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心に灯をともす

内が明るければ、外にもあらわれる。
自分で意識していなくても、きっと内なるものが、良くも悪くも外に反映することを体験しています。
内なる平安がいつも皆様にありますように。

昔は、ぼろは着てても心は錦~という歌詞を、そのまんま信じてた時もあったけれど、やはり人は、外見で判断されますね。自分も一瞬の見た目で、人をこういう人だとジャッジしてしまいます。
『ボロは着てても、心は錦』とは・・

歌手の水前寺清子さんの大ヒット曲「いっぽんどっこの唄」(作詞: 星野哲郎、作曲: 富侑栄 )の歌詞からです。この歌詞の中に「ぼろは着てても 心の錦」というところがあって、今も体に染みついているのですが。
心は、ではなく、心の錦、が正しいというのを今日知りました!

「心の錦」がどのような意味をもつのか、まずは元となった言葉が「被褐懐玉(ひかつかいぎょく)」ということです。
なかなか難しい言葉ですが、これは古代中国の思想家・老子の著書『道徳経』70章にある「是以聖人被褐懐玉《これを以って聖人、褐(かつ)を被(こうむ)り、玉(ぎょく)を懐(いだ)く》」という一節です。

「褐」は、粗末な着物のことで、聖人は粗末な着物を着ていても、懐(ふところ)には玉を持っている。つまり、「被褐懐玉」は、見かけはみすぼらしくても、内面には玉(すぐれた徳)を持っているということを説明したものです。

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内面に玉を持っているならば、本人が隠そうとしても、それは外に広がっていくと思いました。そんな方って素晴らしいですね。
内面が輝くと、外見も変わってくるでしょう。

水前寺清子さんシリーズが続きますが・・・
「いっぽんどっこの唄」歌詞
歌:水前寺清子
作詞:星野 哲郎
作曲:安藤 実親

ぼろは着てても こころの錦
どんな花よりきれいだぜ
若いときゃ 二度ない
どんとやれ 男なら
人のやれない ことをやれ

涙かくして 男が笑う
それがあの娘にゃ わからない
恋だなんて そんなもの
いいじゃないか 男なら
なげた笑顔を みておくれ

何はなくても根性だけは
俺の自慢のひとつだぜ
春が来りゃ 夢の木に
花が咲く 男なら
行くぜこの道 どこまでも

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