見出し画像

海の夢をよく見るという話

自分は幼少期から海とはそこまで縁があったとは思えない。
例えば年に1回程度、夏に家族で海に行ったり、母方の実家(東北の海沿い)へ祖父母に会いに行った際に立ち寄ったりしたくらいである。

自分の故郷、北海道の東川町は旭岳という山の麓にあり小学生の時に登った山でもあるので、なんなら山の方が身近な存在であった。

にもかかわらずだ。
そんな自分がよく見る夢は「海」がモチーフであることが多い。
先日の記事、「海の国の夢のおはなし」もそのひとつである。
内陸育ちで上京後も特に海水浴など行っていない自分がなぜ海の夢などよく見るのか?

もしかすると、自分にとって海とは「未知」や「不確か」なものの現れなのではないだろうか。
自分にとっての未知の存在や空間。今挑んでいる将来の夢。それらに対する期待、不安、畏れ、憧れなどといった心理が夢の中で海を纏って現れるのではないだろうか。

大抵の場合夢に出てくる海は深く、水底が見えない。当然足も着かない。
鋭い牙をそろえた海竜やゆったりと泳ぐ鯨など生き物が登場することもあるがそのスケールは遥かに大きい。

今朝も海の夢を見た。
深く、下へ行けば行くほど暗くなってゆく海。
そんな海に突然落ち、気づけば周りには大きな鯨たちの群れが悠然と泳いでいる。
普通ならパニックになりそうなものだが、不思議と心は凪いでいる。
海の中なのに水の抵抗は無く呼吸もできたし、鯨たちを恐ろしいとは感じなかった。

先日見た海竜たちの死んだ、あのくすんだ色なのにやけに鮮やかに見えた海とは違ってどこまでも深く澄んだ青。
何故だか懐かしさすら覚える海だった。

不思議と恐怖や焦燥を感じなかった今朝の海は先日の海と何が違うのか。なぜ違ったのか。

希望的観測から言えば自分の中で少し物事の見方が変わったのかもしれない。
将来の夢や先をゆく先人たちについて、畏怖よりも親しみが勝ってきたのかもしれない。
とはいえ今朝の夢への解釈はあくまで「こうであったら良いな」であり、いつもより幾分か調子が良かっただけかもしれない。
これら海の夢たちの分析にはもっと多くの夢を見る必要があるだろう。

けれど、今の先の見えない時代を生きる自分を勇気づけるためにも、今朝の夢はこれから少しずつ海の深さにも海に住まう者たちにも自分が馴れてゆくという未来の暗示だと信じたい。

そして願わくば多くの人々が悩みながらも瞬間瞬間を必死で生きるこの情勢が少しづつでも良くなっていく暗示であってほしい。
ちっぽけな自分ひとりのたかが夢ごときに乗せる期待じゃないが、そうであってほしい。

いつもの戯れ言。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?