『休薬期間中。80日目の2』
『長坊主』の限界をかんじている。
私の考えていた『長坊主』の世界はもっと自由だった。毎朝のシャンプーもスキップして、手間いらずで、すがすがしく過ごせるはずだった。湿度にも負けない。べたりと髪がへこたれる事のない。そんな日常を想像していた。じっさいはしっかり、髪がへこたれている。
すべて、私の軟毛がわるいのだ。なぜ、軟毛に生まれてしまったのだ。
梅雨から夏は、『短坊主』でしか私の軟毛は自由になれないのか。不自由極まりない。『長坊主』も、濡れタオルなどで、ごしごしすれば5分で蘇る。しかし、私の望みとはちがう。帽子を脱いでも、ヘルメットを脱いでも、一切の手間のいらない、『長坊主』を欲していた。秋冬だけなのか。自由になれるのは。
週一で『長坊主』の『維持刈り』を続けるという、方法もある。それは、めんどくさい。でも洗い立ての長坊主は好きだ。『長坊主の維持刈り』でゆこうか。語としても、まあまあ面白い。『秀吉の刀狩り令』のようでもある。語としては悪くないのだ。『長坊主の維持刈り』は、心情としては『長坊主の意地狩り』にもなってきた。なかなかの語だ、迷う。
ああ、生まれた。生まれてしまったのだ。
このエッセイを書きながら、たった今、『夏場の短坊主』という語を、生んでしまった。さて、どうしよう『夏場の短坊主』という語が、いい。『夏場の短坊主』は、綺麗な語だ。小説や、映画のタイトルでもいけそうだ。ああ、語がうつくしい。『長坊主の維持狩り』よりも、遙かに『夏場の短坊主』のほうがいい。語で決めよう。
ふむ。私は『夏場の短坊主』でゆこう。そして秋には『紅葉の長坊主狩り』でゆこう。うつくしい語を生んでしまった私の宿命だ。
刈ろう。刈ろうぞな。コインランドリーにもいって、部屋は夏仕様になった。刈ろう、刈ろうぞな。新聞紙を用意しよう。
『夏場の短坊主』刈って参りました。
すがすがしい。ついでにすね毛もいきました。まあ、ほぼ全身いきました。
ところで、『夏場の短坊主』は、まるで、候孝賢の映画の邦題のようだ。いい語を生んだ午後の一時であった。