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善意を無条件で信じる愚かさ

善意とは、無条件で信じていいものではない。
必ず疑うべきものだ。
無条件で信じれば、その先にはあなたが利用されるだけの未来しかないのだから。

善意を疑うきっかけ

ぼくが善意を疑うようになったのは、↓の本を読んだことがきっかけ。

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児童相談所、薬、輸血。
本来であれば、人助けという善意のもとに行われている(と思い込んでいた)行為が、実は恐ろしいほどの闇を隠していた真実。
人の善意を疑いたくない人は絶対読まないほうがいい。

けれど、この記事を読みに来た人は人の善意をどこか信じ切れない人なんだと思う。
善意を押し付けられて、断ったら怒られたことがある人かもしれない。
そういう人なら、人の善意に隠れた恐ろしいまでの悪意を知るという意味で読んでもいいと思う。

人は欲ありきでしか動かない

人は欲があるから動く。
欲が無ければ動かない。

もし太っている人なら、痩せたいという欲がある人は運動したり、食事制限をしたりする。
しかし、痩せたい欲が無い人は、どちらもしない。

欲があるから動くのであって、欲が無ければ動かない。それが原則だ。
では善意はどうか?
善意に欲は無いのか?

ぼくは、どんな善意にも欲があると考える。
むしろ、欲があるから善意というオブラートで包みこもうとしている。欲が醜いから隠したがっているのだ。
それは、前述の本を読むと分かる。
児童相談所・薬・輸血は儲けたいという強い欲を覆い隠すために、人助けという善意のオブラートで包み込んでいる。
あまりにも欲が強すぎて醜くなったために、それを覆い隠すための善意も肥大化し、大きくなりすぎている。赤十字という組織が、儲ける企業ではないのにあんなにも大きい組織になっているのも、そのせいだ。

欲のない善意は存在しない

では仮に、欲のない善意がありうるのかを想像してみる。

だが、ちょっと考えれば、欲が無ければ善意は存在しないことがわかる。
仮に人助けという善意を考えてみる。
何故、人助けをするのか?全く欲が無いのに、人助けをしたいのか。

ここで欲とはそもそも何か、とも考えておく。
ぼくは、欲とは「何か」を欲することだと考える。
その「何か」とは、必ずしも物やお金だけとは限らない。
人からの賞賛、あるいは自己満足。「人助けをしたい」ということも、欲と考える。なぜなら、人助けをしたことによる自分の満足感が欲しいと考えるからだ。
欲が無いというのは、自己満足も一切ないものと考える。

ここで話を戻す。
自己満足という欲もなしに、人助けをするか?
答えは、しない、ということになる。
なぜなら、人助けをする理由が無いからだ。
人助けをするのに理由だなんて!と思われるかもしれないが、実際人助けをしない人は珍しくない。それは、自分の欲を満たすことにつながらないからだ。
理由なく人助けをするという人がいるとしたら、それはよほど人前では口に出せない欲を隠しているということ。むしろ怖い。

御大層な善意を語る人ほど、その身におぞましいほどの欲を隠している。
世界を救うなどと声高に語る人ほど、裏でやっていることはえげつない。

善意を断ったら怒られる理屈

あなたにも、こんな経験はないだろうか?

「手伝う」という申し出を受けたけど、そこまでしてもらうのは申し訳ないから断った。そうしたら、「人の善意を断るだなんて!」と怒られたことが。
そうしてあなたは、断ったことへの罪悪感を持ったかもしれない。

だが、ちょっと待ってほしい。
どうして、善意を断って怒られなくてはならないのか?
善意とは、断ると怒られるものなのか?

しかしこれも、「善意には欲がある」という仮定で考えれば辻褄が合う。
「手伝う」と申し出た人の中には欲があった。欲を満たしたくて、「善意」として申し出た。
しかし、断れた。これでは自分の欲を満たすことができない。
欲を満たせなくなったから、その人は不満を覚え、怒りを表したのだ。

もう少し具体的にしてみる。
例えば、「感謝されたい」という欲をもつ人がいる。
その欲を満たしたくて、手伝いを申し出る。手伝いを終えれば、「ありがとうございます」と感謝されることを期待して、だ。
しかし断れた。
これでは感謝されない。
「感謝されたい」という欲が満たせない。感謝されるはずだった期待が裏切られた。
だから不満を覚える。満たせなかった欲が、怒りを生む。だから怒る。

善意の申し出を断ったら怒られる理屈とはこういうことだ。
欲があるから、善意を申し出る。
だから、断られると怒る。ぶつくさ文句を言う。
怒りが激しい人は、それだけ善意の裏に大きい欲を隠しているということだ。
そういう人の善意をまともに受け取ると、後々どれだけその人の欲を満たすために使われるかわかったものではないので、気を付けたほうがいい。

