「見た」ことを譲らない語り

この前、数人の友人と久しぶりに集まった。仕事以外の用事で、人に会うのは何カ月ぶりだろう。久しぶりの息抜きになった。

今、奈良県橿原市の今井町というところで開催中の芸術祭に参加している。集まった中には、展覧会を見に行ってくれた人もいて、そのことが話題にあがった。

他の同席者に見た人も見ていない人もいて、こういう場合どんな作品だったのかをある程度共有する必要がある。それで、誰か見た人が説明を始めてくれる場合も多々あるけど、だいたい開始30秒ほどで、「作った本人が説明すれば」といって作家本人が話す流れになるのがほとんどだ。

ただ今回集まった中にいた批評家の西田さんは完全に違っていた。まず、展示場所となった建物の風合い、部屋の間取り、床のデティール、壁にあった、かつての住人が残したものなど、彼が認知した空間の説明から始め、それはまるで、作品という中心の外堀から順に味わっているかのようで、とても特殊だった。

そして、その語りの中にちらほらと作品本体の気配が見えてきた頃、ほんの一呼吸分の間があった。その時私は「あ、私が自分で作品の説明をする時がきたな。」と思い、準備をした。

しかしすぐに、西田さんは「ここからが面白いところよ」と言わんばかりに、饒舌に作品の中心へと入っていった。映像の中に出てきた人の人数、年齢や性別、そこで語られている会話。何を食べていたのか。横の部屋のインスタレーションの中に置かれていたもの、そこで起きていたこと。さらにもうひとつの部屋に掲示されている写真について。どこの写真なのか、どこから引用しているのか。


そう、彼は私に譲らなかった。

それが誰の作品であろうと、作家本人が真横にいようと、「見る」ことのプロとして(あるいは、それは全ての鑑賞者の権利だと主張するかのように)、「見た」ものについてテンポよく話し続けた。それはおそらく私本人の描写を超えたものだったと思うし、これまでどんな人もこんな風に語ることはなかった。私は他の同席者と同じく、ただただその語りに聞き入った。


西田さんが私に突きつけた、「見た」という事実。

それはおそらく、ビデオの中の、とある気に食わない箇所も見たということだろう。もちろん西田さんは言わないし、全体的には好意的な印象を持ってくれたらしい。

でも、私にとってそれは批評家から作家への暗黙の挑戦状のように鋭かった。

久しぶりに面白かった。




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