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日本の男尊女卑についての考察㊻(天皇家についての考察⑤第十二代②ヤマトタケル伝説②)

こんばんは いつもご愛読
とても感謝しております。
今回もよろしくお願いします。

前回は倭健ヤマトタケルが出雲を
平定したところまでお話ししました。

今回はヤマトタケルが大和に
帰還するというところから
お話を始めます。

ヤマトタケルは熊襲、出雲を
平定し、大和国に凱旋しました。
父・景行天皇に目通りを願うと
それに及ばずと
東国征伐に迎えとの
命が下されました。

叔母である倭姫ヤマトヒメ
目通りし相談をしました。
「父上は、我を避けておられる。
我に死ねと仰っているのだろうか。」

ヤマトヒメは
「決してその様なことは、、、
大王も貴方を頼りにしている
のでしょう。
今度は東国に向かわれると
聞き及びました。
ならば、これらを
貴方に託します。」
とヤマトタケルを慰め
一振りの剣と袋を
手渡しました。

「叔母上様 これは?」
タケルは尋ねます。
「この剣は霊剣:草那藝剣くさなぎのつるぎです。
その袋は、いざという時に
中をあらためなさい。
必ず、役に立つはずです。」
ヤマトヒメは幼さの残る甥を
優しそうな表情で見送りました。

東国に向かう途中
ヤマトタケルは
尾張国(愛知)にて
美夜受比売ミヤズヒメと婚約します。

相模国(神奈川)では、
相模国造に謀られ悪神を退治
する様に依頼を受けた
ヤマトタケルは野原に
駆け出すと相模国造は
その野に火を放って
ヤマトタケルを焼き殺そうと
しました。

死地に陥ったヤマトタケルは
叔母ヤマトヒメから頂戴した
袋を開け、中を確かめると
火打ち石が入っていました。

ヤマトタケルは手前の草を
薙ぎ払い、火打ち石で火をつけ
迎え火によって相模国造を逆に
炎によって、退けました。

そして、生還したヤマトタケルは
相模国造らを切り殺し亡骸に
炎を放ち燃やしてしまいました。
その地を焼津と呼ばれます。

続いて、相模国から上総国(千葉)へ
走水の海を渡ろうとする時
ヤマトタケルは
「このような海なぞ
我は一っ飛びで超えてみせる。」
と豪語しました。
すると海神は激怒し
大荒れに荒れ、幾日も足止めを
余儀なくされました。

その時 ヤマトタケルの妃
弟橘比売オトタチバナヒメ
「私が海の神と
直談判に参りますので
タケル様ご安心ください。」
と伝え、海上に
菅畳八重、皮畳八重、絹畳八重を
用意させ、その上にタチバナヒメは
座りました。

その時に詠んだ歌が
『さねさし 
相武の小野に 
燃ゆる火の 
火中に立ちて 
問ひし君はも』
と記されています。

意味としては
【相模野の
燃える火の中で、
私を気遣って声を
かけて下さったあなたよ】
という風になりますね。

その様子を伺いながらも
なんの手出しも出来ず
ヤマトタケルは
見守り続けました。

すると、荒れに荒れた海は
静まり、ヤマトタケルは先に
進むことができました。

七日後、走水の浜には
タチバナヒメの櫛だけが
流れつき、その場所に
タチバナヒメの陵墓を
建造したと言われています。

その後のヤマトタケルの
快進撃は続き
各地の蝦夷えみしたちや
(蝦夷えみしとは異国の敵の意味)
荒ぶる神を屈服させ
東国の平定を成し遂げます。
その時に
「吾妻はや、、、」と
三度口にして
海に消えた妃
オトタチバナヒメを
偲びました。

ここから東国を指して
東をアズマと読むように
なったとされています。

都から東を外国という
価値観で見ていたとする習慣は
後の江戸時代にも
見受けられましたね。
【都から見て東国は
野蛮人であるという意味を
込めて東夷アズマエビス
呼んでいたとされています。】

今回のお話はここまで

次回はいよいよ
ヤマトタケルの
クライマックスですね。
次回、第十二代②
ヤマトタケル伝説③
をお話しいたします。

ここまで読んでいただけて
とても嬉しく思います。

次回をお楽しみに!!

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