見出し画像

『正しい努力』って何?

『正しい努力』って何?
成果が出ていない人に、「それは努力が間違っているから」と言う人がぼくは嫌い。
だって、『正しい努力』とは後だしだから。

正しい努力は結果論

正しい努力とは。
間違った努力とは。
この二つを区別することはなんだろう。

それは、成功したかどうかだ。
成功すれば、正しい努力になる。
成功しなければ、間違った努力になる。
努力そのものを見て、正しい・間違っているを結論付けている人はいない。
まだ成功していない姿を見て、人は「あれは間違った努力だ」と評する。

エジソンは、1万回失敗した。
1万回の失敗を、間違った努力という人はいない。
なぜなら、その後の彼の功績を無視できる人はいないから。

ライト兄弟の名を知らない人はいない。
有人飛行を人類史上初めて成し遂げた人物。
その彼らが、飛べない失敗を何度も繰り返したのは間違った努力か。

カーネル・サンダース。
65歳の彼は、フライドチキンのレシピを売るためにアメリカ中のお店を巡り、ことごとく断れた。
断れた彼の努力は、間違った努力と言えるのか?
今のKFCの繁栄を見て、間違っていたという人はいない。

偉人たちの果てしない失敗の数々は、普通の人には想像もつかないほど辛いものだっただろう。
そこで諦めていれば、彼らの努力は間違った努力で終わっていた。
しかし、彼らは諦めなかった。
成功した。結果を出した。
だから、彼らの努力は正しい努力として評価されている。

努力の内容は、正しさも間違いも決めることはできない。
結果こそが、正しいかどうかを決める。

すぐに成功するのは赤信号

間違った努力というと、すぐに結果が出ない努力を指している場合が多い。しかし、それは危険である。

故外山先生は、『失敗談』という著書を出版している。

https://amzn.to/3OICx3h

著書の中で先生は、失敗した経験が多い人間ほど、成長の伸びしろが高いとしている。

「付属がある大学の場合、大学卒業時に最も成績が良いのは、大学入試で編入した学生。次いで、高校入試・中学入試と続き、最も成績が悪いのは小学入試者に多い」

付属学校がある大学は、付属学校に入学さえすれば、あとはもうエスカレーター式に大学まで行ける。
しかし、小学校という早い段階で『成功』してしまった学生は、その後の伸びしろが危うい。

早くに成功してしまうと、その後の人間は堕落し、努力しない。伸びることが無い。安心しきって努力を怠る。
失敗せずにすぐに成功してしまうのは、危険であると本著は警告している。

正しい努力を押し付ける人たち

ぼくが正しい努力を嫌いなのは、それを押し付ける人がいるからだ。

人の成功していない様を見て、「正しい努力をしていないからだ」と押し付ける人がいる。
だけど、ぼくは思う。
「お前は預言者にでもなったつもりか」と。

前述したように、正しいか間違っているかは、結果論でしかない。
成功すれば正しくなり、成功していないから間違っている。
だけど、未来永劫その努力で成功しないというのは、誰だろうとわかるものじゃない。
分かるのは、「今は成功していない」ということだけ。
1か月後、1年後、5年後…そのときにどうなのかは、誰にも分からないことだ。

にもかかわらず、他人の努力を「間違った努力」と決めつけるのはいかがなものか。
仮に、正しい努力を押し付ける人が、他人の努力を過去に実行済みで、それで成果が出なかったとしても、それはその人がそこで諦めたからに過ぎない。

小学校入試で落ちた子供が、中学校入試でも落ちたからと諦めればそれで終わりだ。
だがそこでも諦めず、高校、さらには大学入試で編入を決めることで、最も優秀な学生になっていくのは前述したとおりだ。

そして、正しい努力を押し付ける人たちは、カモを求めている。
正しい努力を、安易な成功を求める人たちはカモだ。
失敗を恐れ、成果が出ないことを怖れる人たちは、正しい努力を押し付ける人たちにとってカモだ。
彼らは、間違った努力という不安を植え付けようとする。
あなたのやっていることを間違っていると否定し、自分の正しい努力を押し付ける。
それによってあなたを信者化し、あなたの信頼・資産を奪おうとしている。

ぼくのしていることを間違った努力と否定し、不安を煽る。
そして、正しい努力という名の教材を売りつけてくる。
だからぼくは、正しい努力を押し付ける人たちが嫌いだ。

成果が出ない努力こそ正しい努力と信じる

過去の偉人、そして『失敗談』が示すように、正しい努力は芽が出ない期間が恐ろしく長い。

だが、それでいい。

短い期間で、たいした努力もせずに成功するほうを恐れたほうがいい。
安易な成功は、自分を腐らせる。

例えば、簡単に成功してしまうと、次の挑戦も浅い努力で成功すると信じ切ってしまう。
しかし、次はなかなかうまくいかない。
こうなると、最初の成功体験がむしろ足を引っ張る形になる。
「あんなに簡単にうまくいったのに」という思いが、粘り強さを消し去る。
結果、すぐに諦め次の挑戦に進む。だが、つぎもうまくいかない。こうなると積みあがるのは、失敗の経験ばかりになる。
ついに挑戦すること自体を諦める。

誰だって成果は欲しい。成功したい。
ぼくだってそうだ。
だけど、目の前の成果に飛びつき、安易な成功を望むのは、人生においてむしろ毒だと思っている。

こう考えれば、成果が出ない努力こそ続けるほうがいい。
そう信じている。
成果が出ない今は、土台をしっかり築いている時期だと思っている。
土台も無いのに家を築けば、見た目には成果が見える。
だけど、土台の無い家は、ちょっとした災害にもろく、崩壊しやすい。
土台も作らず、家を建てるのが、正しい努力を求める姿に見える。

見えるものに惑わされず、見えないものに集中する。
芽が出ずとも、その下では着々と根が伸びている。
それを信じて、ぼくは今日も成果が見えない努力を続ける。

石の上にも三年

冷たい石の上でも3年も座りつづけていれば暖まってくる。がまん強く辛抱すれば必ず成功することのたとえ。

引用元:goo辞書

最近はこのことわざは否定されがちに見える。
ブラック企業に3年も勤める必要など無いと言われることが多い。

しかしこのことわざは、失敗を恐れ、3年も待てずに成功を求めることへの警告とも言える。
別にぼくは、ブラック企業に3年勤めろと言いたいわけではない。
そのブラック企業で成し遂げたい何かがあるわけでもないなら、もちろんさっさと辞めていいと思う。
だけど、何かを成し遂げたいと思うなら、3年は成果が無いと思うこと、むしろ3年経たずに成果が出てしまったなら、むしろ警戒するくらいがいい。

まずは3年。
3年は地面に埋もれたままのつもりで、成し遂げようと挑戦する。
それこそが、成功の秘訣ではないのか。

どうしてこのことわざで、『3年』がキーワードになったのか。
きっと、昔の人の経験則なんだと思う。
石が温まるには3年かかる。芽が出るのも3年かかる。3年は成果が無いのを耐える。
3年。これが基準。これに耐えてこそ、本当の成功が見えてくるんだと思う。

結果論の正しい努力に惑わされない

正しい努力は結果論だ。
誰にも、あなたの今の努力が、正しいのか間違っているのか判断はできない。
未来人でもない限り。

間違っていると否定してくる人には注意だ。
人の努力を間違っていると否定することで、この人には何の得があるんだろう?と考えてみよう。きっとその裏に、売りたい商材が待ち構えているから。

「正しい努力」という幻に惑わされないこと。
そんなものは、後からいくらでも言えるのだから。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?