さかおりのみやに連歌が残されました。
「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる。」
新たに筑波を治めてから
幾夜を過ぎても
ここで寝てしまっている。
という意味でしょうか?

その歌に対して返歌したのは
火焚きの老人でした。
日々並かがなべて
夜には九夜 日には十日を。」
日を並べても
夜にすれば九夜
日にすれば十日ですよ。
という意味 そのままですね。

この返歌した火焚きの老人を
東の国造くにのみやつこに任じて
ヤマトタケルは信濃しなの(長野)に
向い、ここでも坂の神を退け
平定しました。

この後ヤマトタケルは尾張に
到着し、かねてより婚約していた
美夜受比売ミヤズヒメとの
結婚を果たし初夜を迎えますが

その頃、ミヤズヒメは月経を
迎えていたと
古事記には記されています。

この時にヤマトタケルも
「天香山を飛んでいる
白い鳥のような君の腕を
我は抱きたくて仕方ない。
抱きたくて仕方ないが
君の裾には月(月経)が
見えているよ。」
みたいな内容の歌を読み

ミヤズヒメは
「光り輝く我が王よ。
我が君は東国を平定するにも
いく月もいく日もかかります。
待ち焦がれた私の
裾に月(月経)が出るのも
しょうがないのです。」
という内容の返歌を
ヤマトタケルに詠んだと
記されています。

かなり露骨ですね・・・w

こうして二人は尾張で
結婚し幾日も過ごしました。

いよいよ、出立の時が
近づきます。
ヤマトタケルは草那藝剣クサナギノツルギ
守刀としてミヤズヒメに預け
素手で伊吹山いぶきやま(滋賀•岐阜)に
向かいます。

伊吹山に到着した
ヤマトタケル一行は
牛ほどもある白い大猪を
眼前に見ながら
「きっとあの白い大猪は
伊吹山の神の使いに違いない。
帰りがけに殺せば良かろう。」と
言挙ことあげを残し、
その場から立ち去ろうとします。

ちなみに、言挙げとは?
大声で宣言するということ、
きっと実行するぞ!という
時に行われるものですね。

すると、にわかに
空が暗くなり、暗雲が立ち込め
大氷雨ひょう
ヤマトタケル一行を襲い
ヤマトタケル達を苦しめます。

白い大猪は神の使いではなく
伊吹山の神そのもので
ヤマトタケルの言挙ことあげに
激怒し、大氷雨ひょうを降らせ
ヤマトタケルを呪い
そのためヤマトタケルは
失神しました。

命からがら山を降りた
ヤマトタケル達でした。
居醒いざめの清水で
正気を取り戻しますが
すでに、ヤマトタケルは
病を患う体に
なってしまいました。

大和国を目指し歩きますが
すでに満身創痍で杖なしでは
歩くのもままならないほど衰弱
していました。
当芸・杖衝坂・尾津・三重村
などを経由し、
その地の名残となる
逸話を残しながらも

ようやくの思いで
能煩野のぼの(三重県亀山市あたり)に
辿り着きました。

我が命は終えてしまうと
悟ったヤマトタケルは
「倭は国のまほろば 
 たたなづく 青垣 
 山隠れる 倭し麗し」
「命の またけむ人は 
 たたみこも 平群の山の 
 熊樫が葉を
 髻華に挿せ その子」
「はしけやし 我家の方よ 
 雲居立ちくも」
「乙女の床のべに 
 我が置きし 剣の大刀 
 その大刀はや」
の四首の和歌を詠み
能褒野の地で息絶えました。

その地に陵墓を建造しました。

ヤマトタケルの御子や妃は
大和から能褒野に到着し
嘆き悲しみながらもその陵墓を
這いずり周ります。

この時に詠まれた歌が
「なづきの田の 稲がらに 
 稲がらに もとほろふ
 野老蔓ところづら

その御陵からは八尋白智鳥ヤシロシロチドリ
現れ、ヤマトタケルの霊魂であると
見定め、ヤマトタケルの
御子や妃達は竹や葉で
我が身が傷つくのを厭わず
追いかけました。

この時に詠まれた歌が
浅小竹原あさじのはら 
 腰なづむ 空は行かず 
 足よ行くな」

そしてヤヒロシロチドリが
海を行けば船に乗って
追って行きます。

この時に詠まれた歌が
「海が行けば 腰なづむ
 大河原の 植え草 
 海がは いさよふ」

さらに、ヤヒロシロチドリが
磯伝いに飛び立った時も
見失わないように
御子や妃達は後を追います。

この時に詠まれた歌が
「浜つ千鳥ちどり 
 浜よは行かず 磯づたふ」

これら随所で詠まれた四首の
和歌は現在も天皇葬儀の際に
詠み挙げられる大御葬歌として
扱われています。

そうしてヤヒロシロチドリは
最後に河内国(大阪)の志畿しき
留まり追ってきた御子や妃を
悲しげに見つめ空に
飛び去って消えた。

とされていますね。

ヤマトタケルの陵墓とされている地は
三重県亀山市にある
能褒野墓のぼののはか
奈良県御所市にある
白鳥陵しらとりのみささぎ
大阪市羽曳野市にある
白鳥陵しらとりのみささぎ
上記の三つの陵墓が有名です。

ヤマトタケル伝説としての
物語はここまでです。

次回は、第十二代③として
景行天皇、ヤマトタケルに
まつわる考察を進めていこうと
思います。

ここまで読んでいただけまして
誠に嬉しく思います。
今後ともよろしく
お願いいたします。

次回をお楽しみに!!


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