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平原綾香『常に進化し続ける歌姫』(後編)人生を変えるJ-POP[第24回]

たったひとりのアーティスト、たったひとつの曲に出会うことで、人生が変わってしまうことがあります。まさにこの筆者は、たったひとりのアーティストに出会ったことで音楽評論家になりました。音楽には、それだけの力があるのです。歌手の歌声に特化した分析・評論を得意とする音楽評論家、久道りょうが、J-POPのアーティストを毎回取り上げながら、その声、曲、人となり等の魅力についてとことん語る連載です。

連載24回目は、平原綾香さんを扱います。19歳で楽曲『Jupiter』でデビューした彼女は、音楽人、歌姫であることに常にストイックで、進化し続けているアーティストと言えるでしょう。特に近年はミュージカルの分野にも進出し、幅広い活躍を見せている彼女の歌手としての魅力、歌声の魅力などを紐解いていきたいと思います。

前編はこちらから)

「重厚な交響曲に合わない」と思っていた歌声が…

平原綾香が19歳で『Jupiter』でデビューした頃、実は、私は彼女の歌声を好きになれませんでした。なぜなら、『Jupiter』という重厚な交響曲のイメージに余りにも彼女の歌声が似合わなかったからです。

多くの人がもてはやしましたが、私には彼女の透明的というよりはまだ未成熟に近い歌声の響きに違和感を抱いたのを覚えています。

さらに彼女がNHKの番組で実際に歌っているのを聴いたときの印象がCD音源での歌声と全く違ったこともあります。当時の彼女の低音域は、ソプラノ歌手にありがちな響きが抜けてしまってブレス音だけ、という状態だったのです(この時の印象を私は個人ブログに書いています)。

しかし、その後、彼女の印象は私の中で大きく転換したのです。

私が彼女の歌声に再び出会ったのは、それから10年ほど経った2013年ごろだったと思います。NHKの『ダーウィンが来た!生きもの新伝説』での歌を聴いたときでした。非常にソフトで深い響きの歌声に「誰が歌っているんだろう」と思ったのです。

私自身がクラシックの声楽をしてきた経験から、歌手の歌声には人一倍敏感になります。

特にボーカリストの低音部の響きというのがきちんと歌えているかどうかは、その歌手の実力に直結すると感じるのです。なぜなら、高音部は誰もが出しやすい音域で訓練でも伸ばしやすい音域ですが、低音域は、その歌手がどこまで「歌声の響き」というものに対して細心の注意を払っているかが現れるからです。

低音部を響きが抜けることなく歌えるのは、しっかりした訓練ができている証拠とも言えます。特に日本人に多いハイトーンボイスの歌手は、低音域を充実した声で歌えるかどうかが、その歌手が長く生き残っていけるかの歌手生命に直結します。

クラシック経験者としての歌声、その魅力とは

元々、J-POPしか歌ってこなかった人たちの歌声と、クラシックを経験したことがある人の歌声には全く違うものがあり、クラシック畑から出てきた人は多くがミュージカルのジャンルに進出します。そのため、J-POPを歌う人は非常に少ないと言えるでしょう。

そういう中で彼女が『Jupiter』を歌ってデビューしたというのは、こうやって評論家として軌跡を辿ると非常に意味のあることだとわかるのですが、彼女がデビューした当時、音楽評論家でもなかった私は、そういう考えを持ち合わせていませんでした。

ですが、この番組のテーマソングである『スマイルスマイル』を聴いたとき、彼女の歌声が非常に魅力的だったのです。

その後、彼女がどんどん音域を広げ、さらに響きを深め、多種多様な色合いを見せるようになったのをずっと拝聴してきました。

今の彼女の歌声は、デビュー当初の歌声の響きとは全く違う深い厚みのある響きをしています。これは、彼女が女性として年齢を重ねていく過程の中で、声帯という器官が成熟してきたことも大きな要因の一つと言えるでしょう。

しかし、それだけではなく、その成熟度に合わせて彼女が歌い方を常に研究し変化させてきた、自分の歌声に対する飽くなき探求心というものが大きいと感じます。

彼女ほど自分にストイックに向き合う歌手はいないと思うのです。

多種多様な色彩の響きで、多彩な楽曲を歌いこなす

今、彼女の歌声は実に多種多様な色彩の響きを持っています。全体的な歌声の響きはソフトで透明感の大きい響きを主体にしています。響きに尖った部分がなく、非常に滑らかで幅広い響きをしているのが特徴です。

ですが、その歌声は音域や彼女が打ち出したいメッセージによって、真っ直ぐに通ってくる響きのストレートボイスや芯のある充実した響きの声など、大きく色合いを変化させてきます。

彼女は元々の音域的にはソプラノ、又はハイメゾと言って、高めのメゾソプラノだと感じます。この音域を持つ人は、低音域を歌うのに非常に苦労します。声帯が低音域を歌えるほどの長さを持っていない人が多いからです。

ですから、彼女もデビュー当初は低音域の響きがほぼブレス音になってしまい、響きが抜けていました。しかし、その後、彼女はきちんと低音域も響かせて歌えるようになっています。

