子供の将来を決定づけるのは、学校ではなく家庭文化だ。

行動力は、おっちょこちょい者への神様からの贈り物。
・テーマを追求する。没入最高。
・行動力がある。跳躍最高。
・粘り強く取り組む。めげない精神力最高。
このところ、坊やの進学に向けて学校説明会にいくつか参加したのだが、いずこも育成したい人物像は通底していた。私なりに煎じ詰めれば、上記の3点となる。
不遜を承知でいうが、この理想の人物像は私そのものである。
私の人生のテーマは「家族文化と自己教育」である。これを、仕事とはとくに関係なく、30年近く探求し、文章や語りで発表してきた。
趣味でも、JR全線完全乗車をはじめ、数々のコンプリートものに没入してきた。
行動力もある。学生時代以来、法人を10もつくってはつぶしてきた(懲りずに、現在も1つ設立準備中)。
結婚は3度目、落選は2度。被告も2度経験した(行動力の代償ではないか)。
もっとも私の場合、行動力というより軽率、あるいはおっちょこちょいといったほうが的確かもしれないが。
それはともかく、これだけ顰蹙をかって、これだけ修羅場をくぐれば、自然と打たれ強くもなる。
さて、これらの特性は、はたして学校で身につくのなのであろうか。
すくなくとも私についていえば、答えはノーである。
「没頭」は体質であろうし、「テーマ」は宿命であろう。「行動力」については幼稚さや強欲がベースにありそうだし、「打たれ強さ」は経験によって鍛錬された後天的な特性である。
いずれにも、学校が絡んでいるとは思えない。また、学校の教育目標足りえるとも思えない。
では、なぜ「学校」はこういう人物育成を目指そうとするのであろうか。


その答えは「学校にとって困難な目標だから」ではなかろうか。
考えてみればいい。余裕で到達できることを目標にするだろうか。現状においては至らないが、目指していこうというものを目標として掲げるものだ。
「読み書きそろばんができる人材を育成します」なんてのは目標にもならない。到達が容易だからである。
そもそも「看板」というものは、無い物ねだりと相場は決まっている。
北朝鮮は朝鮮民主主義人民共和国と「民主主義」を謳うし、いわゆるブラック企業の経営理念は崇高だ。
我が家が「平和と繁栄」をモットーにしているのは、放置すれば内紛の絶えない転落中流になりかねない状況だからであり、すでになし得ていればそんなことを標榜することはない。
学校が達成目標として、さまざまな指針を掲げること自体は尊い。だが、それはあくまでも方向性なのである。
教育方針をみて、我が子をここに預ければ大丈夫。いずれ、かくのごとき人材に育つと考えるのは早計である。
我が母校・桐朋高校では「桐朋生は、紳士たれ」と、ことあるごとに校長先生がおっしゃっていたが、私はまったく紳士になれなかった。
学校が人格に与える影響度など、家庭の百分の一にも満たないのではないか。私の下品さは家庭文化に起因するものであり、母校のせいではない。
学校ショッピングに汲々とするより、家庭文化を見直すほうが先決なのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?