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日本の男尊女卑について考える。

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あくまでも私見ではありますが 日本における男尊女卑の歴史について書いてみました。
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#考察

日本の男尊女卑についての考察㊾(天皇家についての考察⑤第十二代③景行天皇〜ヤマトタケル 考察②)

こんばんは、 いつも読んでいただき とても感謝しております。 今回は前回の引き続き 倭健の英雄譚に ついての考察を させていただきます。 前回、ヤマトタケルは 熊襲、出雲を智略によって 平定したというお話の考察 まででした。 九州・山陰の反対勢力を 平定し大和国に凱旋し 父親である景行天皇に 謁見を申し出るも 叶わず、新たな征討令が ヤマトタケルに下されました。 腑に落ちないヤマトタケルは 叔母であるヤマトヒメの元に 訪れ、内憂を吐露していますね。 おそらく、古事記

日本の男尊女卑についての考察㊽(天皇家についての考察⑤第十二代③景行天皇〜ヤマトタケル 考察①)

こんばんは、いつもご愛読 ありがとうございます。 今回もよろしくお願いします。 今回は、第十二代:景行天皇 から、倭健の生涯までを 考察していきたいと思います。 まず、景行天皇には 80人の皇子皇女が居た。 という部分ですが それら皇子皇女は 皇位継承権を持つ 大碓・五百城入彦・小碓の 3人の皇子を除いて、全て 統治していた地方に派遣され 要職に付いているとされて いました。 これは何を意味するかと 申せば、景行天皇の直系の 子孫として古事記・日本書紀 の編纂当時には活

日本の男尊女卑についての考察㊼(天皇家についての考察⑤第十二代②ヤマトタケル伝説③)

こんばんは、皆様には いつも読んでいただき とても感謝しております。 ありがとうございます。 前回は、倭健が弟橘比売を 走水の海で失いながらも 東国を次々と平定し タチバナヒメを偲んで 「吾妻はや」と 3回口にした所まででした。 今回は、それでもめげずに ヤマトタケルの 東国平定の旅は続きます。 まずは甲斐国(山梨)にて 酒折宮に連歌が残されました。 「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる。」 新たに筑波を治めてから 幾夜を過ぎても ここで寝てしまっている。 という意味でしょう

日本の男尊女卑についての考察㊻(天皇家についての考察⑤第十二代②ヤマトタケル伝説②)

こんばんは いつもご愛読 とても感謝しております。 今回もよろしくお願いします。 前回は倭健が出雲を 平定したところまでお話ししました。 今回はヤマトタケルが大和に 帰還するというところから お話を始めます。 ヤマトタケルは熊襲、出雲を 平定し、大和国に凱旋しました。 父・景行天皇に目通りを願うと それに及ばずと 東国征伐に迎えとの 命が下されました。 叔母である倭姫に 目通りし相談をしました。 「父上は、我を避けておられる。 我に死ねと仰っているのだろうか。」 ヤ

日本の男尊女卑についての考察㊺(天皇家についての考察⑤第十二代②ヤマトタケル伝説①)

こんばんは、いつもご愛読 誠に感謝しております。 よろしくお願いします。 前回は、第十二代:景行天皇の 皇位継承権のある子:小碓が 父:景行天皇から遠ざけられた 経緯をお話ししました。 今回はヲウス改め、倭男具那と なって熊襲(鹿児島)征伐に 向かうお話から進めます。 ヲウスはヤマトオグナ(以下、オグナ)と 名を改め 一路、熊襲に向かいます。 熊襲に到着したオグナ一行は 熊襲の豪族:熊襲武兄弟の 館を見つけ様子を伺います。 クマソタケル兄弟は ホデリ(海幸彦)の子孫

日本の男尊女卑についての考察㊹(天皇家についての考察⑤第十二代①)

こんばんは、 皆様にお読みいただけて とても感謝しております。 今回は、第十二代:景行天皇に ついてのお話をさせて頂きます。 第十二代:景行天皇 在位年数:43年 年齢:143 この天皇に至っては 多くの側室を持ち 皇子・皇女が80人を数え 皇位継承権を持つ皇子が 大碓・五百城入彦・小碓 の3人がいました。 その他の皇子・皇女は全て 他の地に封じて役割を 与えました。 多くの側室を持っていた 景行天皇ですが、 美濃(岐阜)国にいる とても美しい姉妹の噂を聞き 姉・エヒ

日本の男尊女卑についての考察㊸(天皇家についての考察④第十一代③)

こんばんは、いつもお世話に なっております。 今回もさっそく参りましょう。 前回までは 第十一代:垂仁天皇に まつわる物語を ①と②で話しました。 今回はそれぞれの話の考察を して参りたいと思います。 まず①で登場しました。 沙穂比売ですが かなり心身的にも 追い詰められて苦渋の選択を 迫られていましたね。 問題はサホヒメの兄:佐穂毘古の 存在に尽きると思います。 この兄妹が冠している佐穂とは 単純に地名を表している と思います。 現在の奈良市にある佐保と 言う