非常に魅力的でソフトな深い響きを持っているのが特徴で、これは、地声というよりは、胸声と言って、胸に歌声を響かせて歌う方法を取っていると思います。胸声を使うと、響きが非常に深い色になりやすいのです。

また、近年、彼女は、ホイッスルボイスも使っています。これは高音域の歌声ですが、ホイッスルボイスというのは、字面の通り、笛を吹くような歌声のことを言います。

特に彼女は、このホイッスルボイスをヴォカリーズの部分によく使います。
ヴォカリーズというのは、歌詞がなく、アー、とかウーとかの母音だけで音階を行ったり来たりしながら歌う唱法のことで、楽曲のクライマックスによく使われます。

この唱法ができる人は非常に限られており、女性ボーカリストでは、彼女とMISIAが有名ではないでしょうか。

元々、この歌い方はクラシックの発声の基礎がなければ、なかなか習得できないと言えるでしょう。この歌声をJ-POPで使うには、低音域のチェストボイスから、中音域のミックスボイス、さらには高音域のヘッドボイスからのホイッスルボイス、という風に、メロディーが広い音域に移動しても、これらの歌声を使いこなせるだけのテクニックが必要ということになります。

彼女は、元々、サックス奏者で、声楽出身ではありません。ですから彼女はデビュー当時のことをインタビューで次のように答えています。

「昔は歌のド素人だったので、悩んでいたんです。どうやって歌ったらいいかわからなかったし、かと言って先生にも習ってないし、習う時間もなければ習うっていう以前の問題だとも思っていたから。その、ある意味、変な真面目さはサックスを吹いていたからだと思います。サックスは1日2日じゃ吹けない。訓練して訓練して、初めて自分のものになっていくというのを実感していたから」(2021.6.10.BARKSインタビュー

彼女にとって、『Jupiter』でデビューした頃は歌に関しては手探り状態だったのかもしれません。

しかし、それから絶え間なく彼女は努力し続けたと言えます。それが、今の彼女の多彩な歌声とクラシックのカバーから、ジャズ、J-POP、R&B、ミュージカルと多様な種類の楽曲を歌いこなせるようになった証拠でしょう。

ストイックな自己管理でますます進化する歌声

彼女の歌に対するストイックさは、そのまま自己管理にも現れています。以前、テレビで「就寝中にはマスクを着け、声帯の乾燥を防ぎ、さらに夏でも長袖のパジャマを着用、首にはスカーフを巻いて体が冷えないようにしている」ということを話していました。

就寝中の声帯の管理は、歌手にとっては非常に気を使うものです。特に就寝中に空調や季節の変わりめに声帯や喉が乾燥してしまい、朝起きたら、喉が痛かった、という経験は誰にでもあるのではないでしょうか。

一般人にとっては、「喉が痛かった」で済む乾燥ですが、歌手にとっては、声帯のコンディションに直結する問題です。

業界でもストイックな歌手で有名はB’zの稲葉浩志は、声帯の乾燥を防ぐために、楽屋に加湿器を持ち込み、冷暖房の空調が影響しないように、楽屋の扉に目張りをするほどの気の使いようです。

歌手によっては、全く声帯のコンディションに気を使わない人もいますが、プロであるなら、そして、長く歌手生命を維持したいなら、彼女や稲葉浩志のような自己管理は当然のことと言えるでしょう。

このように非常に自分の身体や声帯のコンディションも大切にする彼女の歌声はますます進化を遂げており、非常に安定した歌声がいつでも聴ける歌手です。

玉置浩二が彼女に贈った楽曲『マスカット』は幼少時から彼女のことを可愛がってきた玉置が彼女の成長を葡萄に喩えて作った曲ですが、この曲での彼女のヴォカリーズは見事です。彼女の歌声を堪能するのにもってこいの1曲と言えるでしょう。

毎年、大阪のフェスティバルホールで行われるコンサートでは必ずアカペラで1曲を歌う彼女は、現代の歌姫の呼称に相応しい歌手なのです。

まだ30代。これからの進化が楽しみです。


久道りょう
J-POP音楽評論家。堺市出身。ミュージック・ペンクラブ・ジャパン元理事、日本ポピュラー音楽学会会員。大阪音楽大学声楽学部卒、大阪文学学校専科修了。大学在学中より、ボーカルグループに所属し、クラシックからポップス、歌謡曲、シャンソン、映画音楽などあらゆる分野の楽曲を歌う。
結婚を機に演奏活動から指導活動へシフトし、歌の指導実績は延べ約1万人以上。ある歌手のファンになり、人生で初めて書いたレビューが、コンテストで一位を獲得したことがきっかけで文筆活動に入る。作家を目指して大阪文学学校に入学し、文章表現の基礎を徹底的に学ぶ。その後、本格的に書き始めたJ-POP音楽レビューは、自らのステージ経験から、歌手の歌声の分析と評論を得意としている。また声を聴くだけで、その人の性格や性質、思考・行動パターンなどまで視えてしまうという特技の「声鑑定」は500人以上を鑑定して、好評を博している。
[受賞歴]
2010年10月 韓国におけるレビューコンテスト第一位
同年11月 中国Baidu主催レビューコンテスト優秀作品受賞