恩着せがましい人も、同じ理由で気を付けたほうがいい。その人の欲を満たすために、どれだけ顎で使われるかわかったものじゃない。

善意の裏の欲を読み取る

ここまで読んでくれた人ならもうわかるだろう。
人は善意だけで動くことはしない。
欲があり、その欲を満たすために善意というカモフラージュを行う生き物であることが。

では、人の善意にどう対応すればいいのか。
それは、その人の善意の裏の欲を読み取り、後々自分の害になりそうなら、その善意を断ることだ。

では、害になる欲と、害にならない欲とは何か。
それは、自己満足するタイプか、他者満足するタイプのどちらかということだ。
自己満足なら、あなたの害になることは少ない。しかし、他者満足ならあなたを巻き込むことになるので注意すべきだ。

自己満足の欲とは何か。
簡単に言えば、他人に何かしたこと自体に満足を感じることだ。
例えば、誰かの手伝いをしただけで満足するタイプ。
こういった人は、他人の手伝いをしただけで自分の中で喜びを感じ、その時点で満足する。これが強い人は、感謝の言葉も要らない。
他人に感謝されたいという他者満足が無いタイプだ。

誰かにプレゼントをすることに喜びを感じる人もいる。
自己満足する人は、相手が受け取ってくれるだけで喜ぶ。そこで完結する。
しかし、他者満足の人は、お返しを求める。お返しが欲しくて先にプレゼントをする。だから、お返しが無いと不満だらけ。

自己満足が自分の中で完結するタイプなら、他者満足は他人に何かされたい、お返しを求めるタイプだ。それは物だけに限らない。
「助けてあげた」ことをいつまでも酒の席の肴にするのも、他者満足だ。誰かを助けたということを他人に認めさせ、他人に褒めてもらいたいのだ。
その助けた相手にとっては、助けられた事情を何度も掘り返されるのでたまったものじゃない。
このようなタイプの人の善意は受け取らないほうがいい。
こういう人ほど、断ると怒りやすい。「あなたのためを思って~」など恩着せがましいことを平然と言ってくる。
なんのことはない、自分のためにあなたを助けようとしているだけなのだから、遠慮なく断ってしまえばいい。

どんな善意にも思惑がある

善意は欲で動く。
思惑があるということだ。
思惑の無い善意はありえない。
その思惑がどんなものなのか、読み取らないとあなたはただ食われるだけ、搾取されるだけの存在になってしまう。

赤十字しかり、製薬会社しかり。
人類救済などというお題目を掲げておりながら、その実態は人から搾取することしか考えていない。
お題目が立派であればあるほど、裏の欲は醜い。

逆に、大した欲もないと、善意もたいそうなものにならない。
ある意味バランスが取れていると思う。

「あなたを助けたい」と言ってくる人がいるなら、その人にどんな欲があるのか、どんな思惑があるのか、読み取ってほしい。
あなたの時間か、労力か、資産かを奪い取る思惑が見えたのなら、その善意に乗るべきじゃない。

自分の善意も疑う

この記事もそうだ。
ぼくはこの記事を「善意」で書いたのか?
だまされる人が減ってほしいという善意で書いたのか?
その裏は何か?
・・・正直にばらせば、「善意を信じないぼくかっけー」という虚栄心を満たすために書いてる。
ついでに、誰か↑で紹介した本を買ってくれれば紹介料も入る。
こんな記事をぼくは書いた!という自己満足も入ってる。
これが、ぼくの善意の裏側。思惑。

あなたも、善意でなにかしようと思ったのなら、その善意の裏にどんな欲があるのか、見直してみてもいい。
とくに、善意を断られて感情的になったときは強い欲が隠れている証拠だ。
見直すチャンスと言ってもいい。自分が、どんな欲を持っているのかを。

善意が悪いと言いたいわけでもない

こんな記事を書くと、善意が悪いものみたいに思われるかもしれないが、そうではない。

善意は潤滑油のようなものだ。
善意が無く、全て欲望をさらけ出すだけの世界では、何事もギスギスしてしまう。
善意というオブラートに包みこむことで、世の中が回っているのも事実。
包み込みすぎて、完全に隠しているのは例外だけど。

建前と本音の使い分けと言ってもいいかもしれない。
一切善意を持たなくなると、間違いなく生きづらくなる。
理想的なのは、お互いに相手の思惑を察知しつつも、それに納得できるなら、応じることだろう。
「本当はこういうことを言いたい(したい)んだろうなぁ」と察しつつ、それに気づかないふりをしてあげる。

善意は無条件で信じない。
必ず裏に相手の思惑が存在する。
その思惑を読み取り、うまく立ちまわれるようになっていこう。


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