日本の男尊女卑についての考察㊷(天皇家についての考察④第十一代②)

こんばんは、いつも読んでいただき とても嬉しく思います。 前回は第十一代:垂仁天皇 の后で兄と共に 果てた沙穂比売との 悲しき物語をお話ししました。 今回は、そんな垂仁天皇と サホヒメの子:本牟智和気の お話を始めさせて頂きます。 ホムチワケは、 成人する年になっても 一言の言葉も発することが できず、父・垂仁天皇は とても困惑しました。 垂仁天皇の夢に 大国主が現れ 垂仁天皇に話しかけました。 「我が名は隠世大神にして 国津神の長・オオクニヌシである。 国譲りの時の

日本の男尊女卑についての考察㊶(天皇家についての考察③第十一代①)

こんばんは、今回もまた 古代天皇家についての考察を 進めさせて頂きたいと思います。 よろしくお願いします。 今回最初にご登場いただく 天皇は 第十一代:垂仁天皇 在位:99年 年齢:139 この天皇もまた、とんでもなく 長期政権で、それに伴い とんでもなく御長命で有られます。 しかし、、、やはり 真偽の程はかなり怪しい。 第二十六代:継体天皇に 酷似している逸話が多く 見受けられる天皇でもあります。 しかし、垂仁天皇の功績として 古事記や日本書紀に 見られる物語として

日本の男尊女卑についての考察㊵(天皇家についての考察②第十代)

こんばんは、今回も あまり男尊女卑に 直結するお話ではありませんが 日本の文化として 避けて通れないという観点から 天皇家についての考察を 進めて参ります。 前回は、欠史八代の話を させて頂きました。 今回はその続き 第十代:崇神天皇の お話から始めさせて頂きます。 第十代:崇神天皇 在位年数:68年 年齢:119 この崇神天皇は特に重要視され 初代神武と同じ名前である 【ハツクニシラススメラノオオキミ】 を持つ天皇でもあることから 古事記・日本書紀の 編纂がされる

日本の男尊女卑についての考察㊴(天皇家についての考察①欠史八代?)

今回もよろしくお願いします。 前回で古事記 上つ巻の内容を 全て話し終えまして、 イワレビが神武天皇即位した と言うところまで お話しさせて頂きました。 今回は、天皇家について お話をさせて頂きます。 初代:神武天皇 在位年数:76年 年齢:127 第二代:綏靖天皇 在位年数:33年 年齢:84 第三代:安寧天皇 在位年数:39年 年齢:67 第四代:懿徳天皇 在位年数:34年 年齢:77 第五代:孝昭天皇 在位年数:83年 年齢:114 第六代:孝安天皇 在位年数:1

日本の男尊女卑についての考察㊳(古事記⑦神武即位までの道のり③考察)

今回もよろしくお願いします。 いよいよ古事記 上つ巻の集大成 神武天皇が即位したという話は 前回にいたしました。 今回はイワレビが生まれて 神武天皇にまでに至った経緯 についての考察をさせて 頂きます。 イワレビは 長兄イツセ 次兄イナイ 三兄ミケヌ 三人の兄を持つ末子として 生まれました。 15歳の頃 立太子として兄達を 差し置いてしまってます。 その理由として とても聡明で目立っていた とされていますね。 何故このような表現になり 古事記に表されているか? そ

日本の男尊女卑についての考察㊲(古事記⑦神武即位までの道のり②)

今回もよろしくお願いします。 前回はイワレビの 長兄イツセがナガスネヒコから 負った矢傷を悪化させて 憤死し、東征軍の全権を イワレビに託した。 というところで終わりました。 今回は、その続きから イワレビ率いる東征軍は 紀伊国(和歌山)熊野に 到着した時、巨大な熊が現れ 行手を遮ります。 しかし、その大熊は すぐに姿を眩まし、 イワレビを始めとする。 東征軍は昏睡して しまいました。 そこに高倉下が 霊太刀を携え現れ あたりを太刀で 一振り薙ぎ払いました。 すると、

日本の男尊女卑についての考察㊱(古事記⑦神武即位までの道のり①)

いつも読んでいただけて とても感謝しております。 今回は神武天皇即位までの 経緯を順を追ってお話をさせて 頂きたいと思います。 まず、神武天皇の 生い立ちから 神武天皇に即位するまでは 神倭伊波礼毘古、 若御毛沼、豊御毛沼、 などと古事記には表されますが この回ではイワレビで 統一させて頂きます。 イワレビは 天孫ニニギを曽祖父とし、 山幸彦(ホヲリ)を祖父とし、 鵜萱葺不合を父とします。 この3代を日向三代と 呼ばれ特に尊崇を集めます。 フキアエズの四子として誕生し